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水狂い  作者: 彼岸花
1/2

前編

「……迷ったな、これは」


 ぽつりと、思った事がそのまま言葉となって口から漏れ出る。その微かな声は周りで喧しく鳴き喚くセミの大合唱に掻き消され、誰かの下には届かなかっただろう。

 『俺』は今、山の中を彷徨い歩いている。

 鬱蒼と茂る木々の姿は野生味溢れるもので、里山のような人の手が入ったものではない。下草も、倒木もあって、通れそうな場所を塞いでいる。夏を迎えて色濃くなった葉が日差しを遮り、地上はかなり暗い。

 地面は何処もかしこもぐちゃぐちゃで、滑らないようゆっくり歩かないと危なくて仕方ない有り様だ。蒸発した水分と夏の暑さが加わり、辺りの空気はねっとりとした熱気を帯びている。蚊が異様なほど飛び交い、ぶんぶんと喧しい。鳥の声もあちこちから聞こえ、賑やかを通り越して五月蝿いぐらい。

 自然豊かと言えば聞こえは良いが、お世辞にも人が通る道ではない。そして今の俺は、此処から麓に降りる道が分からない。

 つまり、山奥で遭難という訳だ。


「何時か、そういう事になるかもとは思っていたけどな……」


 ヤバいとは思っているが、そこまでショックでもない。

 というのも、俺は趣味で『秘境』巡りをしている。秘境と言っても冒険家みたいなやつではなく、夕焼けが綺麗な山とか、凍った滝とか、ネットで情報収集すれば見付かる程度のものだが。大学生なので時間はそこそこあるが、単位は落としたくないので何十泊もするような遠出も出来ず、連休中に国内の名所巡りが精々である。

 今回登ったこの山は某県に位置し、美味しい湧き水があるという事で有名だった。

 有名といっても登山道から外れた場所にあり、遭難の危険性の高いルートなのは間違いない。だが俺は知る人ぞ知る湧き水に興味を持ち、一度飲んでみたいと思った。

 勿論色々準備して登ったつもりだ。しかしそれでも、自然相手なのだから絶対なんてない。恐らく何処かで登山道を外れ、その事に気付かぬまま歩き続けて……

 今、帰り道が分からなくなっている。


「救助要請はするとして、だ」


 こうなった以上、警察に救助要請をするしかない。恥ずかしいし、迷惑を掛けてしまうが、命には変えられない。

 ただ、要請したら後は待つだけ、では助からないだろう。

 何故なら今は夏だから。都心ほどではないにしろ、山の気温も三十度を超えている。そんな中を歩き回った結果、全身から噴き出すように汗が流れていた。服はまるで洗濯機から出したばかりのようにぐっしょりと湿り、絞ればコップを満たすぐらいの()が得られる筈だ。

 何本か持ってきていた飲み物は、今では全て空になっている。俺は医者じゃないので正確な事は分からないが、水分補給なしでこの暑さに晒されれば、一時間かそこらで脱水状態に陥るだろう。

 救助要請をしたとして、実際に助け出されるのはそこから数時間後……いや、それは場所がある程度分かっていればの話だ。俺のように何処で迷ったかも曖昧では、もっと時間が掛かる。しかも今の時刻は正午を過ぎていて、三〜四時間もすれば日没になる。暗い中での捜索は危険だから打ち切られ、翌朝に再開される筈だ。

 人は、脱水症状が出てから丸一日生きていけるものだろうか?

 生憎、俺は自分がそんな超人だとは思わない。恐らくこのままでは、救助を求めたところであえなく死ぬ。どうにか水分を得るか、三時間で見付けてもらえる地点に移るか、丸一日いられるぐらい涼しい場所を探すか……


「う……」


 何か手はないか、と考えたところで目眩がする。足が動かなくなり、その場で膝を付いてしまう。頭が痛く、吐き気もしてきた。

 どうやら自分が思っていた以上に脱水、もしくは熱中症が進行していたらしい。

 まだ救助要請を出していない。ここで倒れたら、間違いなく二度と目を覚まさない事になる。頭ではそう思うのだが、身体の自由が利かない。意識が、段々薄れていく――――


「おやおや。どうしたんだい?」


 俺が意識を取り戻せたのは、そんな声を掛けてもらえたからだ。

 残り少ない力を振り絞って振り返る。

 そこにいたのは、一人の老婆だった。背は低く、腰は大きく曲がっている。顔はしわくちゃで、歳は八十か九十ぐらいだろうか。服は着物のようだが薄汚れていて、失礼ながらホームレスにしか見えない。

 そしてこんな暑苦しい山の中で、大して汗も掻かずニコニコと微笑んでいる。

 正直、胡散臭いというのが第一印象。だが、そんなのは些末な問題だ。このタイミングで出会えるのなら、そいつが殺人鬼でも構わないぐらい今の俺は追い詰められている。胡散臭かろうがなんだろうが今は助けを求めなければ。


「あ、うぁ。あ……!」


「呂律が回ってないねぇ。ほれ、水でも飲みなされ」


 老婆はそう言うと、俺に竹で出来た筒……いや、あれは水筒なのか? を差し出してきた。

 その水筒からちゃぽんと音が聞こえた瞬間、俺の手は獣のように老婆から水筒をひったくる。知らない人から物をもらってはいけない、なんて子供の頃の教えを無視して、寸分の躊躇いなく中身を口に流し込む。

 水筒の中に入っていたのは、思った通り水だった。

 ごくりごくりごくり、と三口ほどは無我夢中で飲み干す。息継ぎのため一度水筒から口を離し、ほっと息を吐いた。その間に飲んだ水が身体中に広がる感覚に見舞われ、やや間を開けて汗がどっと噴き出す。

 汗と共に身体の冷える感覚もあり、薄れていた意識もハッキリとしてくる。

 水の『味』に意識が向いたのは、その後の事だった。


「う、うま、い……?」


 美味い。すごく、いや、途轍もなく。

 最初は極度の脱水状態で飲んだ水だからだと思った。しかし一息整えた後、改めて水筒の水を飲んで、そうではなかったと確信する。

 凄まじく美味い水だ。必死で飲んだ一回目よりも、落ち着いてから飲んだ二回目の方が遥かに美味しく感じる。身体の渇きではなく、『味』が良いのだと確信出来た。

 味といっても、甘いとかしょっぱいとか、そういう味わいではない。あくまでも水の味なのだが、ジュースや酒のような嗜好品にも負けない、いや、遥かに上回る美味しさを感じる。甘くも辛くもないのに美味いとは我ながら奇妙な事を言うとは思うが、そう感じるのだから他に表現しようがない。

 本当は、高々一口二口の水なんて今の身体には足りないと思うが……この美味さを長く味わいたくて、ゆっくり噛み締めながら飲んでしまう。何度も何度も、喉越しや風味を味わいたくて堪らない。

 だけど、水筒一本に入る水量なんてたかが知れている。あっという間に飲み干してしまった。


「あ、あぁ……!」


「ほっほっほっ。そんなに美味かったか」


 俺が水筒をひっくり返し、一滴でも飲もうとする仕草を見て、婆さんは如何にも年寄りらしい笑い方をする。

 言われてハッとした。この婆さんは正に命の恩人だ。なのに俺は水の美味さに惚れ惚れするばかりで、礼の一つも言っていない。


「す、すみません。水、助かりました」


「気にせんでええ。困った時はお互い様じゃ」


 婆さんはにこりと笑う。相変わらず胡散臭く見えるが、そういう笑い方の人なのだろう。


「しかし恐らく死にかけていたようだしのぅ。水一杯では足りんだろう?」


「え、ええ……まぁ……」


「生憎わしも手持ちがない。じゃが、近くに水場がある。そこで水をたらふく飲むとええ。案内してやろう」


「え。いや、それは……」


 婆さんからの提案に、俺はすぐに頷く事が出来なかった。

 そこまで面倒を見てもらうのも悪い、というのが理由の一つ。それといくら脱水状態とはいえ、生水を大量に飲むのも良くないと思った。自然界にある水は、動物の糞やら死骸やらで汚染されているものだ。そのまま飲むと良くて腹痛、悪ければ感染症や寄生虫にやられるかも知れない。

 とはいえ、水筒一本の水を飲んだだけでこの後山を無事に下れるかと言えば……流石に無理だろう。一晩も経てばまた脱水で倒れてしまう筈だ。

 何より、この水はあまりに美味い。

 ()()()()()のであれば、多少のリスクは気にしないぐらい。


「い、いや、あの、俺は」


 それでも、まずは救助の要請が先だと思い直す。俺は老婆の申し出を一旦断るために顔を上げ、


「それに、直に飲む水はもっと美味いぞぉ」


 この一言を聞いた瞬間、俺は自分の言葉を飲み込んで頷いていた。






 老婆に連れられ、向かった先は更に山奥だった。

 此処に来るまでの道のりも『自然豊か』だったが、今通っている道は今までの比じゃない。自然に飲まれたではなく、ありのままの自然という感じの道だ。

 具体的には草だらけて歩き難いし、藪からヘビや鹿が出てくるし、蚊には百発ぐらい食われている。老婆曰く、クマも出るらしい。今鉢合わせたら、しわくちゃな老婆ではなく、より肉付きの良い俺が狙われるのだろうか。茂る草葉は刃物のように鋭くて、長袖長ズボンを着ていなければ全身血塗れになっていたに違いない。根っこに蹴躓いて何度も転んで、泥塗れにはなったが。

 おまけに道のりが長い。先程飲んだ水分は、恐らく大部分が汗となって流れ出た。身体が再び渇きを覚え始めている。生命の危機がまた訪れつつあるのを感じていた。

 冷静に考えれば、たかが水のためになんでこんな苦労をしているんだかと思う。美味い湧き水が飲みたいという理由で、クマが出る山を脱水になりながら登るのは最早気狂いの類だ。

 だが本能的な、欲望の部分ではまるで疑問を持っていない。あんなにも美味い水を飲むためなら、このぐらいの苦労はしても当然だとすら思ってしまう。それだけの魅力があの水にはある。


「ほうれ、気張れ気張れ。もうすぐ辿り着くわい」


 それは老婆のこんな励ましの言葉一つで、みるみる活力が湧いてくる事からも明らかだ。

 もうすぐあの水が、たらふく飲める水場に着く。そう思ったら居ても立ってもいられなくなって、俺は無意識に駆け出していた。老婆を追い抜いてしまうが、老婆は俺の行動に驚きもせず、そのまま行かせてくれる。

 真っ直ぐ、本能のまま突き進めば――――上り坂は終わり、平坦な地形に辿り着く。

 そして前を見据えれば、キラキラ光るものが見えた。

 瞬間、俺の足は一層加速した。疲れは吹き飛び、むしろ身体が軽く感じる。渇きは何倍にも増したのに、力が溢れて止まらない。この時の走る速さは、今までの人生で一番の俊足だったかも知れない。


「お、おおおおおお……!」


 走った勢いのまま倒れ込み、俺は辿り着いた場所で四つん這いの体勢になった。

 そこは大きな池だった。

 湖ではない、と思う。ちゃんとした定義を知らないので断言はできないが、湖というほどの大きさではないだろう。それでも大人が悠々と泳げるぐらいには、十分な広さがある。

 周りに生えている木は、森に生えているブナ等とは種類が違って見える。池の近くなので水場を好む樹木が生えているのだろう。池の中には水草が生え、底には多数の落ち葉が沈んでいる。時折動く影が見えるので、魚や昆虫はそれなりに生息しているようだ。

 何より、俺一人で飲み干せる水量じゃないのはありがたい。

 ……自然とそんな考えが浮かぶぐらい、俺はあの老婆からもらった水の虜となっていた。川どころか池の水なんて、それこそ死骸や糞で汚そうだと思うのに、口にする事への躊躇いが微塵も湧かない。水は明らかに濁っているのに、腹の内側から噴き出す衝動は寸分も弱まらず、むしろ強さを増していく。

 欲求が止まらず、俺は四つん這いのまま池の水に直接を口を付けた。

 一口飲めば、頭の中で味覚の花火が炸裂する。


「う、うめぇ……うめぇ……!」


 最初こそ上品ぶって水を啜っていたが、すぐに欲望を抑えきれず、まるで肉でも貪るように水を()()()

 やはり色んな不純物が混じっているのだろう。口に入れた水はちょっと土臭く感じた。

 だがそれ以上の『旨味』がある。

 老婆からもらった水ですら、なんらかの理由によって劣化したものだったらしい。池の水は飲めば飲むほど、至福の味が全身を満たしてくれる。十口も飲むと息が続かず、苦しさすら感じるが、それでも飲むのを止められない。

 もっとほしい。もっと飲みたい。もっと味わいたい。

 恐らく、もう身体の渇きを癒すという意味では飲む必要なんてない。病原菌だらけの汚い水だと思えば、少しでも摂取量を減らすべきだ。頭では分かっているのに、身体が言う事を聞かない。

 腹がぱんぱんになって、肺の空気がなくなって、色々苦しくなってようやく顔を上げた。


「ぷっ、はあぁーっ! はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」


 乱れた息でも、肺の中に酸素を送れる。酸欠の苦しさはすぐに薄れた。意識が明瞭になる。

 すると、また池の水を求めてしまう。

 もう渇きは癒えたのに、まだまだ飲み足りない。無論こんなにたくさん飲んでも、池の水が枯れる事はないだろう。だがいくらなんでも飲み過ぎだ。

 なのにまだ飲み足りない。水の事ばかり考えてしまう。

 少し落ち着こう――――自分に言い聞かせるよう心の中で俺は言葉にし、乱れた息を整える。それから少しでもこの水とは違う事を考えようとして、ふと思い出す。

 そういやあの老婆の姿を見てない。

 途中まで一緒で、最後にちょろっと追い抜いただけ。結果的に俺はこの池に辿り着いたのだから、逸れる事もない。今も何処かにいる筈だ。わざわざ水場まで案内してくれたのに、まだ俺は例の一つも言ってない。


「すみません、我慢出来なくて」


 無意識に謝りながら俺は背後へと振り返り、

 そこで金槌を振り上げた、命の恩人である老婆と目が合った。


「ひぃあっ!」


「うおぁ!?」


 金槌は俺の眉間目掛けて振るわれる。驚いて腰が引け、無様に尻餅をつくように仰け反らなければ間違いなく一撃もらっていた。

 たかが老婆の一撃、と言いたいところだが、振り下ろされた金槌は小さなものではない。一体何処で買ったんだと言いたくなるような、デカくて太い奴だ。しかも振り下ろす勢いは、とても老いたババアが出せるような速さじゃない。


「きひひひっ!」


 更にこの老婆、俺が躱したと気付くや薙ぎ払うように腕を振ってきやがった。

 横方向に飛んでくる金槌。咄嗟に腕を構えなければ、側頭部をガツンとやられていただろう。

 無論腕だからノーダメ、なんて訳もない。強烈な痛みが、腕から脳に駆け巡ってきやがった。一瞬思考が飛んで、後から『痛い』と理解して叫ぶ。

 それでも藻掻きながら動く俺に、老婆が近付いてくる。


「大人しく死ね! 死ねぇ!」


 大きく上げた金槌を、俺の頭目掛けて振り下ろす。

 受ければ間違いなく致命の一撃。

 しかし命の危険に晒されて、俺の頭は必死に動いたのだろう。狙いがハッキリと分かった事で、動きに合わせて片手を動かす事が出来た。金槌が頭を打つ前に、俺は老婆の腕を掴む。

 そのまま押し返して、組み倒して殴り返せば……

 相手は老婆。普通に考えれば、若い男である俺の方が圧倒的に強い。俺は勝ちを確信し、口許に笑みを浮かべた。

 尤も、余裕ぶっていられたのはほんの数秒だけだが。


「ぐ、あ、お、おお……!?」


「ひ、ひひっ、ひひひひひ!」


 老婆の力は、俺が想像していたよりも遥かに強かったのだ。

 確かに、さっきの一撃で片腕は使い物にならない。地面に仰向けで倒れた体勢じゃ上手く力が入らない。だがそれを差し引いても、俺は秘境巡りが好きな大学生だ。自慢じゃないが身体は鍛えている方で、そんじょそこらの男には負けない。

 なのにこの老婆を押し返せない。正気を失った眼差しに見つめられると怖気が走り、腕にびりびりと圧迫感が駆け抜けていく。

 人間というのはここまで恐ろしい力が出せるものなのか。いや、我が子や恋人の仇というのであれば、多少驚きはすれどそういう事もあるかと納得は出来る。だが俺は、誰かを殺したり、尊厳を貶めたり、そんな殺されても仕方ない事をした覚えはない。そりゃあ恨みなんて人それぞれで、知らないうちに買っている事もあるだろうが、だとしても心当たりが全くない。

 どうにかガラ空きの腹を蹴飛ばして、老婆を上から退かしたが……腕の痛みと恐怖から、身体が思ったように動かない。

 対して老婆は腹を蹴られたダメージなどないかのように、軽やかに立ち上がる。あんな歳なら俺の蹴りで骨が折れても不思議じゃないのに、まるで小さな孫にじゃれつかれた程度にしか感じてなさそうだ。


「ひ、ひひひ! 冥土の土産に、教えてやろうじゃないかぁ……!」


 俺が逃げられないと思ったのか。じりじりと躙り寄りながら、老婆は不気味な笑みを浮かべて話し掛けてくる。

 曰く、かつてこの池は『味水』と呼ばれていたらしい。

 途方もない旨味を宿した水で、この水を求めて集まった人々が近くに村を作るほど。水は生活で使うものだが、村の人は農作物に与えるよりも、それ以上に自分で飲んでしまうほど水の美味さに魅了されていた。時には水を巡って隣人間で殺し合いが起きるほどだったという。

 だが、その水の美味しさは年々衰えていった。

 人々は池を離れなかった。極上の旨味を知ってしまった者達に、もっと暮らしやすい土地へ移住するなんて考えはなかったのだから。池の土を掘り起こしたり、湧き水の場所を広げたり、一度は切ってしまった木を植えたり……

 そして生贄を捧げたり。


「一番効果があったのが、生贄さぁ。一人、人間を沈めりゃあ水は格段に美味くなったんだからねぇ」


「み、水のために、村人を殺したって事か? いかれてる……!」


「本当にそう思うかい? この池の水を飲んで、本当に理解出来ないのかぇ?」


 ケタケタ笑いながら尋ねててくる老婆に、俺は思わず言葉を詰まらせてしまう。

 ただの水なら、堂々と反論してやっただろう。知識のない大昔に、干ばつに苦しんで神に願うとか、間引きも兼ねてなら兎も角、美味い水を飲むために誰かを殺すなんて明らかに異常だ。

 しかしこの池の水を飲めば、そんな『正論』は出てこない。

 感覚を狂わせるほどの美味。この水を独り占め出来るのなら、人一人ぐらい殺してもいいかと思ってしまう。()()()()()()()()()のなら一層その選択肢は現実味を帯びる。

 本当に、水のために人を殺すのも厭わない。この池の水にはそれほどの魅力があった。一般的な日本人程度には美食や娯楽を楽しんでいる俺がそう思うのだ。娯楽も飯も今より劣る、『大昔』なら尚更だろう。


「生贄を出せば、水は美味くなる。それを知った人の行動は、ひひひっ、正に欲に塗れておった」


 最初は旅人や、犯罪者などを生贄に捧げていた。

 だが村人は更なる美味を求め、普通の村人も生贄に捧げるようになった。若い女を捧げ、若い男を捧げ、赤子を捧げ、夫婦を捧げ、老人を捧げ――――


「今じゃあ、生き残りはわしだけよ」


「なら、一人で池の水を独り占めしてりゃあいいだろ……!」


「そうしたいのは山々じゃが、それでは満足出来んでのぅ。わしが子供の頃に飲んだ水は、もっと、もっと美味かったんじゃよ。今の水は、昔に比べれば泥水みたいなもんじゃわい」


 もっと美味い。

 頭がおかしくなるぐらい美味かったあの池の水が、もっと美味くなるのか……生命の危機なのに、その味に興味が湧く。頭がおかしいと言われそうな考えだが、それほど老婆からもらった、池で直飲みした水は美味かった。

 あれ以上の美味さなんて言われたら気になって仕方ない。

 今にもこの婆さんに殺されそうだというのに、俺の口の中には涎が溜まり始めていた。昔の人が生贄を捧げてでも美味い水を飲みたがった理由が、心から理解出来てしまう。

 この婆さんが、半開きの口から涎をだらだら垂らしていても、確かになぁと納得していた。

 勿論、だからといって素直に殺されるつもりはない。


「ぐ、お、おっ……!」


 渾身の力を込め、少しずつでも老婆の身体を押す。力では拮抗どころか押され気味だったが、体力ならこちらに分がある。持久戦に持ち込めば……

 等と考えていた俺の前で、老婆はごそごそと空いている片手で自身の着物の中を弄る。

 まさか、と思った。勘弁してくれ、とも。だけど俺の願いは通じず。老婆の懐から、彫刻刀ぐらいの大きさの刃物が取り出された。

 今まで使わなかったのは、金槌なら即死させられるが、刃物は反撃される余地があるからか。しかしいくら小さいとはいえ、胸に刺せば肺ぐらいには届きそうだ。即死はせずとも、数分後ぐらいに死ぬ傷にはなるかも知れない。

 普通の人間なら、刃物を人に突き立てるなんて真似は恐ろしくて出来ない。だが目を血走らせたこの老婆なら、一切躊躇いなくそれをやるだろう。


「ぐ、お、おお、おおおおおお!?」


 生命の危機を前にして、俺は叫びながら暴れた。身体を左右に揺さぶり、老婆を振り落とそうとしたのだ。

 老婆にとってこの動きは予想外だったらしい。驚いたように目を見開いた老婆は、両腕をバタバタと羽ばたくように動かしてバランスを取ろうとする。

 そこで思いっきり片手を伸ばし、老婆の胴体を突き飛ばす。

 これは流石に耐えられず、老婆はごろんと地面を転がる。だがすぐに立ち上がり、彫刻刀をぎゅっと握り締めながら俺の方を見た。


「ぬぅああっ!」


 が、それを許すほど俺も抜けてはいない。

 渾身の力で起き上がり、身体の痛みも無視して飛び蹴りを食らわせる!

 老婆の身体が宙に浮かぶ。驚いた顔のまま、彫刻刀や金槌を落として三メートルぐらいは飛んでいき……

 その行く先にあったのは、池だった。


「ごばぁ!? ぬ、ぬぁ……!」


 池に落ちた老婆は、憤怒の表情を浮かべながら藻掻く。バシャバシャと水面を叩き、未だこちらに来ようとしていた。

 なんという執念。もう金槌も刃物も持ってないのに、未だ俺を殺そうとしているのがひしひしと伝わる。身体能力差を考えれば俺にとって脅威ではない筈なのに、その精神力だけで俺は恐怖で動けなくなる。

 幸いにして、動く必要はなかった。

 老婆の身体が段々沈み始めたのだ。着物なんていう明らかに水泳向きでない服装に加え、池の底は沼のような柔らかな地層になっていたのだろう。胴体が半分も埋まれば、もう前進すら儘ならない様子だ。

 それでも更に老婆は沈み続け、口許が水面に触れる。


「ごぶ、ご、おぼ、ごっ、おっ」


 老婆の口から溢れ出すのは水音の混ざった吐息。空気だけでなく水も入り込んでいる。鼻はまだ水面に出ているが、まさかあんな都合の良い場所で沈むのが止まる事もないだろう。

 このまま沈めば当然溺死する。

 溺死は苦しいと聞く。心中するほど愛し合ったカップルですら、入水した後に互いの身体を掻き毟って傷だらけになるという。

 ところがあの老婆は、光悦とした表情を浮かべていた。

 腕は未だ振り回し、脱出しようとはしている。だが沈む顔を、空気中に出そうとしている感じがしない。むしろ大きく口を開け、池の水をどんどん流し込んでいるような……

 そう思った瞬間、老婆の心境を理解する。

 アイツは今、文字通り溺れるほどの水を堪能しているのだ。

 口から入る末期の水を、思う存分飲み干している。呼吸出来ないから当然地獄のような苦しみの中にいる筈だ。だけどその苦しみを上回るほどに、池に溜まった水を味わおうとしている。

 それが出来てしまうぐらい、この水は美味いというのか。

 ついに老婆の顔が濁った水の下に沈んでも、薄っすら見える表情はやはり笑顔で。

 どうにか生き残ったのに、俺の心の中には小さくない羨ましさがこびり付いていた。

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― 新着の感想 ―
『美味しい物の為に人を殺す』………気持ちは分からなくもないけど、殺される方からしたらたまったものじゃないですね(;^ω^) せめて牛とかブタとかニワトリとか『殺しても罪にならない生き物』を捧げれば良か…
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