ICカード③
微かな声になっていた。
「……か…………」
耳が遠くなっていた事よりも、遠くに自分が行ってしまったことが要因だと思えた。自分の意識は体に向かって歩いているつもりでも、どこに体があるのか分からない。
遠くなったのかな?近くなったのかな?
「よ…………」
とてもわずかな震動でも感じ取れる。
あっちかな?あっちだろうね。
意識は方向を決めて歩いていく。徐々に震動が伝わりやすくなる。もう少しかも、って1人から脱却を逃れるよう。意識は本体に近づいていく。その時がやってくる。
「ううっ……」
「謡歌!」
暗い道を歩み続けてから、抜け出した光りの中で映ったのは見知らぬ子だった。
「う…………」
「謡歌!僕だよ!」
長い眠りから目覚めた謡歌を呼んでいたのは水野水羽だった。
謡歌の手を握って、彼女の回復を待ち望んでいた。
「?」
「水羽だよ!分かる?」
「……?え……」
意識が回復しても、記憶整理にはまだ早かった。操られたり、素の自分だったり、拷問を浴びせられたり。また、自分が一体何者かまでも思い出すことに……
「よ、謡歌……」
「謡歌!」
自らの名前に苦心するほどだった。意識を取り戻し、目を開けても、まだぼんやりとしている。春藍達も酷い倦怠感に見舞われていた。
「あたしは」
それ以上に酷い状況であり、その名を呼んでくれた水羽との記憶もゴチャゴチャになっていた。彼女の記憶はまったくといいほど、浮かび上がってはくれなかった。
ぼんやりとした白い色を提供し続ける脳に、奥深くあるものを求めた。
「……誰?」
「謡歌だよ!」
水羽は何度も訴える。しかし、謡歌はまったく耳を貸さなかった。体が誰かの発言を強く拒んでいた。分からない者の恐怖を目覚めた時に知っていた。
「うっ……ううっ」
「だ、大丈夫!?」
「こ、来ないで!来ないで!」
「謡歌……」
心配そうにする水羽を、弾くようにして毛布に包まる謡歌。ぼんやりとしていた意識から、鮮烈に突き刺さる現実にやってきたのだ。フラッシュバックが体中に起こって、モゾモゾと毛布の中で動き出す。
【お兄ちゃん、藺、藺、ヒュール、アルルエラ、ライラ、藺、お兄ちゃん、アレク、お兄ちゃん、お兄ちゃん、アルルエラ、ヒュール、ヒュール、ライラ、藺、藺、お兄ちゃん、お兄ちゃん、アレク、お兄ちゃん、夜弧、ロイ、ライラ、アルルエラ、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん】
自分を知っている人物の名前が一気に、体の中から脳に流れてきた。
染み付いていた。染み付かされていた。様々な記憶も断片的に流れ、復元されていく。
「うああっ、あぁぁっ」
脳は強い刺激に痛みの指令を送って、体に染みた記憶を止めようとしていた。苦心の声と動きに水羽も見ているだけ、心配しているわけにはいかなかった。
「僕がいる!謡歌!何でも良いから言ってくれ!」
毛布を引っ張り剥がし、謡歌をまるで押し倒したかのように両腕で動きを止めてしまう。少々強引でドキッとしそうな行為であっても、お互い真剣に今を考えていた。
「言って欲しい、僕を頼って欲しいんだ」
水羽はあの頃の謡歌がいなくなったとしても、謡歌を求めていた。
涙が溢れ出しそうだった。謡歌には今、こうして必死に声をかけてくれる人をよく思い出せなかった。それでも、まだ自分1人では不安ばかりで水羽に託した。
「お、お兄ちゃん」
「!」
「あたしにはお兄ちゃんがいたんです!お兄ちゃんを、お兄ちゃんはどうしてますか!?」
当然であるが、謡歌の兄。春藍慶介の事は知っている。すぐに答えた。
「大丈夫。お兄ちゃんならいる」
抱きしめながら、すぐにでも謡歌の気持ち応えたかった水羽だった。
「すぐに連れて来るから。ゆっくり、謡歌は謡歌を捜して」
「は、はい……」
意識を取り戻した謡歌にしたら分けが分からないことばかりだろう。しかし、水羽は自分じゃなくても、きっかけを考えてくれる。きっとそれからでも、また友達でいられると思うんだ。
◇ ◇
「謡歌が意識を取り戻したの!?」
その言葉に、春藍も当然喜ぶ。兄だった一面もあるが、謡歌に辛い目を合わせてしまったのは自分の力不足にもあったからだ。
ライラから訊かされて、嬉しそうな顔をするも
「とはいっても、謡歌はまだ記憶が混乱してるみたい。下手に刺激しすぎないでしょ」
「え?」
「水羽から聞いた限りよ。今はゆっくりと思い出している状況だから、変なことを言ったりしないでよ」
「そうですね、春藍様はそこのところ注意して欲しいです」
ライラだけでなく、夜弧も合わさって春藍に注意を喚起する。
謡歌が春藍を呼んでいることが事実であり、今は誰の言葉にも耳を貸さないだろう。春藍の行動と第一声がとても重要なのだ。
「あの」
「行けよ、春藍。妹が目を覚ましたのならな」
「アレクに気を遣うな。どうせ、無駄にならぁ」
アレクはさすがに製造の現場から離れることはできず、ロイはまだ農地開拓のための護衛の任が残っている。
「う~~ん」
とはいえ、春藍。
謡歌に掛けられる言葉はかなり限られていると思っている。
春藍と、謡歌の考えにはズレがある。春藍は幼少時に家族を見捨てでも、技術開発局に向かった経緯が特に大きい事だろう。
記憶が曖昧な状態の妹に会って、……
ボォンッ
「なに難しく考えてるのよ!」
「ライラ。……思い切り頭を叩かないでよ」
「謡歌に会うだけ、謡歌が元気になると思うんだから。変な気の回し方はいらないのよ」
春藍を言葉で謡歌の方へ運んであげるライラ。春藍はまだ冴えない顔でいて、頭の中は妹よりもICカードの製造に携わりたかったと考えているのだろう。
彼にとっては家族よりも、創造の方が好きだから。
春藍はライラと夜弧の3人と共に謡歌のところへ向かっていく。
「あ、ヒュールさん」
「おお。春藍くん……いや、慶介くん達か」
病室手前の廊下にいる男。
謡歌の病室に訪れていたのはヒュールも同じ。彼の教え子でもある謡歌が目覚めたとあっては、すぐに駆けつけるのだ。むしろ、肉親である春藍の動きがあまりにも遅すぎると言って良い。
「謡歌、君のお兄さんが来たよ」
まだ病室に入って来ていないのに伝えるヒュール。するとだった。ベットから飛び出す音と共にヒュールを通り過ぎて出てくる謡歌がいた。
「お兄ちゃん!」
「よ、謡歌」
長く意識不明だった謡歌がいきなり走ってきたことに春藍も、周りも戸惑った。
しかし、そんな戸惑いを振り解くかのように謡歌は止まらず、泣き出しながら春藍に抱きついたのだった。
「お兄ちゃん!!お兄ちゃん!!」
「よ、謡歌?」
「寂しかったよ!お兄ちゃん!お兄ちゃんだよ!!」
お兄ちゃんの連呼。春藍からしたら、本当に謡歌なのかと疑うほどであり、ライラや夜弧、ヒュール、病室にいる水羽からしたら、春藍が何かしていたのではないかと疑った。
「良かった!良かった!無事なんだね!お兄ちゃんだよね!」
「そ、そうだけど。謡歌こそ、大丈夫だったか?」
少し、引いている周囲の皆様。春藍からしたら、この視線の方が辛かった。
「会いたかったよ。どこにも行かないでよ、お兄ちゃん……」
「う、う~~ん……」
こんな展開は春藍も、周りだって考えていなかっただろう。