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激薬Gのススメ

作者: ハルマ

世の中には、常識ではとても考え難い代物が当然のように日常的に販売され、扱われている。そんなものは誰も買わないと、かつては当然のごとく私も豪語する側の口であった。私に、偶然あの日が訪れるまでは。

 俺は、数年前まで某大手製薬会社に勤める勤勉なセールスマンとして世間に身を置いていた。毎日が何の変哲もない平凡な日々。そんな穏やかな生活がこれからもずっと続いていくのだとそう信じ込んでいたのだ。セールスマンといっても、今や世間の風潮もあってか飛び込み営業はめっきりご無沙汰の状態にまで落ち込んでしまい、会社で仕事をすることと言えば、試験済みの新薬をネット上に上げるばかりの作業になっていった。そんなこんなで、今まで務めてきた会社の中の俺のポジションは平社員どまりだ。それでも、新入社員としてこの製薬会社に入ってきたころは、心に満ち溢れんばかりあったやる気と希望を持ち合わせていた。そんな世間知らずの俺が社会に身を置いてから数年、今では、会社での仕事といえばマニュアル化された仕事をただ黙々とこなしていくだけの作業をしている。そんなある日、久しぶりに課長にひとり呼び出された俺は、課長の待つ応接室に向かっていた。大きく俺の前に立ちはだかるその応接室の扉を開くと向かい側のソファーに課長がどっしりと重い腰をソファーの上に下ろし座っていた。意味もわからないまま俺は、課長の前に立った。「課長、お呼びでしょうか?」すると課長の指示で俺は向かいの椅子に座ることになった。これから何が起こるのか俺には皆目検討が付かなかった。俺はただただその場のただならぬ雰囲気に固唾を呑んだ。


俺に、何の変化も訪れない日々が続くある日、会社からの命令で溜まりに溜まっていた会社の有給休暇を消化すべく、俺は無理やり理由をこじつけて休暇を取ることになった。休暇を取ったからといって何をするわけでもなく、ただ家の中で時の流れるのをいらいらしながら過ごしていた。俺にそんな時間が耐えられるはずもなくて、気がつけば俺は大きな繁華街の中に身を投じていた。こんなご時世、繁華街といっても大衆で

にぎわっているはずもなくただ町中が騒音で埋め尽くされている。そんな通りを横目に俺は路地裏へと、足を踏み入れていった。最近はこの辺りもめっきり通っていないせいか土地勘がかなり鈍ってきてしまった。俺の入っていったその通りには茣蓙を敷いただけの簡易な店が点々と商売をしているように見えた。俺は、なぜか気になってしまいその通りの店、一軒一軒を見て回っている。そこに出されている店には何とも質素な雑貨や洋服が並べてあった。何と言えばよいのだろう、いわば流行り廃りのない古風なデザインの洋服だ。その隣の店には使い古されたとみられる品々がずらりと並べられている。俺にとっては特にこれといってめぼしい品は見当たらなかった。それでも目新しいものはないものかと次々に店を見て歩いた。すると、それらの店とは別の一角に、「はしもと」と布地に書かれた看板らしきものが眼に飛び込んできた。実際、怪しげな雰囲気を醸し出すこの通りよりも、もっと怪しげな雰囲気のオーラが漂うその店には、自分と同業者が店を出していたのだ。そのはしもとという店が営業している拠点の店が出している店のスペースの一角には、我々がかつて販売していた昔の薬や現在販売している薬まで数多く品物が並べてあった。俺は一応、その懐かしさを覚える薬をひとつ何気なく手に取ってみた。そして俺は、その瓶の裏に表示されている使用期限にちらりと目を通した。俺は、なぜか胸をなでおろし手に取った瓶を元の場所へと戻した。すると、店員をしている老婆が急に私に話しかけてきた。「お前さん、どんな薬を探しているんだい?」ふと頭を上げ老婆の表情を伺うと、老婆は意味ありげな表情を俺に向けて浮かべている。そして俺はとっさにこう応えた。「いえ、その最近ちょっと疲れているもので。」俺はその問いに対して少し上体をそらし、挙動不審に薬に目を泳がせていた。すると、老婆は店の奥のほうへと姿を消していった。それを見送った後俺は、何気なく並べられている薬それぞれを手にとって見た。するとその中に、見たことのないような茶色の小瓶がただ一つだけ置かれていた。瓶の裏に何のラベルも表示もされていないただの小瓶、中身は何かの錠剤のようであった。カランカラン、その瓶を俺の掌の中で転がしてみたり、立ち上がって瓶の底からすかしてみたりした。俺はその小瓶を一旦元の場所に戻し、医薬品を見定めている。俺は妙にその瓶が気になって仕方がない。そうこうしているうちに、老婆が消えていったほうからまた姿を現しながら俺にこう話しかけてきた。「どうだい?何か効きそうな薬は見つかったかい?」老婆は、台の向こう側に置かれている椅子に静かに腰を下ろした。俺をなめるような眼で見つめながら先ほど奥のほうから取り出してきたもので何か物を針と糸で拵えている。俺は熱心に悩むふりをしながらも、まるで何かに取りつかれたかのように頭の隅にあの茶色の小瓶が居座り続けている。どんなに薬選びに時間を費やしてもこの店のどんな商品を見てもどんなに薬を進められてもまるで頭に入ってこなかった。俺が店に来てから数十分、やっぱりあの小瓶が気になっていた。そして俺はようやく老婆にあの小瓶のことを聞くべくさりげなく話しかけてみた。「あの、ち」俺が話しだすとすぐに老婆も俺の話しにかぶせるように話しだした。「んあ?なんか言ったのかい?」老婆は、何か目を子供のようにキラキラさせながら俺に話しかけてきた。俺はすかさず老婆に話しかける。「あ、じゃあその二列目に並べてある茶色の小瓶を…」とおれは指差した。老婆は眉と目じりを少しだけ下げ、悲しげな表情を浮かべたかと思うとすぐにその小瓶を手に取った。「あぁ…、これかい?この瓶は、本当はここに並べるような代物じゃないんだよ。お前さんも気がついただろう?ラベルも何も貼っていないのさ。要は不良品の一部さ。」老婆は悲しげな眼を俺から逸らし、また何かを縫っている。俺は少しの沈黙の後にそれでもいいからと、その小瓶を老婆から奪うように半ば強引にその小瓶を入手することに成功した。出かけた先から家に帰り、自宅の玄関に無造作に脱ぎ捨てた靴は両足を交差させた。俺の一度動き出した歩みは止まらない。玄関マットに足をとられながら廊下を進んでいく。玄関先で着ているジャケットのポケットに手を入れる。そして老婆から半ば強引に手に入れた小瓶を取り出してみた。ジャケットをハンガーにかけてから階段を下り、地下室へとずんずん進んでいった。途中途中にある階段のライトを一つ一つ点けながら降りていく。そして廊下に置かれたロッカーの中から白衣を取り出し、白衣に袖を通す。テーブルの上に並べた器具を一度水洗いしてから、俺はテーブルの上に置いた先ほど買ってきたばかりの小瓶を手に取った。見れば見るほど不可解な薬だ。早速俺は瓶の中身を試験管に移し、あらゆる策を練って実験を試みた。その薬は実験を始めるとすぐに化学変化が起きた。それと同時に化学物質を通さない特殊なマスクをしている俺でさえもせき込むような物質が出てきたらしい。フラスコの中から立ち込める嫌な物質は瞬く間に密室の部屋を埋め尽くしていく。俺は急いでドアというドアを開け放した。その空間にいると、しだいに目がしみて涙が後から後からあふれてきた。どうにかこの場所からいち早く出ようと俺は匍匐前進をしながら出口のほうへと進んでいく。もう、何年も掃除をしていない床のごみが衣服に付着し、純白の白衣が真っ黒になった。俺はそんなことはなりふり構わずドアのほうへずんずん進んでいく。いまだフラスコの中から立ち込める煙は収まるところを知らない。俺は思い切り腹の底から搾り出すような感じで声をあげた。しかし、そこから先の俺の記憶はまったく残っていない。俺は床の上でそのまま気を失ってしまっていたらしい。目が覚めると地下室の出口付近に横たわるようにしてうつぶせになっていた。頭が少しクラクラするほかは、別段他に異常は見当たらない。壁伝いに歩いてドアノブに手をかけて部屋の外へと出て行き、お勝手でコップ一杯の水を口に含み、また研究室へと向かっていった。

たまの休暇は光のごとく過ぎて行き、また現実の世界では普段通り、会社に出勤している。会社に仕事をしに来ていても家に置き去りにしているGのことが気になって、おちおち仕事も手に付きやしない。何か胸の内に一物が転がってきたようである。会社に仕事をしに来ていても空っぽのため息ばかりが後から後から飛び出してきてしまう。こんなことになるならば、Gなど手に入れるのではなかった。いっそのこと、滅多にとることのない休暇などとるのではなかった。そんな自己嫌悪の念ばかりが次々に浮かんできてしまう。会社での一日の仕事を終え、家に帰ってGのことを研究する毎日に次第に疑問の念がわいてきた。俺は、一体俺はGに何を期待しているのだろう。研究者たちが一斉にさじを投げたこの薬に何か研究価値でもあるというのか、今までの俺の研究の結果このGはベンズアルデヒドが含有しておりまだ研究中ではあるが、そのほかにもまだ、2~3の物質が含有しているらしい。まだ見ぬ結果に心を躍らせたりして、子供の火遊びに近い感覚なのだろうか。それともただの自分だけの意地だけならばこんな危険な研究はやめたほうがいいのではないだろうか。しかし、そんな思惑が実現するはずもなく、これからもそして今日でさえもGの待つあの地下室へとこもっている。頭上にはオレンジ色の電球がチカチカと切れかかっている。そんな怪しげな光の中、白い手袋をした俺の手には実験段階のGが今日も気化している。その成分の一部を採取し、横においてある双眼顕微鏡を覗いてみるといつもと違う成分が一瞬にして見えた。そして俺はここに来てようやく老婆の言う未完成品の欠点に気が付いたのだ。老婆は言った、「これは未完成品なのさ。この薬を研究していた研究者たちが何も言わずに一斉にさじを投げてしまった。」と。自分なりに分析した結果、仮定であった仮説がこのことが原因だろうと確信したのだ。この物質はいわば、製造者の心の状況によって効能が変化してしまう未知の物質なのだ。ここまで研究し尽くしたのだからさすがの俺もこれで納得せざるを得ないだろう。このおれ自身でさえ、会社で課長に強く言われた日にこの研究をしていたところこの成分が毒薬に近くなっていたし、部長に認められたときには良薬に見えた。要するにこの未完成品は、最後に、使用しようとする側の意図を汲んでくれる優れものなのだ。そして、この薬をどう使うのかは俺の手の中にゆだねられているのだ。その後も足しげく老婆の開く店に通いつめていた俺は、また新たな品に目をつけていた。それは、涼しい色をした液体だ。そしてまた怖いもの見たさに新しい薬品の研究を始めている。また同じ老婆から入手した液体は、比較的新しいもので現在も市場に流通している薬であった。俺は老婆に進められるがまま、不本意ながらそれを入手してしまったのだが一体この薬にどんな欠点があるというのだろうか。俺に差し出されたその薬は医学的にも非常に優れた効能が実証されているにも関わらず、俺の手元までやってきた。老婆が口走った言葉は「出来すぎている。」という意味深な言葉だった。医薬品に関して出来すぎている以上のほめ言葉は無いと思うほどのうれしい言葉は無いと思っていたはずなのに、この老婆から発せられる言葉には毎回妙に納得させられてしまう。そして今日もいつものように地下の研究室に閉じこもって一人研究に打ち込んでいる。俺にとって一人でいる時間ほどリラックスできる時間は存在しない。世の中には人と話すことで楽になる。などとうわさされているけれど、俺に言わせて見ればそんな仮説などくそ食らえなのだ。人と接することでまた余計な気を使ってストレスがたまるではないか。世の中にはまことしやかに発表されていることでも数百分の一の確率で当てはまらない人間が存在するということを見逃しているのだ。そして、いくら調べていっても俺にはその粉薬を一見して何の欠点も無いように思えた。俺は次第に老婆の言うことは半信半疑のようにも思えてきた。だが、それでも俺は重箱の隅をつつくようにしらみつぶしにあらゆる薬のデータを採っていった。すると何の欠点も無かったように思えたその粉薬に複数の落ち度が見つかったのだ。なんて恐ろしい。こんなに危険な物質が世の中の市場に当然のごとく出回ってしまっているとは。もしも俺がこの欠点についてマスコミに発表してしまったならばどんな事態になるのかは目に見えている。俺は自社製品でなんてものを発見してしまったのだろうか。俺の心はいろいろな思惑にかき乱されてしまった。発ガン性物質、白血病、様々な病気の素が含まれている。もしもこの薬を1日3回も飲めば、10年後、20年後の発病率は30%にも匹敵するかも知れない。しかし、こんなことを突き止めても一個人の意見でしかないのだ。世間で多く使用されているものを否定するにはそれ相応のリスクを伴ってしまう。どちらにしろこのまま放っておくわけにもいかないだろう。俺は自分の良心を信じ、自分の会社の直接社長と掛け合ってみる決心をした。そしてついに、7月22日自社の製品veを俺は一人きりで告訴した。それから数日がたった後に俺は課長に応接室に呼び出された。


課長が俺の目の前にどっしりと腰を下ろして無言で俺を見ている。俺には訳がわからずただ、課長に視線を合わせることしかできなかった。もしも視線をはずしてしまえばよからぬことを発言してしまいかねない。その何かを見透かすような課長の目は俺の心をまるで透視しているかのようだった。課長は俺にこう言い放った。「君、こんな薬は知っているかね。見た目は普通の錠剤、しかし効能は不明なのだ。あるときは胃薬に、またあるときは風邪薬にもなる。この意味が君にはわかるかね。」俺はとっさにGのことが頭の中で浮かんだ。しかしそんなことが信じてもらえるはすがないと、俺は思わず口を噤んだ。「いえ。」俺は返事をした後、いつになく宙を見据えていた。そして課長は、どこからか見覚えのある茶色の小瓶を取り出した。そして俺にその小瓶を差し出しながら言った。「君がこの薬の成分を突きとめてくれたのなら、給料は今の3倍を出そう。やってくれるね。」その提案に、俺は少しの沈黙の後に首を振った。


そしてあれから数年たった現在の俺の仕事は、T製薬のいち研究員として働く日々が日常。今の仕事は好きだ。数年前まで自分がセールスマンをしていたことなど嘘のように感じてしまう自分がここにいて、こうして一人で研究に没頭することは性に合っている気がする。おかげで人と話すのはもっぱら電話以外には無い気がする。T製薬の研究室は最新の設備が常に設備されており、新製品や既存品の研究には事欠かない。それにしても、T製薬の本社地下15階は薬品を多く扱うせいなのか1年中研究室の気温がひんやりとしている。ここにいると、日本で生活をしているということを思いがけず忘れてしまいそうになる。おかげでここ2~3年新しい洋服を買っていないような気がする。薬品を扱うので極力外部との接触は控え、研究室にいるときは常にマスクと医療用手袋は欠かせない。そして今日も相も変わらず双眼顕微鏡を覗いている。こうやって仕事をしているときふと昔のことをよく思い出す。あの駅前の大きな繁華街はあれからどれだけ変わったのだろうか、あの道もだいぶ様変わりをしているだろう。こうして仕事で忙しくしていると急に昔の自分が懐かしくなってたまらなくなる。俺に転機をくれたあの老婆は、今はどうしているだろうか、相変わらず薬屋を続けているのだろうか、お客に敬遠されていないといいのだけれど。俺はそんなことを考えながら今も仕事を続けている。すると、上のほうから階段を下りてくる靴の音が響いてきた。数分してから地下室の研究所の扉がずっしりと開いた。今日は珍しく課長が俺のもとへとやってきたのだ。課長は地下室の重い扉を軽々と片手で開けてみせ、何のためらいも無く俺に話しかけながら中へと強引に入ってきた。「どうだね。新薬の研究ははかどっているかね。行き詰ったりはしていないか?」俺は返事をしようと背後から近づいてくる部長に声をかけようと座っている椅子を後ろに向けようと上体をひねったその直後、見慣れない老婆が部長の隣にちょこんと立ち尽くしていたのだ。年齢はおそらく70代前半、きれいな白髪で目元にたくさんの小じわを寄せている。老婆はこの空間の明るさにまだ目が慣れないのか目をしょぼしょぼとさせながらこちらを見ている。そして俺は課長に俺は意思のない返事を返した。老婆はまだこちらをはっきりと見ていない。いや、彼女は意図的に見ようとはしていないのかもしれない。すると課長が老婆の肩を持ってこう言い放った。「この方は、以前T医薬品に勤めていらっしゃった経験も豊富にある優秀な方だ。これから一緒に仕事をすることになるからよろしく頼むよ。」課長はそう言うと老婆を残し、また階段を上がっていってしまった。老婆は挙動不審にそわそわとしながら立っている。俺は俺の向かいの椅子を引いて老婆を誘導させた。「こちらにどうぞ。」老婆は何も言わずその椅子へと腰をおろした。俺は何気なくここでの仕事を説明した。「・・・というような仕事をここではしています。あなたにはその私の助手をしてもらいたいと考えております。ここまでで何かわからないことや質問したいおとはありますか?」俺が話し終えると収支無言でそこに座っていた老婆が急に口火を切った。「あなたが研究員ですか?もう、営業はしないんですか?」その言葉を聴いた瞬間俺ははっとした。この老婆は、昔の俺を知っている。そう確信した俺は質問内容を180℃変えた。「あの、失礼ですが以前のご職業は何だったのですか?」俺のその端的な質問に対して老婆は降格を数ミリ上げてからこう言い放った。「昔、1度だけ会話をしたことがある店員ですよ。」老婆の瞳の奥にはなにやら怪しげな光が見え隠れしている。魚の死んだような目をする老婆は、時折欠伸をしながらそこに座っている。俺はまた話し出す。「もう、今はそのお仕事はされていないんですね?」俺はわざとらしく確認するような調子で訊ねてみる。俺の頭の中には様々な思惑が交錯していった。俺は老婆の前で平静を装ってはいるが本当に装えているのだろうか。なんだか今度はこちらが質問されているような気にさえなってきてしまった。老婆は怪しげな瞳でこう返してきたのだ。「今は…ね。私がどんな仕事をしていたのかあなたはとっくにご存知のはずでしょう。」一体この老婆はここへ何をしに来たのだろうか。俺はこの老婆に触発されて現在の仕事をしているというのに。しかも現在手をかけている仕事はまだ始めたばかりで何もわらないというのに。「じゃあ、時が来たらこの番号にでも電話一本かけてくださいな。じゃあ、私はこれで」老婆は俺の前で一礼すると、俺にそういい残し、そのまま研究室を出て行ってしまったのだ。俺はその後の老婆の消息は全く分からない。それでも俺の日常は、変わりはしなかった。俺の仕事は、世間から需要のある新薬を作ること。新薬の開発には3年は要するとされているが、俺はそんなに悠長なことは言っていられない。この膨大な書類の山を一人きりで何とかしなければならないのだ。こうして目の前にある書類を闇雲に処理し続けていったのだ。目が回るほどの忙しさで、世間のことなど全く分からない。俺のやるべきことはこの書類の山を平地に戻すこと。だが、この仕事に限っては手を抜くことは許されない。そうして自分の世界の殻に閉じこもったまま数ヶ月が過ぎ去ったある日、ようやくこの仕事に終わりが見えてきた。あと、3日もすれば書類の処理もひと段落付くだろう。そう思った次の瞬間、俺はふっとあることに気が付いてしまった。この新薬を完成させるには成分を見る限りあの激薬Gと似た成分が必要不可欠だ。しかし、俺は未だにあの激薬Gを作ることには成功はしていないのだ。俺は散々迷った挙句、あの老婆に電話を入れることにしたのだ。電話のベルをワンコールしたと思ったらすぐに、あの老婆が受話器の向かいに立っていた。「あい。お前さん、もう仕事は片付いたのかい?」老婆はまるで俺が電話をしてくることを予期していたかのように俺に確認でもするような口調で話しかけてきた。「あの、ご無沙汰しております。私…」「挨拶はいいから」老婆は俺をなだめるように話の腰を途中で折った。「それで?私が必要になったということは何かに行き詰った…。もしくは」老婆はこちらの話を意図する方向を理解しているかのように話を勝手に進めてきた。それなら話が早い、俺はここぞとばかりに老婆に助けを求めた。「すみません、どうかあのGの製法をご存知でしたら僕に力を貸してください。お願いいたします。」俺は見えるはずも無い電話の向こう側の老婆に頭を下げ続けている。しばしの沈黙の後老婆は俺にこう言い放った。「あれは、不良品なのだよ?世間に出回らせてはいけない。」俺は今手がけている仕事を説明したいからと老婆を会社まで呼び寄せた。そして、老婆は翌日俺のいる研究室に訪れた。少し見ない間に老婆は少しやせたような気もしないでもない。老婆が階段を下りてくるなり俺は老婆に駆け寄っていた。「一体この短期間にどうしたんですか?少し見ない間にこんなにもやつれて…。とにかく何かものを食べますか?それとも飲み物とか?」俺は少しばかり老婆に気を遣いながら老婆の肩を持って席へと誘導させた。俺は冷蔵庫から自分が今朝自販機で買った飲み物と家から持参したパンを老婆に差し出した。「もしこれが嫌なら、コンビニで何か適当なものを買ってきますが…。」しかし老婆はその俺の提案に首を横に振っただけだった。老婆に少し食べ物を食べさせた後、ようやく俺は声を潜めるように本題を切り出した。「突然呼び出したりして申し訳ありませんでした。あのGについては私も重々承知しているつもりです。ですが、今どうしてもあのGと似た成分の薬が必要なのです。」俺は老婆に許しを請うように説明し続けた。そうすると老婆は項話しかけてきた。「そこまで言うのなら仕方が無い。完璧なGの製法を教えてやろう。だが、ひとつだけ条件がある。」そう老婆は俺に言った。老婆が言うには製法を誰にも漏らさないこと。紙にも書き写さないこと。データとして処理しないこと。そして完璧な新薬を作ること。それだけを守れば教えてくれるということだった。俺は老婆の言うひとこと一言を頭の中に書き写しながら話を聞いていった。それは俺が思い描いていたGとは大幅に違っていた。あのGは作っている最中の化学変化の中で問題が起きることが老婆の話の中で分かっていた。老婆の言う何かが足りないとは、化学変化を止める何かが足りないということだったのだ。俺は研究者としてまだまだ未熟だということを改めて老婆から思い知らされてしまった。「話は以上だ。何か質問することは?」俺はその老婆の話を聞いても自分独りきりで新薬を完成させる自信は無かった。激薬Gにはこの老婆が必要だと俺は改めて確信したのだ。「お願いします。俺はまだGを一人で完成させる自信がありません。能力もありません。ですから…」俺は子犬のような瞳で老婆を見続けた。俺にしては年甲斐も無くなんて態だ、地位も名誉もあったものではない。老婆はため息混じりに何とか了承してくれた。老婆は早速翌日から俺の研究室に足しげく通いつめてきた。それからは毎日のように怒鳴り声が研究室全体に響き渡る。「違う。何度言ったらそこの手順が分かるんだい。その言葉はもう聞き飽きた。」老婆の教えは思いのほかスパルタで、あの老婆の表情からは予想だに出来なかった。老婆は日に日に元気は取り戻していったものの、それと同時に怒鳴り声も連日増していった。俺の研究はまだまだ続く。俺がようやく独りで激薬Gを完成させられるようになったころには季節は春へと移り変わろうとしていた。激薬Gは今日も形を変えながら気化している。老婆は相変わらず何か布でこしらえている。課長は時々気まぐれに研究室へ立ち寄っては老婆と何か話をして地下の研究室を出て行ったりしている。来月の新薬発表のせいで、俺は連日会社に泊まりこみで仕事をする毎日。仕事事態はだいぶ慣れて時間はかからないのだが、時折顔を見せに来る部長や課長が来ると一時間や二時間はざらに時間をとられてしまう。それが嫌な場合は事前に老婆に伝えて、相手をしてもらうことになっている。老婆は今日も研究室の定位置に腰を下ろす。それは俺が老婆用に簡易に作った座敷で、突然の来客にも応じられるようにちょうど日本家屋の縁側のように設計して造った。そこは研究室の出口付近。ただでさえ長い螺旋階段を降りてくるような場所にある研究所の地下室。老婆が歩いて奥に来る負担を減らすためにと、部長が提案したのだ。老婆の会社での役職は、いわば後見人である。老婆はその役職が気に入ったのか、あれから一日だって休むことなく通い続けている。


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