パンダ工房とアレグロ聖歌
石造りの高い建物から、色とりどりの紙吹雪が舞い落ちる。
華やかな凱旋パレード。戦に勝利した英雄たちが、きらびやかな軍服に勲章をいくつもきらめかせ、立派な馬にまたがり大通りをゆっくり通り過ぎる。楽隊が鳴らす景気のいい音楽が、澄んだ青空に吸いこまれてゆく。
マイヤはパレードを見物するために朝一番から通りに並んで待っていたけれど、最前列は花束を手にした同じ年頃の女の子に譲った。自分はべつに、騎士に花束を渡したいわけじゃないのだ。ただ一目、無事に帰ってきたビゼーの顔が見たいだけだった。
将軍や高位の軍人たちの後ろから、歳若い騎士たちが連なってやってくる。若い娘たちの歓声がひときわ甲高くなった。彼らに殺到する花束。馬上から笑顔で花束を受け取る美丈夫の騎士たち。
――ひとり、仏頂面がまざっている。ビゼーだ。
(あーあ、もっとにこにこしないと人気出ないよ。せっかくこんなに女の子に囲まれてるのにさあ)
まったく花束を受け取ろうとしないビゼーに、ちょっとほっとしている自分がいることに気づいてはいたが、マイヤはその安堵を心の底に沈めた。この気持ちに新しく名前をつけたらいけない。
恋という名前を。
戦勝をもたらした名家出身の騎士たちは、誰もがみな美しかった。町の娘たちが彼らにどんなに夢中になっても、彼らにはこのあと同等の名家から、どっさり縁談がとどくのだ。貴族の美しい騎士には貴族の美しい令嬢がお似合いで、絹のドレスの装い方もわからない、しがない学者の娘でしかないマイヤに、そこに割りこむ資格はない。
ビゼーのことは好きだけど、べつに悲しくなんかない。だって恋じゃないんだから。友情なんだから。友情だったら友情なんだから。
馬上のビゼーがマイヤに気づいた。マイヤはひかえめに手をふった。ビゼーはにらむようにこっちを見ている。まったく、友達の顔を見つけたときくらい、すこしはほほえんでもいいんじゃないか? ビゼーの頬がなんだかひくついている。もしかしたら努力して笑おうとしているのかもしれない。本当に不器用なんだから。
マイヤはおもわず吹き出した。吹き出したはずなのに、同時に涙がこぼれた。ビゼーの無事な顔をまた見ることができて、うれしかった。自分で思っていた以上に、うれしかったみたいだ。目じりを流れ落ちる涙を指先でぬぐう。
ビゼーが馬から飛び降りたのは、そのときだった。
***
マイヤがビゼーにはじめて出会ったのは、おそれおおくも王宮だった。
おそれおおくも王子の家庭教師として、おそれおおくも教鞭をふるうことになったのは、父が階段から落ちて脛の骨を折ったからである。マイヤの父親は、第三王子に歴史を教えていた。その代理としてなぜ弱冠十八歳のマイヤが教えることになったのかというと、第三王子は勉強ぎらいで、第一王子第二王子の厳しい教師たちからはことごとく逃走してしまうかららしい。王子が比較的なついていた学者の娘なら、言うことをきくのではと思われたようだ。「勉強の習慣を断たないためにお願いするのだから、授業内容にとくに厳しいことは言わない」というお達しがあったため、いいのかなぁと戸惑いながらも引き受けた。
大臣たちは問題児のように言っているが、マイヤから見て第三王子リュアンは、ごくごくふつうのやんちゃな十三歳だった。父の私塾にやってくる町の悪ガキと変わらない。
なーんだと思って、マイヤは気楽に授業にあたった。
王宮の学習室からは、緑の芝生と鮮やかな春の花々が見えた。メイドさんが淹れてくれる紅茶は極上だし、料理長自慢のタルトやケーキもついてくる。マイヤは濃厚なカスタードやさわやかなベリーの風味を楽しみながら、「なんとなく歴史っぽい」雑談を一時間ばかりすればよいのだった。素敵な職場である。
「今日はパンダ工房の話をしまーす」
「なんだパンダ工房って」
マイヤも王子も、ふたりともはむはむと口をうごかしている。
「パンダは知ってます? 東国の珍獣です」
「タレ目の白黒クマだろ。まぬけっぽい」
「そうそう、それそれ。実はですね、荘厳な古典主義の歴史画と、そのまぬけな珍獣には不思議なつながりがあるのですよ。……おいしいですね、このチョコレートパイ。もいっこ食べよっかなー」
「太るぜ」
「う。リュアン様は、悲劇の帝国バルザメラの大歴史画をご覧になったことございます?」
「どっかであるんじゃない? 皇帝がバシーっと剣の白刃取りしてるヤツとかだっけ」
「『使者レンザナの裏切り』ですね。そうそう、それです。サルチュス城にあるそうですね。さすが、名作をご覧になってますねー。うらやましい。そのほかにも『皇帝ギザンの戴冠』ですとか『ゲネサラ軍の掠奪』ですとかバルザメラの名高い歴史画はいくつも我が国にあるんですけど、バルザメラという国には個人の画家というものはいなかったのです。後世に残る歴史画は、すべて工房の名で世に出ています。個人の感覚が入らないため歴史を正確に写し取ったという意味ではきわめて価値が高い。しかしその反面、美的に面白味がない。まあ、はやい話がバルザメラの絵画は技術的にすごいけどつまんないって見方が今日では一般的であります。……リュアン様、興味がないのはわかりますが、チョコレートソースでお皿にパンダのらくがきするのはやめてください」
「見て。つり目パンダ」
「性悪そうですね……。知ってます? 近年発見されたんですけど、バルザメラで一番だった美術工房の絵画には、よくパンダが描き込んであるんですよ。絨毯の模様とか、レースの模様とか、年寄の顔のしみとか、ぱっと見ではわからない部分にこっそりと」
「えっ? なんで?」
「諸説あるんですけど、わたしが推すのは『ふざけてやってみた』説ですねー。やっぱりですね、人間真面目なものばっかり描かされてると、つまんなくなっちゃうと思うんですよ。だから仲間うちでひっそり笑うために、職人たちがちょっとふざけてみたんだと思うんですよ。『どうよ? オレのパンダおまえ気づいた?』みたいな」
「はははははは」
「パンダに託された暗号がとか東国に向けてのメッセージがとか、そういう真面目な意味じゃないって考えたほうが自然ですよねー。たぶん流行ってたんですよ、工房内で」
「おれならやるなぁ。こっそりパンダ合戦」
「リュアン様だったらつり目パンダですかね?」
「そうかも。ははは」
「人間ってかわいいですよねぇ」
「バカでいいよな」
「バカでいいですよねぇ」
マイヤはお茶をすすった。リュアンもお茶をすすった。窓から芝生を渡る風が入る。こんな話をしているのがバレたら大臣たちにしかられるだろうかと思ったが、王子が楽しそうだからまあいいやと思った。この素直な子のどこが問題児なんだか、マイヤには不思議だった。リュアンに話をするのは楽しい。
「お茶を飲み終えたら、パンダ見に行きません?」
「えっ?」
「この宮殿にもパンダがいるんですよ。ロングギャラリーに」
宮殿の大階段室から大広間へと続く広い廊下はロングギャラリーと呼ばれていて、王家の人々の肖像画や歴史画が飾られ、舞踏会や晩餐会に訪れる人々の目を楽しませている。
マイヤは三代前の王妃の肖像画の前に、リュアンを連れて行った。
「探してみてください。パンダ」
「これ? バルザメラの絵じゃないぜ?」
疑問を感じながらも、王子はパンダを探しはじめた。ポイントは背景のゴブラン織か、錦織のガウンだと思ったようだ。寄り目になって懸命に模様を見つめている。
そんな王子の横顔に、マイヤは言った。
「新興国ゾーダルの侵略を受けて、バルザメラが崩壊したのは約百年前です。レリア王妃若かりし日のこの肖像が描かれたのは約九十年前」
「そのくらいしってるよ」
「バルザメラの画工たちは、機能しなくなった祖国ではもう仕事ができなくなりました。パンダ工房の仲間たちも、きっと仕事を求めて様々な国に散り散りになってしまったでしょうね……。我が国にも、宮廷画家としてバルザメラ人が召し抱えられた記録があります」
「……この絵がその宮廷画家の?」
「いいえ。この肖像画は、お輿入れの前に王妃の故国から贈られたものです。我が国の王宮にやってきたバルザメラの画工が描いたものではありません」
「ふーん。――パンダ、ちっともわかんね。ヒントちょうだい」
「文机」
「えっ、机のどこに……。わかった! 取っ手! これだあ!」
王子は得意げに、背景に描きこまれた小机の引き出しを指さした。円形の取っ手に施された彫り込みが、まぎれもなくパンダの顔だ。
「せいかーい。レリア王妃の故国はモナリスでしたね。モナリス王家の依頼でこの絵を描いた画家は、なにを思ってパンダを描きこんだんでしょうね……。ここから先はわたしの想像ですけど、画家はこの絵が我が国の王宮に飾られることはわかっていたわけですよ。だから……画家はパンダを描きながら、我が国にいるかつての仲間に「あいかわらずオレ、パンダ描いてるぜ。アホだぜ。元気だぜ」って言いたかったんじゃないかなあって思うんですよ……」
リュアンは虚を突かれたように黙りこみ、まじまじとマイヤの顔を見た。
マイヤは心の中で、ね、歴史っておもしろいでしょ、とつぶやいたが、口には出さなかった。おもしろいかどうかは、王子が感じることだ。押し付けてはいけない気がした。
「パンダ工房パンダ工房言ってますけど、正式名称はジェガナルダス・グレゼ工房です」
「……んなもん覚えられるか。パンダ工房でいい」
「いいのかなぁ……。まあいっか。そろそろ時間なので、わたしはおいとましますね」
「マイヤ今日ひま?」
「夕方まではひまですよ」
「おれ、次、剣術の時間なんだ。見てけよ。おれ、剣術はけっこうすごいんだぜ」
中庭で待ってろと言い残し、王子はしたくのため部屋へもどった。
あれ、わたし、気に入られたのかな?と感じ、マイヤはちょっとくすぐったくなった。
(ほんとにすごい。この真剣さ、まるで別人)
「王子の中庭」と呼ばれる円形の中庭は、敷石が平らに敷き詰められ剣の稽古にうってつけの場所だった。植え込みを囲うレンガに腰をおろし、マイヤはただただ感嘆の思いで、リュアンと指南役の騎士を見つめていた。体格も経験もちがうのだから指南役の黒髪の騎士が本気を出しているはずはないのだが、素人目にはいい勝負に見える。
中庭を見渡せる回廊を通る貴婦人やメイドたちの多くが、いっとき足を止め、ふたりに見惚れている。その気持ちはよくわかる。たかが稽古と言え、リュアン王子と黒髪の騎士の動きには華があるのだ。有り体に言って、かっこいい。
(身体能力に長けた男性っていうのは、やっぱり素敵なものなんだなぁ……うん)
父が学者なので、マイヤの周囲にいる男性は運動神経より頭脳に秀でた者が多い。それはそれでもちろん魅力的なのだが、こちらもこちらで捨てがたい。いいものを見せてもらった。
(動きがなめらかなのねー。リズムがあるんだなぁ。まるで音楽みたいな剣捌き)
ちゃかちゃんちゃかちゃんちゃかちゃっちゃ、ちゃかちゃんちゃかちゃっちゃっちゃ♪
マイヤの頭の中に、リードしている黒髪の騎士のリズムに合いそうな音楽が流れた。直観的に思いついたのがこの国の誰もが知る行進曲だったので、頭の中にその曲を流しながら対戦するふたりの剣技に見入る。
ちゃらら、ちゃらら、ちゃららっらっらっらっらーっ♪
曲がクライマックスになったとき、ぴったりのタイミングで騎士が王子の剣を撥ね上げた。マイヤは偶然の一致に「おっ」と小さく感動した。おもしろい。
剣を飛ばされたリュアンは、ばつが悪そうにマイヤのほうをふりかえった。マイヤは拳をにぎって胸の前に小さく掲げ、「がんばって!」という身振りを送る。王子は唇を引き結んでうなずいた。かわいいじゃないか。ほんとに、どこが問題児なんだか。きっと、言うことを無視された家庭教師の誰かが、苛立ち半分に言いだしたんだろう。
王子と騎士は再び剣を交えはじめた。
(ちゃかちゃんちゃかちゃんちゃか……あれ、ちがう?)
今度の騎士の動きは、さっきの行進曲では合わない。もっと踊るようになめらかな気がする。
ちゃららちゃーんちゃちゃ〜♪ ちゃららちゃらんらら〜ん♪
次は誰もが知る円舞曲でためしてみる。……合ってる、気がする。
ちゃらりらりらりら♪ ちゃらりらりらりらりらりらりらりら――――
キン!と大きな金属音がして、円舞曲のクライマックス一歩出前でリュアンが体勢を崩した。もしこれが死闘であったら、王子はとどめを刺され、曲のヤマ場とともに死にゆく流れだ――――。
マイヤは目を見開いた。もしかして。
その後三十分ほど、マイヤは食い入るようにして黒髪の騎士を見つめていた。リュアンが怪訝に思うほどの食いつきぶりだった。
リュアンは騎士に休憩を言い、マイヤのほうへやってきた。
「マイヤ、ねぇ、すんごい真剣にビゼーのこと見てるけどもしかして……」
「リュアン様! わたし、見切りましたよ!」
「はあ?」
「『英雄行進曲』『燕の円舞曲』『白刃の舞』『鷹の飛翔』です。ご存じですよね?」
「しってるけど。なんの話だよ」
「この四パターンなんですよ。ちょっとお耳を拝借」
マイヤは騎士の動きがこの四曲の流れにほぼ沿っていることを、王子に耳打ちした。
「おおお……。なるほど。すげえ! なんか勝てそうな気がしてきた」
「がんばってください!」
「おう!」
マイヤがビゼーと話したのは、剣術の時間が終了し、中庭をあとにしてからだった。ビゼーからはじめて一本とったとはしゃぐ王子にいとまを告げ、城門ちかくまで庭園を歩いてきたところで声をかけられたのだ。
その呼びかけは「おい、女教師」というまことに不躾なもので、王子が「ビゼーは子爵の三男坊」と言っていたのは本当かと疑ったほどだ。ふりかえって正面から見た顔も、そこそこ整っているにもかかわらず、貴族らしい優雅さよりも武骨さが勝っている。
「なんでしょう?」
若干の不愉快を押し殺し、マイヤはほほえみをつくって答えた。背の高い騎士が、そんなマイヤをじろりと見下ろす。
「王子になにを言った?」
「なにを、とは?」
「おまえがした耳打ちひとつで、王子の動きががらりと変わった。何者だおまえは? 剣の心得があるのか?」
「ございません。まったくの素人です。身内に剣が使える男性もいないですし」
「それなら、王子の剣に対してなにを言ったんだ!」
「王子の剣のことはなにも言ってませんよ。言ったのはあなたのことです」
「俺の?」
「『英雄行進曲』『燕の円舞曲』『白刃の舞』『鷹の飛翔』」
ビゼーはぐっと、喉になにか詰まったような声を出した。目が泳いでいる。
もしかしたら、この指摘をされたのははじめてなのかもしれない。けれど剣の動きを音楽に乗せるという発想は、世界に目を向ければそんなにめずらしいものではないと思う。そう思うのはマイヤが学術の徒だからだろうか? しかし彼の剣の奥儀が彼の同業者にバレてしまうのも時間の問題のような気がして、マイヤはすこし心配になった。
「……国民的有名曲ばかりなので、もうすこしひねった曲を使ったほうがよろしいかと」
マイヤの提案に対し、ビゼーはぎょろっと睨みをくれて寄こした。
おお、こわこわ。さっさと退散しよう。マイヤは「失礼しました」と一礼して、そそくさこの場を去ろうとした。が。
「待て」
待ったがかかった。仕方なく足を止める。
「なんでしょう……?」
「俺は曲をしらない」
「はい?」
「有名曲しかしらないんだ!」
ビゼーは頭を抱え身をよじり眉間に皺を寄せ、彫刻作品のような苦悩のポーズをとった。
マイヤは唖然とした。こんなにわかりやすく苦悩する人を見たのは、たぶん生まれてはじめてだった。
「え、えーと、サロンに音楽家を招くとか、合奏会に行ってみるとかすればいいのでは」
「一度や二度や三度で曲など覚えられない!」
ビゼーが見せるおおげさな絶望に引いた気分になりながら、マイヤは納得した。見るからに芸術に縁遠そうなこの男には、頻繁に耳にする有名曲でなければ敷居が高そうだ。
慣れないタイプの男性におびえ、じりじり後ずさりするマイヤを、騎士はじろりと見据えた。嫌な予感がしたときはもう遅かった。
「おまえを見込んで頼みがある」
リュアン王子のほかに、マイヤに奇妙な生徒ができた。
王子の計らいで、中庭にチェンバロが出された。幼いころは母のようなチェンバロ奏者になるのが夢だったマイヤだが、まさかこんなふうに王宮で演奏する日がこようとは思わなかった。ちなみに、マイヤの演奏は固くて情感がまったく足りないと不評で、演奏家は十四のときにあきらめたのだった。以来、父に倣って学士の道だ。
正確さだけはほめられる腕前で、しっているありとあらゆる曲を演奏してみる。ビゼーは剣をふるう。回廊を渡る人々がなにやってんだと不思議そうに見る。
……正直、恥ずかしい。
けれど乗りかかった舟だ。自分のせいで将来有望な騎士を損なってしまっては大変だ。引き受けたからには出来得るかぎりの協力をしよう。それにしてもどうしてコイツは恥ずかしくないんだろう。曲によっては変な踊りの振り付けを考えているようにしか見えないのに、周囲を全然意に介さない。大したもんだ、まったく。
くらべるつもりはないのだけれど、マイヤはどうしても学業仲間の男友達を思い出してしまった。彼らは恥ずかしいことが大嫌いだ。バカだと思われるのが屈辱なのだ。
(でもコイツ、バカ丸出し)
おもしろいので、マイヤは演奏中の曲をものすごいアップテンポ(アレグロ)にしてやった。ビゼーが黒髪を振り乱し、狂戦士のような動きになる。マイヤはチェンバロを鳴らしながら肩をふるわせて笑いをこらえた。怒ればいいのに、ビゼーはクソ真面目に曲についてこようとするのだ。本当にバカ。愛しくなってしまうほどにバカなのだ。
父がなんとか歩けるようになって、マイヤの王宮づとめは終了した。マイヤが王宮に出向くかわりに、ビゼーがマイヤの家へやってくるようになった。母のチェンバロ練習室に剣をふるうスペースはないが、慣れてきたためビゼーは曲を覚えてからあとで剣に合わせるやり方ができるようになっていた。効率が上がって、今では彼のレパートリーは百曲に達する。しかし、身体にしっくりくる曲はまだ少数のようだ。ビゼーにも剣士なりの繊細な感覚があって、なんでもいいというわけにはいかないらしい。
「……この曲はいけそうな気がする」
マイヤが弾き終えた曲に対して、スツールに腰を下ろしたビゼーがぼそっとつぶやいた。
「えっ。これ? ええーっ、まさかこれはないと思ったんだけどなあ……」
「なんて曲だ」
「セシリス賛美曲……。編曲したし、十倍速だけど」
「なに。聖歌じゃないか」
「ビゼーがいけそうだって言う曲は、東方風が多いから。大陸中部東方は剣舞が盛んだから、それはすごく納得なんだよね。聖歌も中部東方発祥って言えばまあ、そうだから、ためしにアレグロにして編曲もしてみた」
「そうか。ほかの聖歌もやってみてくれ」
「いいのかなぁ。なんか天罰下りそう」
「聖堂は国どうしのくだらない小競り合いにも『聖戦』の名をつける。聖歌を戦いに使うくらい神もガタガタ言わん。十曲くらい頼む」
「かる〜く言ってくれるなぁ。けっこう大変なんだから」
ぶつぶつ言いながらも棚から聖歌の楽譜を探すマイヤの背に、ビゼーは言った。
「……大変だと言いながら、おまえはどうしてこんなに俺に協力してくれるんだ」
「んー。おもしろいからかなあ。音楽と剣技の異種合体効果に、知的興味がそそられるというか」
「おもしろい……か」
「うん。おもしろい」
マイヤはめぼしい楽譜をビゼーに見せようとふりかえり、彼の表情がどことなく曇っていることに目をとめた。
「どうしたの?」
「おまえはなんでもおもしろがるんだな。歴史も、芸術も。剣術さえ」
「うん。……なんかわるい?」
「俺のことも、おもしろがってるのか?」
ビゼーは、怒っているのではなかった。むしろその黒い双眸に浮かんでいるのは、悲しみにちかい沈んだ色だった。
「ねぇ……どうしたの? おもしろいと思ったってわたし、ビゼーのこと侮ってるんじゃないよ。わたしには絶対できないことができる人として尊敬してるし、おもしろい経験させてくれたことに感謝もしてるし、わたし自身すごく勉強になってるし……」
ビゼーは小さく首をふった。届いていない。言葉が届いていない。マイヤの心に焦りが生まれる。彼はどんな言葉を欲して、問いを発したのだろう? わからない。
そのときのマイヤにはわからなかった。
わからないままひと月が過ぎ、ビゼーはマイヤが編曲した高速の聖歌を胸に、小競り合いが続く国境へ派遣されていった。
「小競り合い」が「戦争」に発展してしまったのは、ビゼーが前線に出た直後のことだった。
マイヤが、しらずしらずのうちに自分の気持ちに蓋をしていたと身に染みて感じたのは、前線の痛ましい戦況を伝え聞いてからだった。続々と届く、軍人たちの訃報。その中にビゼーの名が連なることを想像するたびに、マイヤは心臓がつぶれる思いだった。
どうしてビゼーに協力を惜しまなかったのか。
心配だったからだ。
ビゼーが戦いで死んだら嫌だったからだ。
どうしてそれを彼に言えなかったのだろう。
「おもしろい」と感じることは、相手から距離をとることだ。マイヤはつねに離れた場所から、歴史や、芸術や、人物をおもしろがって眺め、決してその渦中に身をおくことをしないまま過ごしてきてしまった。パンダを描き加えるほどの参加意識もなかったのだ。そして曲を正確に弾きこなしはしても、音楽の感動に身をゆだねることはなかったのだ。今までずっと。
ビゼーが死ぬかもしれない。その可能性に直面してやっと、マイヤは自分に巣食っていた冷たさを知った。彼の悲しいまなざしは、きっとそんな自分に向けられたのだ。
***
なに考えてんだコイツは。なに馬おりてんだコイツは。
道におり立ったビゼーが、マイヤのほうへ歩み寄ってくる。同僚の騎士たちがびっくりしたように馬上からビゼーを見ている。そんな彼らも、ビゼーの馬も、紙吹雪に彩られながらゆっくりゆっくり通り過ぎてゆく。
「ちょっとビゼー、なにやって……わぷ!」
マイヤはビゼーの長身の身体に、力いっぱい抱きしめられた。
さっきまで馬上にいたビゼーの身体のあたたかさが、自分の身に伝わってくるのが不思議だった。マイヤの心臓は早鐘を打っていたけれど、不思議と心は落ち着いていた。
本当は、気づいていた。ビゼーの気持ちを。あの悲しい目の意味をしったときから。
本当は、望んでいた。彼からの求愛を。もう気持ちに嘘をつくのはやめよう。
わたしの愛しいおバカさん。
すべてにまっすぐなあなた。
「戦場でおまえのことを思い出さない日はなかった」
「ビゼー……」
「戦場で俺はいつでもおまえと一緒だった。おまえの選んだ聖歌と」
「うん……」
「これからも一緒だ。一緒にいてくれ」
「うん」
愛しい男の深い声が、耳元で聞こえる。
彼の肩越しに見上げれば、青空に色鮮やかな紙吹雪。きこえてくるのは、人々の歓声。
只中にいる。マイヤは思った。
わたしは、自分の人生の真っ只中にいる。ずっと避けて通って来た「渦中」にいる。
ビゼーがあたたかくて、抱きしめてくる力強い腕や、自分をすっぽり覆う広い胸が心地よくて。マイヤはもうなにも考えられなくなって、ぎゅうっとビゼーを抱きしめ返した。
歓声が大きくなった気がしたけれど、その声が求愛した騎士と相手の娘に向けられていることに、当事者ふたりはまるで気づかなかった。
しばらくそうしていて、ふたりが我に返ったのは、思いもよらない人物の声がきこえたからである。
「ひゃっほう! 世界はふたりのためにあるってかぁー!」
マイヤとビゼーは抱擁を解き、一瞬顔を見合わせたあと、同時に声の方向を見た。
パレードをゆく、祝典用の華麗な無蓋馬車。その上で立ち上がって大きな軍旗を振っているのは、暴れん坊の第三王子。
「なんでリュアン様がいるんです!」
「王城からパレード眺めたってつまんねーもん! こっそり紛れ込んだ」
……やっぱり問題児だった。
「おまえらあやしいと思ってたぜ! ビゼーはオレの親衛隊に配属が決まった。子爵家にはオレが口きいてやるから、さっさと結婚しろよおまえら!」
リュアンが祝福するように軍旗を空に掲げると、群衆から拍手が巻き起こった。
降りやまない紙吹雪。
肩を抱くビゼーの大きな手。
生涯この日を忘れない。マイヤがうるんだ目でビゼーを見上げると、彼もまた同じ目でマイヤを見ていた。
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