後編
「と、いう事が昔あってね。今では懐かしい思い出だよ」
染み染みと、思い出に振り返りながら『私』はそう話を締め括る。
かれこれ四十年以上前の話だが、私の人生にとってターニングポイントと言えるあの時の記憶は、今でも鮮やかに残っていた。言葉にはしなかったが、老婆を突き飛ばした時の感触も、蹴飛ばした時の足の痺れも、今正に体験しているかのように想起出来る。勿論、あの後どうにか救助要請した事も覚えている。
私にとっては一つの思い出だ。しかし他者、それも一般常識のある者からするとちょっと不快な話かも知れない。
例えば私の隣、車の後部座席に座る私よりも少し年下の……『副社長』は、今の話を聞いて口許を引き攣らせていた。
「か、会長。その、今の話は、勿論状況から考えて仕方ないとは思いますが……」
「殺人ではないか、だろう? いくら私がもうすぐ七十とはいえ、それが分からないほどボケてはいないよ」
副社長の言葉を遮り、私は笑いながらそう答える。副社長は口を噤んだが、だからこそそう言いたかったのだと分かる。
実際、私のした事は殺人だろう。
厳密には正当防衛が成り立つだろうか。抵抗した結果老婆を池に突き飛ばし、老婆はそのまま沈んでいっただけ。助けはしなかったが、金槌による攻撃で腕を負傷した状態で、自分を襲った老婆に手を伸ばさなかった事が過失だとは思わない。
尤も、そうした言い訳はそもそも事件が発覚しなければする必要さえないが。
「問題ない。仮に、君がマスコミにこの情報を流したところで、事件にはならない。何故なら遺体がないからだ」
「……ええ。話の通りなら事件が起きたのは四十年以上前。遺体は池の底です。そして自分は、その池が何処かも分からない」
警察が殺人事件として捜査を始めるには、遺体という証拠が必要だ。それがない限り、殺人事件の立証は決して出来ない。
勿論血の一滴、肉の一欠片でもあれば証拠になる。過去には「死体を薬剤で溶かしたから証拠がない」と思い込んで人殺しを吹聴していた殺人鬼が、溶け残った毛髪が証拠になって逮捕された事があるらしい。そいつは、まぁ言うまでもなく馬鹿だが、しかしあくまでも証拠は溶け残った髪。そいつの主張である「死体がなければ証拠がない」そのものは、正しい訳だ。
私は『何処か』の池に老婆を沈めた。四十年も経てば今頃細胞一つ残らず微生物や土壌生物の餌だろう。血も、毛髪も、証拠と呼べるものは何一つ残っていない。大体あんな山奥の村(その村自体私は見ていないが)の、自称唯一の生き残りだ。この世からいなくなった事に、私以外誰も気付いていない筈である。
事件が表に出ない限り、私に捜査の手が及ぶ事はない。
「そういう訳だ。ま、警戒するに越した事はないがね。今の時勢はSNSで、どんな些細な一言も世界中に広がる。そして根拠のない『デマ』であろうとも、簡単に広まり、覆らない。日頃から言動には気を遣うべきだ」
「……なら、この話を今したのには、相応の意味があるという事ですか?」
「当然だろう。私は、無意味に秘密を話す事はしない。たとえ懺悔室の中でもね」
私が得意気に言い終えたところで、乗っていた車が停まる。
「到着しました」
そして黒い肌をした男――――運転手を務める『現地人』の男が、英語でそう告げてきた。
彼に言われて、私と副社長は外に視線を向ける。
到着した場所にあったのは、大きな工場だった。白い壁はやや薄汚れていて、建設されてからの年季を感じさせる。外からでも工場内の音が微かに聞こえてくる程度には、中では従業員が活発に働いているのが窺い知れた。
私は玄関口から工場へと入り、受付へと向かう。警備員の男二人が私達を止め、アポイントメントの有無と目的、そして約束を取り付けた工場内社員の名を求めた。
素晴らしい仕事ぶりだ。私はこの工場の『オーナー』と言える立場だが、顔パスなんてしたらこの二人をクビにする。友人ですらない人物を記憶で判別するなどセキュリティ意識の欠片もない。相手が自称どんな立場だろうと規則は厳守すべきである。
私は入場シートに名前を記載し、工場長の名前を彼等に伝えた。警備員の一人が電話を掛け、私の来場を工場長へと伝える。
それから、さて、二分ぐらい待っただろうか。
黒い肌をした小太りの男、この工場の責任者である工場長が建物の奥からやってきた。人の良い笑顔を浮かべており、朗らかな人柄を想起させる。実際、私の知る限り彼はとても好感の持てる、爽やかで穏やかな気質の持ち主だ。
「ようこそおいでくださいました。今回は加工施設と、原材料施設の見学でしたね。ご案内します」
工場長が先導し、私達はその後を付いていく。
工場内通路を通っていくと、やがて長いガラスの貼られた場所に辿り着いた。ガラスから中の様子を覗き込めば、そこには多くの労働者、それと機械がある。
労働者達は様々な仕事をしている。まず大きな袋を抱え、中身である小麦粉や砂糖などを機械へと投入する者。投入された機械を操作し、出てくる生地に異常がないか監視する者。生地が機械の中へと入り、焼かれ、出てきた焼き菓子を検品する者。検品後に箱詰めされた『製品』を検品する者……
そう、此処は食品工場だ。主に先進国向けの菓子類を製造している。本社は私の母国である日本にあるが、生産工場は専ら諸外国、例えば此処はアフリカ某国にある。
そして私はこの菓子類販売で、巨万の富を築き上げた。私考案のレシピで作られた菓子は何処の国でも美味だと称賛され、売上は好調。業績も右肩上がりが続いている。あまり多くを求めるつもりはないが、社員や株主に利益をもたらすためには前進し続けないといけない。
勿論私がどれだけ金を稼げと叫んでも、現場が付いてこなければ話にならない。だからこそ工場視察は大事なのだが……この様子なら心配はいらなそうだ。
「皆、真面目に働いているな」
「十分な賃金に加え、いい環境で働けていますからね。クビになりたくなくて誰もが必死ですよ」
アフリカの就労環境は、お世辞にもよいものではない。賃金が低いだけでなく、労働環境が劣悪なものも多い。
この工場がある地域は、水道や電気などのインフラが整っている。しかしこれは我が社がこの工場を建てるため、インフラ設備に投資したから存在している。言い換えれば工場が建つまで、インフラ整備の土木工事業すらなかった訳だ。もしもこの工場をクビになったら……まぁ、今では商店ぐらいあるが、他は農業畜産ぐらいしか仕事がない。必死にしがみつく気持ちは私も多少なりとも理解出来る。
会社経営者としては、彼等の雇用をきちんと守っていかなければならない。高い賃金を出しているのだから従業員には相応の働きを期待するが、彼等の賃金を捻出するのは私達経営陣の責任だ。
これからも彼等の作る菓子類は世界中で買われ、彼等の生活を支えてくれるだろう。
――――さて。視察は此処からが本番だ。
「従業員の働きぶりはよく分かった。そろそろ、あそこに案内してくれ」
「分かりました。こちらです」
私が『次』を促せば、工場長は奥に向かって歩き出す。
長い廊下を黙々と進む中で、私は自分の後ろを歩いている副社長に声を掛けた。
「さて、君に一つ質問しようか。我が社の製品が何故世界中で人気になったのか、その理由を答えられるかね?」
「え? え、ええ。会長が考案したレシピが……と、表向きは発表されていますが、実際はレシピよりも原料が我が社の製品の品質を保証しています」
「その通り。レシピも重要だが、やはり食べ物は原料から拘るべきだ。どんな調理方法でも、食材が腐っていたら出来上がるのは吐き気をもよおす代物だ」
我が社の製品が人々を魅了した真の理由は、原料にある。まぁ、原料もレシピの一つと言えば、やはりレシピが重要と言えるかも知れないが。
話を戻そう。
「その原料で公表されているのは一部。更に味を決める『根本』は、我々取締役と一部工場長しか知らない」
「は、はい。私も副社長までなりましたが、まだ一部の原料を何処から入手しているのか、どの品質で購入すれば良いのかは把握していません」
「そうだろう? しかし、まぁ、君もそろそろ取締役に推薦されるかも知れないからね。ほら、私も歳だからさ」
遠回しに、私が近々引退して取締役の席が一つ空く事、その空席によって副社長が出世する可能性を伝える。
一瞬キョトンとした後、副社長は(取り繕ってはいたが)嬉しそうに笑った。出世は男の本懐、なんて時代遅れな事は言わないが、彼はそういうタイプだ。出世すれば一層仕事に励んでくれるだろう。そういうところを評価したから、彼を推薦するつもりなのだ。
……この後の返事次第ではあるが。まぁ、そちらも大丈夫だろう。
「話を戻そう。特に重要な、というより本当に重要な原料は一つだけでね……水だよ」
「水、ですか。確かに蕎麦やパンなど、水の良し悪しで美味しさの変わる料理は多いと聞きます」
「そうだろう? 我が社の製品も当然水を使うが、ただの水道水では駄目だ。どんなプロでも、あの味は再現出来ない」
私の話に副社長はニコニコと笑いながら頷く。
頷いた後、少し口許を引き攣らせた。
我が社を背負う人材だ。このぐらいの察しの良さはないと困る。
「だから我が社の工場は、特定地域にしか建てない。アフリカや東南アジア、中東など……人件費の安さとかは、そうであるに越した事はないが、あまり気にしてはいけない。まずは原材料の確保が重要だ」
「……な、成程」
「で、この工場でも水から作っている」
私と副社長は、工場長に案内されてやがて工場の最奥に辿り着いた。
分厚く、頑強な扉。
その扉の先に入ると、また連絡通路が伸びている。製菓作業場が視察出来た先程の廊下と同じように、長い窓ガラスが貼られた区画。
工場長が手を伸ばし、窓から覗き込むよう促す。私は堂々と、副社長はおどおどと、窓から中の様子を覗き込む。
窓ガラスで区切られた先には、巨大な金属製の樽が無数に並んでいた。
数人の、ごく少数の作業員はその樽にホースで水を注いでいく。注いでいる水自体はただの水道水だが、これを原料にして美味しい水を作る。
その方法について説明するには、車の中で語った昔話から振り返らなければならない。
「学生時代、私が山で遭難した話をしただろう?」
「え、ええ。はい、勿論覚えています」
「あの時、山で飲んだ水の美味しさをどうしても忘れられなくてね。万全の準備をして、また池に向かったんだ」
本当に、あの水の味は忘れ難く、整備されていない山の道さえも覚えてしまうほどだった。
無事池に辿り着いた私は、飲み干したくなる衝動を抑えつつ池の水を採取した。それから土や落ち葉も採取し、生えている植物の写真も片っ端から撮った。池を形作るあらゆる情報を収集したのだ。
そして得られた情報を、友人の学生に渡した。魅了されるほどの美味しさの秘密を、科学的に解き明かそうとしたのである。持ってきた水とかだけでは足りず、何度か現地調査もした。
優秀な友人達は、数年で秘密を解き明かしてくれた。
なんでもあの池の底、泥のような堆積層には新種の細菌がいたらしい。細菌は様々な有機物を分解し、老廃物として様々な無機物や、より小さな有機物を生み出す。例えばタンパク質を分解する時には、より小さな物質であるアミノ酸や硝酸に変えるとか。
その老廃物の中に、新種のアミノ酸が含まれていた。
このアミノ酸自体には『味』がないらしく、栄養価も殆どないらしい。だから大半の動物はあまり関心を持たないようだ。しかし哺乳類、特に人間含めた類人猿の味覚を強烈に刺激し、『美味しさ』を感じさせるという。
「そこで私は考えた。この水を使えば、誰もが虜になる食品が作れるのではないか、とね。この工場ではその水を、厳密には細菌達を培養しているのさ」
「な、成程……確かに、先程聞いた話の通りなら人を狂わすほど美味しい訳ですからね。いや、ですがそれは……」
副社長の口が鈍る。言葉を選ぶような躊躇いが、何度も挟まる。
私は、構わず話を続けた。
「しかし、だ。細菌達は何も人間のために美味しい水を作っている訳ではない。繁殖には餌が必要だし、その餌も適当ではいけない。あくまで、我々が美味しいと感じるのは彼等の排泄物だからね。ちゃんとバランスを考えないといけない」
「え、ええ……ええ、そう、ですが、しかしそれは……」
「だからね、餌を与えないといけない。いやはや、そう考えると昔の人の知恵というのは素晴らしいね。無肥料で作物が育つと考えている現代人より、余程科学的で合理的だ」
かつて老婆が語っていた。水の味が落ちた時、村は多くの生贄を捧げたと。
原理が分かれば、その判断の正しさも理解出来る。池の水自体は雨水や湧き水などで補充されるだろう。しかし細菌達が長い年月を掛けて分解・蓄積していたアミノ酸は、人々が飲めば飲むほど減っていく。
だから時折アミノ酸の原料であるタンパク質を与えなければ、池の水の味が薄まっていくのは必然。生贄として人間を沈めれば、その身体に含まれるタンパク質を細菌は食べる。そして老廃物であるアミノ酸を大量に排泄し、水の味は戻るという訳だ。無論、一人や二人ではなく、十人二十人と捧げれば、その分アミノ酸も豊富になるのでもっと美味しくなるだろう。
なら、その仕組みを再現すれば――――あの池の、狂おしいほど美味い水を再現出来る。
「ここではその再現が行われている。この餌が、世間に発表出来ないものでね……」
私は副社長の耳許に歩み寄る。副社長は視線を僅かに震わせ、呼吸は少し早くなっていた。
動揺している。
上手く隠している方だが、私なら見抜ける。今頃彼は私が車内でした話を思い出し、その『餌』を想像しているのだろう。
だから私はハッキリと告げた。
「鶏のモモ肉3、豚のバラ肉2、イワシ1。この比率の肉団子に野菜や果物を少々混ぜ込む。塩は使わないように」
世間に発表出来ない『レシピ』を。
「……………はい?」
「だからレシピだよ。細菌達の餌の配合比率。色々試したけど、これが一番良かったね。まぁ、今でも研究はしていて、日々改良している訳だけど」
「え? えと、え?」
副社長はキョトンとし、あからさまに狼狽える。滑稽、という言葉では足りないぐらいの間抜け面。
うむ、これが見たかった!
「あはははは! 君ねぇ、まさか我が社で人間を殺していると思ったのかい?」
「え、あ、いや、えと」
「副社長、きっちり怒った方がいいですよ。この人、何時もこのレシピを伝える時こんな感じでイタズラを仕掛けてますから」
「わっはっは」
笑いながら工場長からの(過去何度か受けた)批難を受け流す。
当然だ。人間を生贄にして、それで美味しい菓子を作るなんてあってはならない。
大体やる必要なんてない。繰り返しになるが、細菌達は人間のために美味しい水を作っている訳ではない。同時に、人間を狂わせるためにやっている訳でもないのだ。ただ自分の繁殖のため、有機物を分解しているだけ。
つまり人間がいい感じの栄養を与えれば、いい感じに美味しい成分を出してくれる。細菌達はただ繁殖しているだけなのだから。
そのいい感じの栄養を、我が社は長年の試行錯誤により見付け出したのだ。ちなみに安全性の検査もちゃんとしていて、美味しさの源であるアミノ酸に毒性がない事は動物実験で確認済み。細菌達も感染力は皆無かつ加熱すれば簡単に死ぬため、しっかり調理すれば安全だ。それでも念のため調理前に水の成分鑑定をし、基準を守るようにしている。
「いいかね? 原理を解明するというのは、単に真似出来るというだけではない。理屈が分かれば応用も利く。応用出来れば、美味しいところだけ頂ける訳だ」
もしも、美味なる水がなんらかの怪奇現象だったとしても……人類はきっとそこに法則性を見付け、対策を考えるだけでなく、利用方法も編み出すだろう。
オカルトやSFでは、一番恐ろしいのは人間、なんて興醒めなオチがよくあるものだが。現実の人間の逞しさを考えると確かにそうかも知れないと思う時がある。人間というのは、強欲だからこそ侮れないものなのだろう。
「な、成程……心しておきます」
副社長も、同じような事を思ったのか。ややぎこちないものの、緊張の解けた顔付きになっていた。
「そうしてくれたまえ。ちなみにアフリカなどで工場を建設した理由は、やはり水だね」
「水ですか……水質が、細菌達の生息していた池のものに近い、とかでしょうか」
「素晴らしい! 正解だ。理論上は池の水で培養するのが最適だが、山の一ヶ所の池から取水したらあっという間に枯渇してしまう。だから似たような水質の川や湖を探して、その近くに工場を建てたのさ。建設地点が尽く人権意識の希薄そうな国々になったのは偶々だよ」
工場長と副社長と共に、わははと笑う。イタズラは大成功といったところか。
それでも副社長は酷い心労が掛かっただろう。彼はハンカチを取り出すと、額の汗を拭っていた。ちょっと顔色も悪いかも知れない。
やれやれ、少し驚かせ過ぎたか。ほんの少し罪悪感を抱きつつ、私は鞄の中に入れていた水入りペットボトルを取り出した。
「少しやり過ぎたかもね。ほれ、水でも飲みたまえ」
「あ、は、はい。ありがとうございます」
副社長は渡したペットボトルを受け取り、くぴっと一口飲む。
――――飲んだ瞬間、大きく目を見開いた。
そのままがぶがぶと、飲み続ける。ペットボトルの水は、多分五百ミリリットルぐらいは入っている筈。中々一気に飲み干すのは辛い量だが、彼は息継ぎなしに飲んでしまった。
工場長は不思議そうな顔をしている。私は工場長に「ちょっとやり過ぎたかねぇ?」と、おどけながら話す。
少し話をするからと伝えて、私と副社長は工場長から距離を取った。それからそっと、副社長の耳許に顔を近付ける。
「美味かっただろう?」
そこで、ぼそりと囁く。
副社長は息を乱し、目を血走らせながら頷いた。
「は、は、はぃ」
「それ、件の池の水だよ。貴重な、ね」
「い、池、の」
「だって君、あの池は我々からしたら重要な資源だよ? ちゃんと菌株は保管しているけど、それはそれとして、池自体も保全しなきゃ駄目じゃないか」
会社がある程度大きくなって、十分な資産が出来た頃。私は、かつて遭難したあの山を買った。あの池が開発などで潰されないよう、保護しなければならなかったからだ。
幸い池は未だに残っていて、無事細菌達の『原種』や生息地は保護出来た。今は傍に研究所を建て、山の周囲は柵で囲って立入禁止にしている。関係者以外入れなくして保護はバッチリ。まぁ、温暖化など諸々の環境問題があるから油断は出来ないが。
兎も角、細菌達本来の生息地を守り、研究した事で二つの事実が判明した。
「池を三十年近く研究して、二つの事が分かった。一つは環境と味の関係。細菌達にとって、やはりあんな金属製の樽や外国の水よりも、故郷の池が良いらしい。池の水で培養すると、同じ餌を与えても味が格段に良くなる」
「な、な、なら、先程の、み、水は」
「池の水だ。厳密には、池の水で菌を培養したもの、だがね。どうだい? 今まで飲んだ水とは、比にならないだろう?」
私からの問いに、副社長はこくんこくんと激しく頷く。果たして私の声をちゃんと理解しているのか怪しく思えるが、きっと大丈夫。
単に、水の事しか考えられないだけ。だから水の話なら理解出来る。
「やはり、自然というのは難解だねぇ。水温や酸性度だけでは、池の環境を再現したとは言えないらしい。だから今、この美味しい水は池から得るしかない」
「な、なる、ほど。い、池から、なら」
「そしてもう一つ判明した事がある」
たっぷりと間を開けて、勿体ぶるように。待つ間、副社長は目をギラギラと輝かせる。
「餌はね、やはり人間が一番良い」
私の言葉を聞いても、副社長の目の輝きは失せなかった。
「人間……」
「というより、同族かな。山に作った人工池での実験でね、そういう結果が得られた」
細菌達は有機物を分解して、美味なアミノ酸を出す。そのアミノ酸の種類や比率は、分解する有機物の種類によって変化する。
そして生み出されたアミノ酸を一番美味しいと感じるのは、細菌達の餌となった生物の同種。
豚や牛、ネズミやサルなどを対象にした実験で得られた結果だ。会社設立前からの付き合いである、友人兼研究顧問の科学者曰く、それが細菌達の生存戦略だろうとの事。
まず、なんらかの理由で溺れた動物がいたとする。細菌達はその死骸を分解し、排泄物として様々なアミノ酸を生産。これを含んだ水を溺れた動物の同種が飲むと、味わいに夢中になって更に飲もうとする。自制心なく水を欲した動物は池の深みへと向かい、そして沼のような泥に沈んで死ぬ。
池の水の美味さは、獲物を呼び寄せる罠なのだ。
そして罠はついに人間の目に止まった。賢く、尚且つ強欲な人間は、細菌達の狙い通りせっせと『餌』を運んで繁殖を手伝った。現代では我が社の管理下にあるとはいえ、世界中に分布を広げている。個体数も私が発見する以前の何万倍、いや、何億倍にも増えただろう。人類が宇宙に進出した時にも一緒に付いてきて、共に繁栄するに違いない。
人類は細菌を利用するどころか、利用されているという方が正しい。まぁ、お陰で人類の『食』がワンランク上がったと思えば、ちゃんとWinWinな関係ではあるが。
――――話を戻そう。
「当然、販売する菓子に人間を餌にして作った水なんて使えない。試しに計算してみたがね、この最高に美味い水で我が社の全製品を作ろうとしたら、年間三千万人ぐらい必要らしい」
毎年三千万人もの生贄を捧げる。最早人類社会を脅かしそうな人数だ。真に恐ろしいのは、あの水を飲めばそれだけの犠牲を人類の大部分が許容しそうな事だが。
流石にそれをすると文明が滅びかねないし、政府にも行いがバレるだろう。全人類にこの水の真の美味しさを伝える事は、あらゆる点から無理である。
しかし、ごく一部の人間であれば》》、話は別だ。
「我が社の幹部層、それと大物政治家……ごく僅かな、限られた人間だけがこの水を味わえる。いや、もっと美味い水もあるぞ」
「こ、こ、この、水を、超える……」
「そうとも。毎日、毎日、あの池には人が沈んでいる。今や、さぞや濃厚な旨味に溢れているだろう」
私の囁きに、副社長はついに涎を垂らす。記憶の中の、たった今飲んだ水を思い出して、あっという間に乾いた舌と喉を潤したがる。
当然、この水を飲むには人間の犠牲が必要だ。
変な薬物を混ぜたくないから、死刑囚など殺す予定の人間は使えない。緻密な身体検査と身辺調査を経て、心身が健康だと認められた者だけが生贄となる。人身売買も経由しており、もしも発覚すれば世界最大のスキャンダルとなるだろう。
副社長がマスコミにこの話を持ち込むだけで、我々の美食は終わりを迎える。
しかし、まぁ、そうはならない。
何故なら人間は、どれだけ文明や文化が発達しても、根本的なところでは何も変わっていない。数百年前の、村人全員を生贄に捧げた時と、今の私達に違いなんてない。
「ま、そういう訳だ……今後の活躍、期待しているよ」
「は、はい。こ、今後も、我が社に、誠心誠意、尽くします」
この美味しさに狂わされた我々は、水を得るためならなんだってするのだから。




