わーー!わーー!わーー!
水羽の鼻が嗅いだのは人間の匂い。さらに酷く言うと
「食い物」
食ったところでこれだけの肉体の損傷を補えるわけでもない。僅かな喧騒の音も掴み、朱里咲達の前に現れた。
「あ、あ、あいつまだ生きてんの!?」
朱里咲と負けず劣らずのボロボロな体。戦えるとは思えないその姿。ライラも夜弧も唖然。
「水羽!その七三のスーツ男を殺せ!!」
朱里咲、水羽が間に合うまでの時間稼ぎに成功。意識が遠のきそうでも、朱里咲の声と言葉を理解した水羽。しかし、彼女の目には細かい区別ができるものではなかった。
どれとか、どいつとか、分からずに敵を攻撃するだけであった。
「あー………」
「戦意が見えませんね」
水羽も変わらない。戦える余力などない。朱里咲同様、数で押せば崩れそうな脆さ。
「そーゆう輩はミスをする。早く楽になってもらいたいです」
水羽を倒せば終わる。人間達が、最後の脅威に立ち向かうように水羽という怪物に圧し掛かった。
"潰れろ。化け物。"
藺だけじゃなく、藺が操っている人間達も。心があればそう思っていただろう。
持って生まれた肉体の強さは人間の器じゃない。朱里咲とは違う極致にいる存在。不死身と違わぬ、戦闘スタイル。
「えっ」
圧倒的な物量差を覆すパワー。
歯で食い契り、握力で筋肉と骨を粉みじんにする。人の山が徐々に崩れていく。地面を掘るモグラのように水羽は中で蠢いていた。
藺はその状況を瞬時に察知した。操っている人間が次々に死んでいく。見えない中で死んでいく。
「ちょ、ちょっと!」
藺は相手を侮っていた。自分1人ではこんな瀕死の4人でも、戦うことができない非力な存在。
メテオ・ホールをまだ残しておけば、ライラ達の逆転の目はなかっただろう。
「がはぁっ、あー………」
人間の山から這い出てきた水羽。明らかな化け物。
「よ、弱りましたね」
水羽を倒すことはできるだろう。まだまだ社蓄共のストックはある……あるが、
「夜弧!あたしにあんたの魔力を頂戴!あいつはあたしが殺す!」
「わ、分かったわ。でも、待ってよ」
ライラと夜弧が動き出すのが早いかもしれない。ライラは水羽と朱里咲と違って、寝転がっていても戦うことができる。あの強力な能力に立ち向かうのはリスクが大きい。
水羽も戦える状況でライラを相手にするのはもう、私の詰み……。
「わーー!わーー!わーー!」
藺、焦りのあまりにマヌケな声を発する。死ぬわけにも、負けるわけにもいかない。恥などどーでも良い。この際、どーでもいいに決まっている。
「と、止めてくれませんかね!あの化け物!どー見ても死んでるでしょ!?でしょ!?」
「……焦ったのか?」
逃亡が理想!別の異世界に逃げ込むのが理想!!
ライラが回復するまでに逃げなければ殺される!
「うわーー!その化け物と、他3人をなんとしても足止めするんだ!お前等、社蓄共!私のために働いて死ね!」
藺、敗走!あっという間の判断であったが、
「逃すか馬鹿!!」
夜弧に魔力をよこせというのは攻撃用のためであった。ポツポツと雨が降り始め、藺の位置を正確に知ろうとしていた。
「ぎゃあああぁぁっ!」
藺は悲鳴を上げながら、社蓄共を出し続ける。ライラの雨による索敵を回避するためのダミーであった。しかし、その数に限りはあるし。
「雨に当たった奴。全員、雷に撃たれて死ね」
夜弧の魔力を貸してもらえれば十分な攻撃ができる。藺が走ってライラの攻撃から逃れる術はないだろう。
少しでも時間を稼いで、別の異世界に逃げなければいけない。
水羽の足止めは社蓄共にさせた。ライラの足止めを考えろ。頭良いだろう、私。
万が一、返り討ちにあった時の命乞い手段は色々あった。
藺がまだ優位であっても、生き残れるかは微妙なラインが逃げに回っただろう。
話し合いをよく理解している。
言葉とは有能であるが、暴力の前では無力になる。話しを聞いてくれるだろうが、夜弧の魔力がライラに渡れば全ての商談など打ち切られ、敗北する。
「止めてください」
藺が自分が確保した中で、捨てるには惜しい人材を放出した。
「よ、謡歌!?」
「いきなり現れた!?」
ライラと夜弧、朱里咲の前に現れたのは、包丁を自らの首に向けて立つ謡歌であった。この場にいる全ての人間が関係を持っている者を人質にする作戦。
「藺様を攻撃すれば私は死にます」
とはいえ、謡歌が死んでしまえば躊躇もなく、怒りを込めて藺を殺害するだろう。まだライラが怒りで爆発する前に勝負を賭けたのは藺のファインプレイ。
「ライラ……」
「夜弧!躊躇しないで!私の雲が藺を追ってる!」
夜弧の魔力がライラに流れる前だった。ライラと違い、夜弧は冷静と平静を保っていた。躊躇しているとライラは思っているだろうが、それはライラがあまりにも感情的になっていたからだ。
「春藍様の意識が戻ってないのよ!仲間の身内を軽々と殺せるの!?」
「っ………冷静過ぎるわよ、夜弧……」
藺の命をライラに委ねるのではなく、夜弧に委ねたことは命を助けた。
「………………」
本来ならば、あなたと戦うのは私でしょうね。藺様。
ですから、ここは一歩退いて頂きたい。あなたがまだこの世界で必要であることは分かっています。
夜弧に私情があったこともある。藺に対する、ある気持ちを感じていた。
沸々と。哀する感情を込み上げさせる。夜弧は言葉を使った。
「謡歌ちゃんを返しなさい!藺!!」
謡歌を通して、逃げる藺はライラが攻撃できないと知っただろう。
「あなたの命を助けられるのは私だけ。あなたに稲妻が落ちるのは分かるでしょ!?」
夜弧が冷静だからこそ、その賭けのテーブルが成り立ったのだろう。
ここで謡歌を失うわけにもいかない藺。謡歌だけでも取り戻そうという夜弧。
逃げながら思うこと。
「これは嬉しいですかね」
まさか、自分の命が少女1人の命とつり合えるなんて思ってもみなかった藺。
対等な人間なんて存在しない。
ここは身内の人間だろうが、巨悪を葬るべき場面。そうするべき場面。愚かな仲間意識だ。
「藺様は了承しました」
「本当にそうなるまで分からないわよ!夜弧!何言ってんのよ!?」
「いいから!大丈夫。謡歌ちゃんはきっと置いていってくれる」
私達同様、酷い精神汚染を浴びたのは確か。”トレパネーション”で治療すればちゃんと謡歌ちゃんを治療してあげられる。
「ふぅ、話に入れなくて残念だ」
朱里咲は夜弧達のやり取りを眺めながら体の治療を行なっていた。その横で未だに水羽が無意識ながら暴れており、社蓄共相手に善戦をみせる。しかし、水羽の意識と藺の位置が分からない水羽には藺を倒す術はもうないだろう。
藺は完全に逃げ切った。