I like 編
初めてオリジナルの小説を投下します。長い間暖めていたネタなので、大事にしつつ大胆に、書きたいものを書ければと思っています。
定番のラブコメくさい展開満載ですが、そんなベターを楽しんでいただける方は、ごゆっくりどうぞ。斬新な世界観や展開を望んでいる方には、ちょっと物足りない日常系かもしれません。
それでは、開幕です。よろしくおねがいします。
その日はおかしいくらいに調子が良かった。
そうだ、調子が良かったのだ。
なにせ待っていたシリーズの発売日が五つも重なっていたし。
行きつけの書店に、チェックしていたシリーズが全て納入されていたし。
そういう時間帯を狙ったとはいえ、人目を気にすること無く、タイトルをチェックできたし。
久しぶりに気分良く本屋を回れたんだ。
だからまあ、何か起きるというか。
こんだけうまくいくんだから。
何か一つ、とんでもないことが起こりそうだな、とは。
若干、思っていたりはした。
したんだけど、さ。
桜木亮太は呆然としていた。
それは、周囲で突発的に起こった惨事に対して、頭が正常に状況処理できなかったからでもある。
だがもっと、彼にとって危惧すべきことが目前に転がっていることも事実であった。
というか既に、その危惧すべきものが床にばらばらと転がっていた。
桜木亮太はへたりこんでいた。
だから、目の前で自分と同じようにへたりこんでいる少女と目が合った。
少女と、自分の周りには、無数の本が転がっていた。
桜木が選んだ本もあった、そして見知らぬ本もたくさん落ちていた。
桜木亮太は目を見張った。
その少女の着ている制服が、自分の通う高校と同じものだったから。
その少女の容貌が、どこかで見たことのあるような気がしたから。
その少女が、クラスで少し名の知れた、通称『文学少女』、森山香夏子だと知覚したから。
よりにもよって、同じ学校で、同じクラスで、そして、桜木と有る意味『対極』の人だった。
「…すみません、大丈夫、ですか?」
止まったかと思った時間のなかで、桜木は初めてその声を聞いた。
どこかで聞いたことがある声だな、と思ったが。考えなおしてみるとそれもそうだった。なにせその声は、曲がりなりにもクラスメイトであるはずの森山香夏子から発せられているのだから。
目元までかかりそうな長い前髪が、表情を隠している。黒ぶちのメガネが、それにさらに暗さをプラスしている。髪の色も、漆黒。第一印象、地味。第二印象、いつも本読んでいる。第三印象、いつも一人。
イメージの中で構成した森山香夏子が、そのまま目の前の森山に当てはまった。
茫然自失としている態の桜木を見て、どう思ったのか。
森山は、こともあろうに、今の桜木に一番インパクトを与えるであろう行動をとった。
無言のまま、とにかく散らばった本を拾おうと、手近な本を拾い集め始めたのだ。
「あ……」
待ってくれ、と言おうとして。言えなかった。
もはや、なんと言っても回避することは不可能であったからだ。
案の定、森山の手は。五冊ほど拾ったところで止まった。
拾った五冊が、全て漫画だったからではなかった。
その、ジャンルが、手を止めさせたのだろう。
桜木は、まるでこの世の終わりのような気持ちでそれを眺め、走馬灯のようなものまで見るにいたった。
一番他人に知られたくなかったことを、知られた衝撃が、どうやらそうさせたらしかった。
が、当然の如く。そこで世界が滅びるなんて超展開が許されるわけなんて無くて、普通に世界は続いてて、桜木の意識もはっきりしてて、目の前にお花畑が見え出すなんてことも無くて、変わらず時間は動いてて。
そして桜木は、意外にも優しい声を聞いた。
「桜木君、だよね?」
やはり、どこかで聞いたことがあるような気がする声だった。
視線を上げ、桜木は森山の顔を見た。黒ぶち眼鏡の向こう側が、その瞳の色までが漆黒だと、そんなどうでもいい事に気が付いてから、その声の続きを聞いた。
「……もしかして、こういうの、好き、なの…?」
森山は、今拾った五冊の本を、ちょうどトランプの手札を見せるように、漫画の表紙がこちらに見えるように、差し出して言った。
そして桜木は愕然とした。同時に、周囲の光景がばあっと目に入った。一瞬だけ魚眼レンズを入れられたみたいに、自分の周りを一瞬で見た。ような気がした。
桜木の周りには。桜木が買おうと選んでいた漫画が大量に散らばっている。
それらはすべて、その独特の表紙デザインから。一目見ればジャンルがはっきりわかる。
森山の掲げた五冊、そして桜木の周りに散らばるそれら。
全て、世間一般に『少女漫画』と呼ばれるジャンルのものである。
それはごくごく普通の男子高校生・桜木亮太の、たったひとつの、誰にも知られたくない『趣味』だった。
桜木は、天を仰いだ。そして腹をくくった。
バレた、バレてしまった。高校に入ったら、この趣味は絶対に隠し通そうと決意したばかりなのに、と思いながら。それでも腹をくくった。
「…あはは…、うん、そうだよ…。おかしいっしょ、うん、笑っていいよ、あははは…」
勢いをつけるために無駄に無理に笑いながら、桜木は言った。言ってやった。
そこでもう完全に桜木は自分を見失っていた。もう自分が何を言っているんだかすら訳がわかっていなかった。それほどまでに、この『趣味』は彼にとってデリケートな部分だった。
しかし、だからこそ気が付かなかった。
森山がそんな桜木の言葉に、何のコメントもしていないことに。
差し出した本の裏側で、森山が期待に満ちた目をしていたことに。
森山の落とした大量の本たちが、何の本であるか、に。
彼は壊れたように笑いながら、散らばった本を拾うまで、気づけなかった。
五冊、彼女の選んだ本を拾うまで、気づけなかった。
『ブックカバーの裏側は、』 −I like 編−
悪夢で目が覚めた。
いや、夢の内容は覚えていないので、おそらく悪夢だったのだろう。としか言えない。
だが、寝巻きを確実にぐっしょりと気色悪い感触にしている、かなり性質の悪い量と質を持った寝汗が、その推測を客観的事実にまで押し上げてくれていた。ご丁寧にも、だ。
一応、時計を見た。
時計は無情にも、学校へ出発するにはあまりに余裕のありすぎる時間を指していた。
それはつまるところ、すっかり目の覚めた俺に、悪夢の続きのような昨日の出来事を、思い返さざるを得なくするという事と同義であった。
俺は洗面台へふらりと歩いていき、やけくそのように水をかぶって、顔を洗った。
鏡を見た。目の下にクマがあった。それはもう、仕方が無かった。
漫画を大量に買い込んだ日は、深夜、いや、正確には日付変更線をはるかに割り込んで、ひどいときには朝日を浴びるまで読み耽るのが常だ。その次の日、目元にクマが出来る程度の代償はなんのその、だ。
それくらいの代償なら、某超有名ロールプレイングゲームにはまって、うっかり徹夜してしまったんだと言えば、クラスメイトにも言い訳が立つのだ。
言い訳が立ちそうも無かったのは、うっかり泣ける系の漫画の発売日が集中した日に、それらを一気読みして一晩泣きはらした時だ。目が真っ赤な上に、ひどいクマ、そして泣きはらした跡。ゲームで徹夜したにしても泣きはらしはしない。失恋したとでも言うべきかと悩んだが、普段の自分の態度を省みると、どう見ても失恋して一晩泣きはらす性質でないので。とてもそうとは言えなかった。
そもそも、自分が恋をするだなんてことをあまり考えた事が無い。そういう漫画は、たくさん読むけどな。
そんな訳で、その日は結局学校を休んだ。なんてことは、中学時代にはざらであった。
待て、それはいい、それはいいんだ。
それはもう、笑い話だからそんなんはどうでもいい。いや、いまだ誰にも言って無い笑い話だから笑えるか微妙だけど。
そうじゃない。
昨日だ。
そう、昨日。大事なのはイエスタデー。
やべぇ、いえすたでー、綴り書けない気がしてきた。いえす、てぇあ、でい。yes、ter、day。だよな。よし、それはいい。
洗面台横にかかっていたタオルをひったくって、顔を乱暴に拭いた。水をかぶったおかげで目がパッチリ覚めた。だがタオルは昨日の朝からずっとそこにかかっていたヤツだ、なんともいえない、くさりかけの臭いが多少鼻に付く、様な気がする。なんとなく、もう一度寝たくなる。
だめだ。
どう思考を飛ばそうと思っても、思考は飛ばない。
目の下のクマに、なんか臭うタオルに、どうでもいい英単語の綴りに、どこに意識を飛ばしても、結局一つの場所に思考は戻ってきた。
それほど、あれが衝撃的だったのか。
どう抵抗しても、俺の脳みそは昨日の出来事をフラッシュバックさせたいようであった。己の行動を司る脳がそういう欲求にかられているようなので、それに朝の寝ぼけた理性をもって押さえつけようとしても、それは圧倒的多数の近代軍に、七人の騎馬隊で挑むようなものだ。言い換える、瞬殺。その一言に尽きる。
そして、ちらりと、これまた洗面台横にある小型の時計に目をやる。
確か10分ほど時間がずれているはずの、壊れかけのその小さな時計ですら。学校へ行くのにあと数時間の猶予があることを示していた。その時間的余裕は、回想というどうでもいい行動に身を任せても、何の悪影響も無いということを、暗に保障していた。
それはどうやら、引き金になったようだった。
「………」
固まった。
五冊、拾って。俺は固まった。
そして少し頭を整理してみた。
俺と森山は、お互い大量の本を抱えていた。そして、どういうわけか正面衝突した。
お互いしりもちをついた俺たちの周りには大量の本がちらばった。これまたどういうわけか、俺の抱えていた本は、森山の近くに。そして、森山の抱えていた本は、俺の近くに。
だから、俺が拾った手近な五冊は。森山の選んだ本のはずだった。そして、事実そうだった。なぜなら、その五冊は俺が手に取った覚えの無い本であったからだ。
手に取った覚えは無いが、『見た』ことはあった。
ある程度ディープな漫画好きなら、自分があまり読まないジャンルの漫画だって、タイトルくらいはうろ覚える。書店で漫画のコーナーに通い詰めていれば、別に好きじゃないジャンルの漫画だって目に付くし、通うほどに書店がどの本を売りたくてディスプレイしているのかはだいたい読めてくる。ちらりと見るだけで、どの漫画が売れ筋なのか、たいていはわかる。だから別に読まないジャンルの漫画でも、「へぇ、ああいうのが今は売れ筋なのか」というのが読めるのだ。
だから、おかしい。
何がおかしいか?
森山の選んだ本を、俺が『見た』ことがあるのが既におかしいのだ。
俺は漫画コーナーぐらいしかまともに回らない男だ。流行りの活字本が何かと問われても答えに窮するほどに、書店に通っている頻度にさっぱり見合わない知識量しか持ち合わせていない男だ。
その俺が、五冊とも見覚えがある。
それはつまり、この五冊が漫画であることを指していた。
それだけではない。
ちらりと、周囲を見渡してみた。
あたりに散らばる無数の本。定形式で、見れば一発でジャンルがわかる少女漫画と違って、それぞれのシリーズで特徴的な装丁を持つ、なおかつ、この手のジャンルの本は表紙のかっこよさやセンスのよさがまたものを言う。どちらかというと、リアリティを廃した感もあるデザイン。それは、『夢』を与えるためだとする、このジャンルの漫画のテーマをそのまま表しているのかもしれない。
間違いなかった。ここまでくれば確定だった。
「…森山さん、さ」
なんとなく、森山、と呼び捨てにするのがためらわれたので。敬称をつけて呼ぶ。
なんだか、とてつもなくダメなことを言ってしまう様な気がして、ためらい、一旦言葉を切った。だが、言葉を切ったので余計に言いづらくなった。しまったと思ったが、同時に言うしか無いので、がんばって口を動かした。
森山の顔は、見なかった。見たら余計に言いづらそうだったし。
「もしかして、さ。こういうのが、好きだったり、するの?」
普通の本の中に、一冊くらい紛れ込んでいるのなら、適当に無視することが出来たかもしれない。
だが、俺の周囲に散らばる本全てが『コレ』だったとしたら、それはこう尋ねるしかなかった。
俺は、拾った五冊を、トランプの柄を相手に見せるように、表紙を相手に見せるようにしながら、自分の顔の前に掲げた。
それらは、俺の好きな漫画を世間一般的に『少女漫画』と呼ぶならば、森山の本は、―――『少年漫画』、と呼ぶにふさわしい漫画たちであった。
少しの、間。沈黙。
だが、比較的早めに。森山の声が、五冊の向こうから聞こえた。
「……うん…」
ひかえめで、ハスキーでもなく、低くも無く、それはやはりどこかで聞いたことがあるような、強いて言うならば、女の子の声、だった。
俺はその日。自分と正反対の人間だと思っていたクラスメイトの、案外近しいが正反対の趣向を持つという、これまたやっかいな秘密を知ってしまったのであった。
自分の、絶対に知られたくなかった趣味を、知られるという代償と共に。
その後は、お互いおかしいほどに無言であった。
無言で、どちらともなく本を拾い集め。レジに並び。本を買い。そして、別れのあいさつも何もなしにお互い帰った。
どうやら、今日のことはお互い無かったことにするのが一番平和的な解決法だな。と、なんとなしに察知して。俺は黙っていた。森山の方もそう思っていたのか、俺の目の前でレジを済ませた後、一足先に書店を後にした、その足取りになんのためらいもなかったので、俺は余計にその思いを強くした。
森山だって、いまさら文学少女としての位置づけを失いたくは無いだろう。俺だって、ごくごく普通の男子高校生というレッテルを、むしろ剥がしたいだなんて思わない。
お互いこのことは口外しないのが身の為だし、学校でこのことを口にするのは、自分の地雷まで踏んづけてしまうことになる。今後共に、森山とは関わらないほうがいいだろう。そしてそれは、森山の方も同じのはずだ、と、そう決心していた。
…はずだった。
決心とは無関係に、少なくとも学校で森山に話しかけなければならなくなる、そんな事情ができてしまったのだった。
それに気が付いたのは、本屋から精神的に疲れた体を引きずって帰り。部屋に大量の戦利品を無事運び込んで安堵したその瞬間だった。
統一感のある装丁の漫画が並ぶ中、一冊だけ、異彩を放つ表紙を持つ漫画が紛れ込んでいた。
そして、チェックしていたはずの、よりにもよって一番お気に入りのシリーズの最新刊が無いことに気が付いて、その段階で、最悪の事態が起こったことを自覚した。
会計のとき、予想していた金額ぴったりであったために良く確認していなかったのが仇となった。どうやら一冊だけ、森山の漫画と入れ替わってしまっていたのだ。そして偶然に偶然が重なって、一冊の値段が同じ単行本が入れ替わったため、そしてお互い偶然にも相手が拾った商品をよく確認しなかったため、お互い、入れ替わったことに、気が付かなかったのだ。
…これは、どうする。
悩んだ。恐らく今世紀これほど悩んだ男がいたかと問いたくなるほど悩んだ。いや、たぶんいくらでも悩んだ人はいるだろうけどとりあえず多少の誤謬はこの際見逃して欲しい。どうする。
どうするよ!?
なんでそこまで悩むんだ、どうせクラスメイトなんだから、翌日学校で入れ替わっていた本を渡し、あちらからも返してもらえばいいじゃないか。と簡単に考える方は考えるだろう。
だが、森山は――少なくとも、我がクラスの『文学少女』、である『森山香夏子』は、そんなレベルじゃないのである。既に、入学式から数えて二ヶ月経つか経たないか、夏の準備、梅雨の季節すら香り始める季節だというのに、驚く無かれ、我がクラスで「森山と話したことのある奴ー」と挙手を求めたとしたら、恐らく該当する人員はゼロなのである。仲間内意識が高く、協調性を重んじ、仲間はずれは極力出さないはずの女子の間でも、森山は敬遠されている。理由は、いつも本を読んでいる『文学少女』であり、ついでに、暗さ全開の容姿、とどめに、超無口でめったにしゃべったりしないから、である。かく言う俺も、森山の声を聞いたのは、本屋で正面衝突したときがはじめてじゃないかと本気で思った程である。
対して俺は、クラスでは『ごく普通の男子』である。その『普通』が、生粋の『文学少女』につかつか近寄って本を渡す?おまけに向こうからも本をもらう?どこをどうひねれば、そんな構図が生まれるのか?そんな光景不思議すぎて、奇異の目線と一時的なクラス内の話題独占を巻き起こすこと間違いなしである。そして、それだけならば良いのものの。周囲の興味が高じて、『文学少女』から受け取った本が何のか、問い詰められたら?そしてこれまた周囲に流されて、その本の内容が知れたら?それをきっかけに俺の趣味が知れたら?――そこまで一気にいかなくても、それに準ずる展開になることは十分ありうる。そして、それだけは避けたい。絶対。
そこまで嫌なら、いっそ無視して、入れ替わってしまったシリーズは買いなおせばいいじゃないか?それができるならしているさ。漫画の発売日には、手持ちの小遣いで買えるだけ漫画を買うに決まってるじゃないか!何のために漫画の定価と発売日をチェックしていると思ってるんだ!もうとっくに俺の手持ちはゼロだよ!
もちろん、究極的には来月、小遣いが出るのを待つという手もある。あるが――それは、どことなくプライドが許さない。漫画好きなら、追いかけているシリーズは発売日に手に入れなければ、そして読まねばならない。特に、お気に入りとあらば余計に、である。
漫画好きのプライドか?周囲の目線か?
それを天秤にかけ、考え込むこと数十分。
結局結論の出なかった俺が取った行動は、とりあえず手に入れた戦利品たちを読み耽るという、現実逃避まっさかりな路線であった。ダメ人間で申し訳ない。割とマジで。
そのとき、うっかり怖いもの見たさで。紛れ込んでいた森山の漫画を読んだのが、これまた俺の運の尽きであっというかなんというか――。
顔も洗った、朝飯も平らげた、無駄に回想もした。
昨日の夜から、一つ俺には課題が増えていた。
今日やるべきことの一つ、それはいうまでも無く、森山のと入れ替わってしまった漫画の奪還と、こちらにある森山の漫画の返却。
で、もう一つ増えていた。
…できれば、本当にできればでいいので。この、入れ替わって偶然入っていた森山の漫画のシリーズ。これの、最初の巻から、できれば、貸して欲しい、と打診すること――。
うっかりだった。本当にうっかりだった。昨日うっかり読んだこの漫画。はまってしまったのである。
読みたい。是非この漫画を読みたい。少年漫画なめてたごめんなさいと謝っても良い。読みたい。
現実逃避した自分自身で、自分で自分のハードルを上げるという。もうなにをしてんだか訳のわからん状態になりながら、俺は学校へ向かった。
結局、森山にどうやって話し掛けるかという。もっとも重大な問題にはまったく無対策で、俺は突撃しにいったのであった。
一つ、言い訳をするんだとしたら。
徹夜明けのテンション、だったから、かもしれない。
とか、今更だけど…。
だがそんなテンションは、クールでシビアな現実にぶち当たれば何の意味も成さないのであって。
「下駄箱に入れとくとか、ダメか?」
学校に着くなり、なるべく安易な方向で済まそうとする思考全開であった。靴を履き替える際に、ふっと舞い降りたこのアイデアであったが、それを実行するにしても。朝の時間帯では目撃される危険性が非常に高い。休み時間に入れるにしても、下駄箱の所在地たる昇降口はいわば校舎の正面玄関、出入りする生徒が絶えることなど滅多に無い。そりゃ授業中に抜け出すなら手はあるが、んな勇気の持ち合わせは無い。放課後を狙って、翌朝森山が見てくれることを願うという手もあったが、それではこちらの受け取りは最速でも翌日になってしまう。できれば、今日中に、お気に入りの最新刊を手に入れたかった。別に急ぎの用事があるわけでも無いけど。
まあ、そもそも、森山の下駄箱がわからなかったので、どうしようもなかったのだが。
結局そんなこんなで、つい数瞬までグットアイデアだと思っていた案を空しくも棄却した後、もう目新しさなぞとっくに消えうせた廊下を通り、教室へと差し掛かる。
うちの学校はそれなりに伝統と歴史のある学校である。何が言いたいかというと、校舎が古い。よって、廊下は木製のパネルみたいなのを埋め込んだ、いかにもな古くさい廊下で、教室の扉も当然の如く立て付けの悪い引き戸だ。教室にクーラー?そんなものはここでは幻想でしかない。
そんなことをぼんやり考えながらだったからだろうか。
カラカラとスムーズに開くはずも無い引き戸を、ぐっと力を込めて、ガララ、というよりはギャララ、と何か引きずったような音を出して開ける。
その扉の先に、嫌でも忘れられない黒ぶちの眼鏡があった。
「え、」
「あ」
重なったのは、間抜けな声が二つ。
そして、沈黙。
が、流石にそれは長くは続かなかった。
「あ、ごめん」
ちょうど出入り口を塞ぐ態になっていた自分の体をどかし、目の前に立っていた森山に道を譲る。
森山のほうも、多少は驚いたようだったが、すぐ平静を取り戻したらしい。道を開けた俺の目の前を通り、廊下へと出て行く。
そんな森山の姿を見送り、ほっと一息安堵をつく。つくと同時に、自分自身につっこみを入れる。
なぜ何も言わなかったし!何か言えよ俺!
いくら教室とはいえ、時間は朝だ、始業ギリギリにくる生徒が多い分、そう多くの生徒がいるわけではない。ましてや、出入り口付近とは、そうクラスメイトの注意が向くところでもない。少しくらい話をしても咎められることは無かったはずだ。
そこで少しでも、本が入れ替わってしまっていることについて。意識を共有するだけでもしておけばよかったのだ。お互いの意思確認が取れてるか取れてないかで打つ手も変わってきたというのに!
あああ、馬鹿馬鹿、なんて馬鹿なんだ俺。
「お、桜木おっはーす」
そう自分を罵倒しつつ、己の席へと向かうと、その途上にいるクラスメイトから朝のあいさつを頂戴した。
「あー、おはよう…」
すでに自己嫌悪モード一色に染まっている俺に、元気なあいさつを返す気力もあるはずもなく、適当に返す。なんの気無しにそうしていると、教室の一部を占拠するように固まっている女子集団が目に入る。
そういえば、森山が誰かとあいさつを交わしているところも、あんなふうにどこかの集団に入っているところも見た事が無いな、とふと思った。
一体、森山はどういう気持ちで日々を過ごしているんだろう。
クラスで『文学少女』として、ほぼいないものとして扱われ、その実趣味は少年漫画。いや、『文学少女』という評判が先について、逆に趣味を言い出せなくなったのだろうか。
それとも、俺のように、最初から趣味は隠し通すつもりだったのだろうか。隠し通すために、誰からも話しかけられない今の状況に甘んじているのだろうか?
わからない、俺の中で森山が見えてこない。
そこまで考えたところで、俺は自分の机の中になにか紙切れが入っているのを見つけた。
それは、何の変哲も無いメモ用紙の切れ端。
そこに、小さく、簡潔に、しかし丁寧な筆跡で、メッセージが記されていた。
『午後四時、駅前の和泉屋書店に来てください。用件は、お察しの通りです。
森山香夏子。』
「あれ、今日森山いないじゃん」
ギクッとして、メモを握りつぶしてしまった。焦った動作とは裏腹に、くしゃ、と意外に小さな音を立てながら、メモは素直に俺の手のひらに収まった。
幸い、メモの存在にも、握りつぶした動作も、誰にも気づかれなかったようだ。
「ホントだ。いつもは朝イチで何か本読んでんのにな」
「マジ怖ぇんだよな。誰とも関わりたがらないし、こないだ話してみようと思って近づいたらよ、大急ぎで本しまってさぁ、睨まれたんだよね。マジ何考えてるかわかんねー」
「逆に俺、本読んで無いとこ見たことねぇよ」
「暗いし、感じ悪いし。めんどくさいヤツだよな、マジで」
「あーゆーのが、将来わけわかんない犯罪とか起こすんだよねー」
どうやら、クラスメイトの数人が、森山について話していただけらしい。手の中で小さくなってしまったメモを、念のためポケットに押し込みながら、ほっと胸をなでおろす。
別段こんなふうな話を聞いても驚くことではない、ある集団において特定の誰かを攻撃することなんて、往々にしてあることだ。別に、珍しいことではない。
だが、森山の評判がここまで悪いとは、知らなかった。
俺には、ますます森山香夏子という人間が、わからなくなっていた。
ってそれはまあ置いて。
メモ!!今大事なのはそっち!うっかり握りつぶしたメモ!おいコレ!そうコレコレ!なんだコレ!!
自分の中で本日二回目の自主つっこみモードに入りながら、俺はメモに書かれていた文面を記憶の中で再構成する。
《午後四時・和泉屋書店・用件はお察しの通り・森山香夏子》
キーワードのみを拾えば、ざっとこんなところだろう。
午後四時、とは当然今日のことであろう。放課後を指すことは明らかだ。和泉屋書店というのは、駅前にある本屋のことだ。ちなみに、森山と正面衝突したのもこの書店。俺の行きつけの本屋でもある。用件はお察しの通り、というのは、あちらの方も、漫画が入れ替わっていることに気づいているということだろう。
そして、場所と時間を指定して。入れ替わった漫画を交換しようと言っているのだ。
他の誰でもなく、森山が。
正直、森山のほうからアプローチがあるとは思わなかった。
俺はどぎまぎしながら、始業のベルを聞いた。
森山は、珍しく始業から少し遅れて教室に戻ってきた。
担任の教師も少し遅れて教室に入ってきたので、誰も咎めはしなかったし。
いつもと違う森山の行動を、気にかける者もまた、一人もいなかった。
そして森山はまた、自分の席に着くと、いつもと同じように本を読み始めた。
いつも同じブックカバーのその本は、森山を守っている砦のようで、また、森山の弱さの象徴のような。
そんな気が、少しだけした。
突然だがここで一つ、俺からこの世の真理を教えて差し上げよう。
一、徹夜明け翌日の授業は、寝るためにある。
―――そんなわけで、その日一日中。昼時を除いた全授業を睡眠学習するに至った。
どこからどう見ても、健全な男子高校生だな問題ない。
そんなわけで、懇意のクラスメイトに放課後叩き起こされるまでぐっすりだった俺は。そのとき既に森山の姿が教室に無いことに気が付いた。
この学校はたいてい午後3時20分頃に終わるのが常だ。
約束の時間まではゆうに四十分ほどある。駅前まではゆっくり歩いても十五分ほどなので、間に合わないということはまず無い。
ご丁寧にも、終礼時までぶっとおしで寝ていた俺を叩き起こしてくれた級友に適当な感謝の辞を述べると共に、なんでそんなに眠いんだよ、と問われたので、その理由を某有名ロールプレイングゲームのせいにして適当に逃れつつ、今日は用事があるので一緒には帰れないと伝えた。
約二ヶ月で結構な度合いまで打ち解けたこの友人は、多少いぶかりながらも、人の腹のうちを深くまで探ろうとする性質ではないのか、あっさりと了承した上で、先に帰っていった。
いつものことだが、あの友人が、俺の本当の趣味を知ったらどう思うのだろう、と少し恐怖する。
まあ、そんなことは考えてもしょうがない。
そんな恐怖から逃げるように、俺は教室を後にした。
自分でも、悪い癖だと思う。
怖いから、逃げる。逃げている。
でも、人から色眼鏡で見られるのは、もっと嫌だ。
だから、逃げている。
いつもは、歩いているうちに、そんな自己嫌悪も忘れ去ってしまう。人間は、嫌なことをすぐに逃避できる生き物だ。逃げれるから、だから弱い生き物なんだ。
今日は、違った。
うっすら、気になった。森山はどうなんだろうと。
心のどこかで、森山に聞いてみたいと、そんな願望が芽生えた。
まあそれすらも、結局歩きながら忘れたのだけれど。
そうやって、結果的に何も考えずに約束の場所に来たので。俺はおそろしく不安にかられることになった。
時刻は午後3時50分。約束の10分前。
放課後直後、学校から最寄の駅前。といったら、高校生の溜まり場ではないか。
森山、俺にはお前が何を考えているのかさっぱりわからない。
駅前の和泉屋書店前。案の定、整備された駅のロータリーは高校生であふれかえっている。そうでなくても、この近辺には他にも高校がいくつかあるので、放課後時間をもてあます高校生で、近くの飲食店は大賑わいだ。
こんなところで森山と会ったら、それこそ人目につくこと請け負いである。
学校から場所を外した意味があったのだろうか。手紙を入れる余力があったなら、むしろ机に本を入れておいて欲しかった。そうすれば俺も察して、どこかばれないように本を渡せる方法を考えたというのに。
別段森山と会うのに後ろめたい気持ちがあるわけではないが、翌日クラス内のネタにされるのは避けたい。
というか、それ以前に。
「クラスメイトに見つかった時点で、めんどくさいことになりかねないな…」
こう書店の前でたむろしているところを見つかると、様子から誰かを待っているのがバレバレである。誰を待っているのか、と聞かれても、適当な言い訳は見つからなかった。
たまらず、書店の中に非難する。新書のコーナーでも見ている振りをしながら、外の様子をちょくちょくうかがうことにしよう、と決心した。
時刻は午後3時51分。
だからそこで、会うと思ってなかったんだ。
「あ、よかった。ちゃんと来てくれたんだ」
書店に退避し、簡易な自動ドアを通過した俺に最初に届いた声は、そんな言葉を伴っていた。
たいていの書店は、入り口入ってすぐ横のところにレジがある。まああらゆることを考えて、それが一番効率的な位置であろう。
だから俺は驚いた。
書店に入ってすぐの横から、その声がしたから。
だから俺は驚いた。
その声が、聞き覚えのある声だったと同時に、かなり柔らかでうれしそうな声だったから。
だから俺は驚いた。
声を発したその人が、どう見ても、俺の記憶の中の声の持ち主と照合できなかったから――。
俺は、レジの向こうに立つその人を見た。
頭に、その辺のスーパーのパートのおばちゃんのように、三角巾みたいな布をつけている。前髪のほとんどをその三角巾の中に入れているようだ、綺麗なおでこが露わになっている。そして、何を隠そう、美人だった。これは隠しようがなかった。髪をほとんど布の中に隠しているせいか、むしろその美しさを邪魔するものが無かった。優美で落ち着きのある目元、右目元の泣きぼくろがその優美さをよりいっそう際立たせている。顔立ちは全体的に整っていて、ダメ出しする箇所が見つからないほどだった。薄化粧をしているのか、蛍光灯の灯りを若干反射している肌が、むしろ自ずから光を発しているようにさえ見える。書店名が入ったエプロンをつけているため、体のラインは読めなかったが。背筋を伸ばしてすらりと立っているさまは、まさしく立てば百合の如し。優美な美人、をさも体現したかのような人だった。
俺は、声だけを頼りに記憶が導き出して特定したその人物名を、口にするのを数瞬ためらった。
違いすぎた。頭の中にあるビジュアルな記憶とその人が合わなさすぎた。
だが、不意に、ちらりと。その人の瞳が、全てを吸い込みそうな漆黒なのを確認したとき。俺は意を決してその名を口にした。
「……も、森山…?」
森山は、にこっと笑った。
それは、俺が見たことも無いくらい、魅力的で、綺麗で、そして、何より女の子らしい――森山が、するとはとても想像できない、表情、であった。
空いた口が、塞がらないどころの騒ぎじゃあない。
普段の森山はどこに行ったんだ?
表情を完全に隠してしまうほどの長い前髪は、暗さをよりいっそう際立たせていたあの黒い髪は、いまや頭の布に収容されてしまっている。その上、まるで城壁のごとく森山の顔を隠していたもう一つの要素、あの前時代的ですらある黒ぶち眼鏡は、あっさりとなりを潜めていた。何より、いつも隅の席で本を読んでいるものだから、背筋を伸ばしてしゃんと立っている森山など見た事が無い。
それだけで、それを変えるだけで、人はここまで変わるのか。
まずい、俺の中での森山像がブレまくっている。とりあえず目前の森山は森山(仮)としておくしかない。
唖然呆然の境地に達しようとしている俺に向かって、森山(仮)はまた、微笑みながら話し始めた。
「ごめんね、あんな呼び出し方しちゃって。でも、学校だと、桜木君話しかけづらいだろうと思ってこうしたんだけど…。大丈夫?都合悪かったりとかしなかった?」
うおおおお、めちゃめちゃしゃべるぞこの森山(仮)。ていうかこいつ、こんなに口の回るやつだったのか。
なんだか妙にどきどきしながら、なんとか普通にしゃべろうと俺は努力した。
「いや、まあ、都合は、大丈夫だったけどさ」
言葉細切れのつっかえつっかえ。声は小さい。どこのへタレだ俺!
記念すべき本日三度目の自主つっこみモードに突入しつつある俺を差し置いて、森山は相変わらずにこにこしながら口を開いた。
「よかった、都合悪かったらどうしようかとも思ったんだけど、桜木君も、なるべく早く返してもらいたいだろうなぁって思って」
そういいつつ、森山は背後から何か袋のようなものを取り出した。大きさから言って、入れ替わってしまった漫画だろう。それこそ俺がもっとも待ち望んでいたものだ。
「はいこれ、一応、本屋さんの袋を借りたから」
そう言って森山が俺に渡したのは、『和泉屋』とロゴの入った、本屋独特の紙袋だった。ご丁寧にセロハンで封もしてある。なるほどこれだと、本屋で買いたてほやほやにしか見えない。
「…ああ、悪い」
どう反応していいのか、いまいち良くわからずに脱力感のある返答をしたせいで、危うくこちらの差し出すものを忘れるところであった。
肩にかけたスクールバックから、こちらも入れ替わっていた本を取り出す。
こっちは、何に入れていいかわからなかったので、不恰好なビニール袋にそのまま入れていたのだが。
ガサガサやかましい音を立てながら、森山の手に渡ったそれを見届け。ひとまず、懸案の一つはこれで解決した。ということになった訳、だが。
…もはや途中から懸案とかそういうのどうでもよしに気になる一件が目前に転がっているのだがどうしよう。
とうの気になるどころではない人物は、ビニールの袋から自分の漫画を確認しつつ、「ありがとー」とか間延びした声でお礼を言っていた。
袋から本を取り出し、それが紛れも無く自分が求めていたものだとわかった瞬間、ぱっと表情を輝かせる。
かわいい。
そう、純粋に思った。
無愛想無表情無関心で教室内に生息している、森山香夏子と同一人物とはとうてい思えない。
表情豊かで、明るい声で、そして、何より、女の子、だった。
とにかく、俺は、何か聞きたかった。だってなんというか、訳のわからないことが多すぎる。でも、聞きたいことが多すぎて、何をしゃべっていいのかわからない。口が、なかなか言葉を発する形になってくれなかった。
だからとにかく、話の繋げやすそうな話題を選ぶことにした。そういえば元から懸案の一つにあったじゃないかと思い出し、半ば慌てたような口調で声を絞る。
「な、なあ!それ!」
勇気を出そうとしたのか、自信をつけたかったのか、多少音量があがってしまった声で言うと、森山は不思議そうな顔でこちらを向いた。
とっさに適切な言葉の羅列が都合よく出てくるはずも無く、俺は一旦言葉を頭でひねりなおしてから、それを音としてなんとか声に出した。
「それさ、ほんとに、できたらでいいんだけどさ。よかったら、貸してくれない?」
数瞬考えた割には、あまり内容の伴っていない発言に、森山がよりクエスチョンマークをその頭上にうかべているのがわかった。まあそりゃそうだ、きっと俺でもそんな反応するだろう。
無意味に頭をかきながら、俺は言葉を付け足す。
「いや、実はちょっと読んでみたら、おもしろくってさ、森山の漫画が。それで、できればでいいから、その、その漫画とか、他の漫画とかも、貸して欲しいなー。とか、思ったりしてさ…」
しゃべればしゃべるほど、自分の言葉が細切れで不恰好なことに気が付き、急に恥ずかしくなる。
だが森山はそんな俺を、少し呆然としたような表情で黙ってみていた。
そんな無反応な森山と、無言だが無音ではない空間を数秒共有し、すこし何のリアクションも無いことが不安になってくるぐらいの時間が経過した。
「あ…」
自分が何かの反応をしたほうが良いらしい、と、まるで今気がついたみたいに森山が声をもらした。
「うん、それくらいなら。いいよ。ぜんぜん大丈夫。貸す貸す」
いたってにこやかに、森山はそう言ってくれた。
「まじか、よかったー。できればさ、その漫画の最初の巻から貸りたいんだけど…」
「わかったー、じゃあ、明日もってきてもいい?大丈夫?」
「明日って…ここにってこと?」
「うん。あ、いやだったら、別の場所でもいいけど」
「あ、いや。ここでいいよ、ここでいい」
少し、打ち解けることができたのか。お互い少しずつ自然に言葉が出てくるようになった。
でも流石に、長話が出来るほど打ち解けては無いし、おまけに森山は現在進行形で(たぶん)バイト中であるため、俺も長くいるのは悪いと思い、そろそろ退散しようと思った。
ちょうどその時だった。
「あ、あのね!」
唐突に、森山が少し声量を上げて言った。
何事か、と俺も森山の顔を見上げる。
「その…、漫画を貸すから、そのかわりってわけじゃ、ないんだけど…」
数瞬、考え込んだような様子を見せた後、森山はぽつりぽつりと言った。
その後森山の口から出てきた言葉が、俺にとってどれだけ意外であったことか。
家に帰った。
適当な帰宅を告げる文句を告げた後、親に出くわす前にといち早く自分部屋へ階段を駆け上がる。
階段上がって、二階廊下、一番奥。
自分の部屋に入り、扉を閉める。鍵こそ付いていないが、ここが俺の、聖域だ。
夕暮れ時で薄暗い部屋に電気をつけてやると、やはり、ここが俺の築いた城なのだ。という思いを新たにできる。
俺の部屋は、本だらけだ。
もちろん、その内訳はほとんど漫画である。それも、俺の『趣味』の。
壁一面をまるまる覆うようなどでかい本棚が、六畳一間の部屋にどかんとあるのだが、そこからも漫画があふれている。さらに部屋には小さな本棚が林立しているのだが、それすらもとっくにキャパシティを超えて、部屋は本と本棚だらけであるにもかかわらず、整理するあてがかけらも見つからない有様であった。唯一、寝るスペースと勉強机だけは、最低限のスペースはとってあるのだが。
散らかっているとか、そういう次元じゃない。
そうとわかっていながら、特に改善しようとも思わないのは、恐らく人に見られることが無いからだろう。
部屋で一番大きい本棚が一杯になったあたりで、親は俺の部屋の掃除を放棄した。
それよりも遥か前に、友人を部屋に呼ぶことが不可能なほど、正確には、この『趣味』を隠すことが不可能なほどの漫画の量になっていた。
それ以来、俺の部屋に興味を向ける人間が出ないよう過ごしてきた。
そうやって過ごしていくことは、やってみるとこれが予想以上に簡単だった。
だから、きっとこれからもそうなるだろうと、漠然とそう思っていた。
これから俺の城を、見る人も崩す人も、現れることも無いだろうと、そう思っていた。
本棚から。
一冊の思い出深い漫画を取り出した。
特徴的なデザインの表紙は、その漫画のジャンルを一発で判明させる。
それは、今日、森山から返してもらったシリーズの、一番初めの巻。
手に取ったのは、懐かしさからではない。
その本が、必要とされたからだ。
森山が俺に言った一言は、俺の言葉のリピートだった。
漫画を、貸して、欲しい、と。
ちょっと読んでみて、
おもしろかったのだと。
また、読みたいのだと。
嫌でなければ、貸して欲しいと。
はじめの、巻から。
俺はそのとき初めて。
得体の知れないうれしさがこみあげてくるのを感じた。
それがどういう感情なのか、語彙の少ない俺では言い表すことはできない。
でも、口に出来ない代わりに、そのうれしさは行動を伴って現れた。
帰って即、貸す予定の漫画を、無くなるはずも無いのに、あるかどうか確認に走ったことだ。
誰かに漫画を貸すのは、自分の『趣味』で買った漫画を貸すのは、はじめてだった。
何か袋に入れたほうがいいと気が付いて、しかし入れる袋もとっさに思いつきはしないので。結局今日森山に渡された本屋の袋に、その漫画を入れた。
なんとなく、「これ、昨日の袋だね」と、森山が笑いそうな。
そんな気が、ちらりとした。
「森山ってさぁ、ひょっとして毎日バイト入ってんの?」
「え、ううん。そうでもないけど」
「でもいるじゃん、今週は毎日」
「あー、それは。ちょうどバイト辞めちゃった人がいて、その代わりで今週は出てるの」
「へぇ、本屋のバイトってきつい?」
「私はきついとは思わないけど…、まあ、人によってはきつい、かも」
「やっぱ重労働多めなの?本重いし」
「まあそうなんだけどー、つらかったのは始めのうちだけで、なれちゃえば意外と楽だよー。何より、本がいつもたくさんあるのは、うれしいし」
「へぇ、そんなもんなのか…」
初めて本を貸し借りして以来。
森山のバイト先である、和泉屋書店入り口入ってすぐそこのレジは、放課後の、本の交換場所であると同時に、俺にとってはささやかな楽しみの場になりつつあった。
森山の貸してくれる漫画がおもしろいというのも、楽しみである理由のひとつではあるのだが、それ以上に、俺は、いままで考えたことも無かった『あること』がうれしかった。
「そういやさー、森山『微熱ディスプレイの放課後』って4巻まで読んだんだよなー?」
「うん、読んだよー。あれさ、ラストの斉藤さんの台詞が超意味深で気になるよねー」
「だよな!あーあー、早く最新刊でねーかなー」
「わたし的にやっぱり斉藤さんは先輩と順当にくっついてくれるといいなー」
「えーマジかよ、先輩は多分月森さんが伏兵になるって、絶対落ちるって」
「えー!先輩はだってほら、月森さんよりバイト先の後輩が気になってる感じだったじゃん!」
「ちがうだろー、アレは絶対斉藤さんの勘違いなんだって。この手の漫画に良くあるひっかけなんだって」
「うっそー」
「マジだって、まあ最新刊が出ればわかるぜー」
「うわー待ち遠しいー、…そういえば、こないだ貸した『ONE DOLLAR』なんだけどさー」
「あー、セントヘレナ島編に突入したとこまで読んだ!」
「うっわー!めっちゃいいとこじゃん!」
…何を隠そう、全て他愛も無い漫画の話だ。
誰だってしたことのある、おもしろいものを確かめ合うだけの、くだらない会話だろう。
俺も、少し前まではそう思っていたんだ。
別に何の漫画が好きとか、何が面白いとか。
そんなのは個人個人の勝手な好みで十分であって、別に、それに賛同してくれる人がいようがいまいが関係ない。
俺の好きなものは、俺の好きなもの。
それで十分で、それ以上でも以下でも無い。
そう思ってたんだ。
でも、森山といろんな漫画の貸し借りをするうちにわかってきた。
この世界は、予想以上に広い。
一人の興味で探せる範囲には、やはり一人分の楽しみを満たす分しか楽しみは転がっていない。
知らなかった面白さを開拓する喜びは、一人でも十分楽しいのだが、それにはやはり仲間がいたほうが探せる範囲も広がり、それ以上に、言葉で言い表せないうれしさもついてくる。
森山の趣味の範囲は、漫画であることに変わりはなかったが、話を聞けば聞くほど、俺と正反対のジャンルが好きらしかった。少年誌はもちろん、いわゆる軟派なライトノベルのコミカライズとか、あとは劇画チックな青年コミックにまで手を伸ばしていた。まあ、どう見立てても、現役高校生女子の一般的な趣味ではない。
まあ、俺の方はと言えば、少女漫画以外のジャンルには遥か昔に見向きもしなくなったという経歴をもつことから、あまり森山のことも言えないのだが…。
それでも一応、周りの話についていける程度には少年誌の漫画も読む(古本屋で立ち読みする)ようにしてるから、やはり森山の趣味の振り切りっぷりとは比べ物にならない。
少し前に、
「森山ってさ…、どんな話をさ、他の女子と話したりすんの?」
と、興味本位で聞いてみたら。
「え…?そもそもめったに話さないから、どんなって言われても…」
…どうしてそんなことを聞くのか心底わからない、という感じの表情であっさり森山が答えたことがある。
それはそれでどうなのかと思うが、本人がいいのならそれでいいのだろうか…。
漫画を貸し借りするようになってからも、俺たち二人のクラスでの位置関係は少しも変わらなかった。森山は相変わらず不可思議な文学少女。俺はごくごく平凡な男子その一。
相変わらず、森山は必要最低限しかクラスでしゃべらず、友人らしい人物も一人もいないようであった。対して俺も、特別親しい友人ができるわけでもなく、ただ、日常他愛も無い馬鹿話をし合う男子グループに適当に加わっているだけだった。
一人、少しは親密になった友人もいるものの、やはりそれなりに話をするだけで、踏み込んで親密になろうとは思わない。
こんな適当な友達付き合いしかしていないと、いつか罰が当たりそうだ、とそうは思うが、どうしようもない。
そして恐らく、これが一番おかしなことだと思うのだが。俺と森山はお互い学校にいる間は一言も言葉を交わすことは無かった。漫画の貸し借りも書店で行うのが暗黙のルール化しており、どちらもそれを変えようとはしなかった。目が合うことも、顔を合わすことも無い。
だが、放課後になり、一度書店のレジ前に行けば。森山はいつもやわらかい笑顔で立っていた。
そうして本の貸し借りをし、お互いはたから見ればどうでもいいような漫画談義に花を咲かせ、お客さんがお会計をしたそうにこちらをうかがってきたら、それを合図に、お互い「また明日」とあっさり別れる。
それが、学校のある平日は毎日繰り返された。休日は、俺が本屋にあまり行かないので(同級生や元同級生にでくわす危険性が高いからだ)流石に毎日というわけではなかったのだが。
それでも、そんな日々を過ごしているうちに、気づけば梅雨があけ。夏の暑さがやってこようとしていた。
「最近暑くなってきたねー」
「もう七月も半ばだもんなー」
どちらからその話題を振ろうと思っていたのかはわからない。
その話題までいきついた経過もよくわからない、忘れてしまった。
でもお互い、そろそろ夏休みがやってきて、ひょっとすると、この、ささやかな日常が、壊れるかもしれない、と危惧していたのかもしれない。
「夏コミまで、あと一ヶ月くらいだね」
「そうか、もうそんな季節かー…」
「桜木君って夏コミ毎年行ってるの?」
「ああ、毎年行ってるよ。つっても目的のサークル以外はあんまり回らないんだけど。少女漫画系って同人盛んじゃないからさ、少年誌系とかと比べると」
「そうなんだー、私も毎年行ってるんだけど、お目当てのサークル壁ばっかりだから全部はとても回れないや」
「なんだ、森山も毎年行ってるんだ。開始から終了まで居るタイプ?」
「うん、去年は本当に最後までいたかなー、お疲れ様でしたーって」
「そっかー、俺は途中退場組だなー。俺の好きなサークルさんは早めに撤退しちゃうとこがほとんどだから」
わからない人をはるか遠くに置き去りにしているのは百も承知だが、そういうイベントがあるものと思っていただければここでは十分だろう。
夏のコミックマーケット。
年に二回の、大規模な同人誌即売イベント。全国中の同好の士が、一同に集まる祭典。
「ていうか、森山何回目?いつから行ってた?」
「えーと、中二からかなー。それから毎年だから、今年で三回目」
まさしく日本中から、あらゆる人があらゆる物を得るために集まり、その様相はまさしく『戦場』と例えられるにふさわしい。
「マジか、俺も中二からだわ」
「もしかして、桜木君毎回二日目?」
「俺はフルで出たことも一回ある、森山は?」
「フルで!?三日連続?私は二日目だけ毎年」
「まだコミケのことよく知らなくて、手当たり次第にとにかく行ってた時期があったんだよ。ていうか、俺たち二年も前から、毎年同じとこに行ってるんだな」
「そうだね。不思議だね」
そこは、全国の、ありとあらゆる娯楽を好む人間たちにとって、それぞれに特別な意味を持つ一大イベントだ。
だから、と思った。
きっと俺も森山も、同じことを言いたかったんだろうと思う。
「「一緒に、行く?」」
意を決して、つぶやいた言葉が。まるでエコーしたみたいに重なっていることに気が付いた。
同じことに気が付いたらしい森山が、俺の顔を不思議そうに覗き込んでいた、多分、俺も同じ顔をしているんだろう。
「…今年の、コミケ?」
「え、じゃあ、来年?」
「いや、そこでどうしてそうなる」
よくわからない軽いつっこみをしてから、俺は笑いをこらえつつ、宣言することにした。
「よし、じゃあ、一緒に行くか、コミケ」
「おー!」
森山が笑顔で同調する。
それにつられて、俺も笑った。
最近気づいたことだが、森山は本当にうれしそうに笑う。
本当にうれしくて出る笑いなんて、いつしか忘れ去ってしまった俺が、つられて笑えてしまうぐらいに。
森山は俺に、隠すことを忘れさせてくれた。
その顔をクラスでも出せば、きっとすぐに友達を作れると思うのだが、本人はそうだとは露とも気づかないらしい。今度うまくタイミングをはかって言ってやろうと思う。
というか俺は、まだ森山に対して知らないことが多すぎる。そもそも森山が本当は友達が欲しいと思っているのかも確認した事が無い(まあいらないと言い出すことは無いだろうが)。
まあそれは、これから知っていけばいいのだろうと思う。
コミケに行こうと約束したあの日以来、お互い何か吹っ切れたのか。メアドを交換したりして、頻繁に連絡を取り合うようになっていた。もちろん、放課後に漫画を貸し借りする習慣も継続中であるが、前よりも交わす言葉の数ははるかに増えた。
一緒にコミケに行く計画も進行中で。とりあえずカタログは共同で一冊買うことになった。サークルチェックはお互いそのカタログ一冊で済ませ、どちらがどこを回るのが効率がいいのか、作戦を計画することになった。特に壁を回る順番は、念密な計画が必要だ。
そしてこれは余談になるのだが、俺はその計画とはまた別に、独自に計画を遂行中であった。
その計画の遂行には親の許可とか説得とか、時間の調整とか、友人への言い訳とかいろいろ必要であったため、長い間ためらっていたのだが、意外とやってみるとすんなり進行した。
「こんにちはー」
その日行きつけの書店に行って見ると、森山はまだレジに居なくて、いつも書店を切り盛りしている親切そうなおばさんが目に入る。森山はいつも「幸子さん」と呼んでいるが、俺は流石にまだそう呼ぶ勇気はない。
「おやまぁ、亮太君、早いねぇ」
その声かけに笑顔で会釈しつつ、レジをはいって奥にあるスペースに向かう。
そこで学校帰りの荷物を降ろし、制服の上から、「和泉屋」とロゴの入った見慣れたエプロンを着込む。
「レジ、もう打てるんだっけねぇ、亮太君」
「はい、だいたいは」
レジの方から声がかけられ、それに応える。
「もうすぐ来ると思うから、細かいところは教えてもらってねぇ」
誰が、とは聞かなくてもわかる。そういうとおばさんは、自分の仕事があるらしくレジを俺に任せて店の奥へ入っていった。
一人、レジに立つ。ここから見る書店というのも新鮮だ。
当然のことだが、書店にはいろんな本が置いてある。
そして、その種類豊富な本を、これまた色々な人が物色し、読み、そして買っていく。
世の中には、いろんな本があって、いろんな人がいるのだ。
それがどうした、と言われたらそれまでだが、でも俺はこの事実と、それを確かめさせてくれるこの光景が好きになった。
ここに居ると、何か励まされるような気がした。
本は、読まれる人を選ばない。
読みたい人が、本を選ぶ。
それが、普通の光景として存在しているここは、なんだかとても幸せな所のような気がした。
森山も、
ふと、あの優しそうに、うれしそうに笑う、つい最近知り合ったばかりの女子の顔が浮かぶ。
ここに立つと、そんなふうに考えるんだろうか。
今度、聞いてみようと思う。
そう思っていると、すぐ目の前の自動ドアが開き、少し夏を感じるような薄い熱気と共に、この季節には少し暑苦しい容姿の女子高生が入ってくる。
髪を上げれば、こいつもなかなかの美人なのだが、とは毎回会うたび思うが、毎回保留して口には出さない。今度、言ってやろうと思う。
「いらっしゃいませー」
書店では、特に言う必要のないこの定番の掛け声をあえて俺は発した。目的は当然、この前髪が表情をほとんど隠してしまうほどに伸びきり、後ろ髪は縛るか縛らないか判断に迷うくらいな長さがうっとおしい、髪、瞳、かけてる眼鏡のフレーム、全てが漆黒、そんな女子高生の気を引くため。
でも俺は知っている。周りから、暗いだのなんだの言われているその黒の下、そこに隠れた表情が、驚くほど輝くことを。
「え…?」
森山は、顔をこちらに向けたまま目を見開いた。前髪で隠れて、その漆黒の目が少し開かれたことしかわからない。だが、それが驚きの表情であることは言うまでもない。
驚いたままの森山に、俺は笑顔を向けてみる。そう、それは最初の時と真逆の立場で、まったく同じことを、森山の真似を、俺はしたのだ。
だから、待った。きっと森山も、あの時こんな気持ちだったのかもしれないと、そう思いながら、待った。
「さ、桜木…くん?」
驚きと喜びと、両方混ぜたような表情を見せながら、森山は薄く開いた唇から、そうつぶやいた。
俺はその声に、『正解』の意を示すためにまた笑う。
森山に出会って、やっと思い出すことの出来た笑顔を見せるために。
けっこう危ういながら、割と意図して行ったサプライズに、森山はまずなんとコメントするだろうか。
恐らく今しばらくは、『和泉屋』で突然バイトを始めるにあたった経緯でも話すことになるだろう。
でも、その後は。
言いたいことや、聞きたいことが山ほどある。
それも全部ひっくるめて、今、言おうと思う。
これから時間は、きっとたくさんあるのだから。
そのたくさんの時間のなかで、少しでもお互いのことを知れるように。
桜木亮太、16歳。
バイト、始めました――。
はい、第一話「I lile 編」はこれで終わりです。
定番ラブコメみたいな展開で、辟易している方もまあ多いかと思いますが、僕はこういうベターな甘さが好きなので、こんな感じでべしばしやっていこうと思います(笑)
ですが、僕は敬愛するHEROさんみたいなほんのりビターな感じもかなり好きなので。たぶん要所要所に混ぜてくると思います。ビターがあるこそ甘さが映えることってあるよね。
そんな感じで、あまにがのメリハリをつけることを努力目標に、こつこつがんばっていきたいと思います。とりあえず、現状構想ができてるあたりまでは、書きたいなと。
例のごとく作者は遅筆ですので、もし気に入って「続編待ってるぞゴラァ!」みたいな方がもしいらっしゃったら、恐縮ですが作者の遅筆具合を考慮して頂きたいと思います(こらw
それでは、また会うことを願って。ここまで読んでくださり、ありがとうございました。




