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昨日助けていただいた悪役令嬢です

作者: ルーク猫

 昼下がりのアトリエは、いつもと同じ静けさに包まれていた。

 机の上には、様々な顔料で作られた絵の具。

 途中まで描いたスケッチ。深い森と湖、小鳥や花々を柔らかな線で表現し、キャンバスに再現する時には光で満ち溢れた様子も加える予定だ。


 だが今、アトリエの主シルヴァンの目は別のカンバスに注がれていた。

 暗い色調で描かれた舞台は、夜会だ。

 群衆の中心で糾弾される一人の令嬢と、彼女を罵る婚約者。


 ――思い出すだけで胸がざわつく。


 婚約者の男は、侯爵家令息だ。


『聞いたぞ! お前がシエラを突き飛ばしたと! 水差しを頭から浴びせ、皆の前で嘲笑ったとも! 陰湿で卑しいお前のような女を、物語では“悪役令嬢”と呼ぶのだ! 婚約など破棄だ、破棄!』

 その怒った顔に愚かさが滲み出ている。


(一方からの話を鵜呑みにして、衆目の前で令嬢を責め立てるとは)

 居合わせたシルヴァンは怒りに震えていた。


 侯爵令息の腕にぶら下がるようにして立っているのは、ストロベリーブロンドの髪をした女だ。彼女がシエラなのだろう。

 その表情には明確な悪意があった。


 彼らの視線は、床に蹲った女性に向けられている。

 絵画の中央で彼女は、見下ろされているにも関わらず気高く、顔を上げていた。

 豊かな金色の髪の彼女には、装飾の少ない紺色のドレスが似合っていた。

 くっきりと大きな目には意志の強さが宿り、見る者を魅了した。


 陰鬱に沈む夜会で、彼女の周囲にだけは光が溢れていた。


 身に覚えのないことを咎められ、突き飛ばされ、驚いた表情の令嬢は、それでも反論はしなかった。

 青い瞳には憐れみさえ浮かんでいた。

 ゆっくりと、優雅に立ち上がった彼女の様子にシルヴァンは息を飲み、ただ見とれるばかりで……




 あの時の興奮はまだ胸の内にある。

一晩寝ても興奮は冷めず、朝起きて一気に描き上げたその絵は、昨日目撃した情景そのものだ。

 

 彼は、絵の隅にサインを書き込んだ。

『シルヴァン・ヴィンセント』


 無精で長く伸びる一方の髪を、かき上げる。

 タイトルを考えているうちに、お腹が空いてきた。

 そういえば起きるなりアトリエに籠もったので、朝から何も食べていない。


(この絵に相応しいタイトルは何だろう……)


 タイトルを付けるまでが創作だ。


『矜持』

 

 空腹でふらつきながらも、我ながらピッタリのタイトルだと満足していたその時、外で侍従の慌てた声がした。


「お待ちください!」

 侍従の大声が聞こえた。

「今、お取り次ぎしますので! どうか──!」


 誰かが来たということはわかった。

 ノックの音と同時に扉が開いた。

 そこには、絵の具だらけの小汚いアトリエには似つかわしくない、美しい令嬢が立っていた。


 まるで陽の光が煙るかのように、金色の長い髪が輝いて風に揺れている。

 白いワンピースに、金で縁取られた白い靴。

 大きな青い瞳で、彼女はシルヴァンを見上げると、笑顔になる。


「シルヴァン・ヴィンセント小公爵様」


 優雅に一礼し、彼女は微笑む。


「私はオルコット伯爵が娘エリーゼ・オルコット。昨日助けていただいた“悪役令嬢”です」


 午後の爽やかな風が、ざっと吹き抜けた。

 エリーゼは顔にかかった髪を、おしとやかな仕草で退ける。

 その淑女らしい動きにシルヴァンが見とれていると、彼女はとんでもない言葉を投げ付けてきた。


「私と結婚してください、小公爵様」


 空腹のあまり聞き違えたのだと思った。


 侍従の、何度も呼びかける声が遠ざかる。

 シルヴァンは衝撃のあまり、意識を飛ばしていた。




 ***


 あの日の夜会は、アズライド王国の王城で行われた。


 王都での貴族会議日程が終わった慰労会として、毎年秋に行われる恒例の夜会だ。

 表向きの開催理由はさておき、貴族の独身男女が楽しみつつ婚約者を見繕う場でもあった。


 いつまでも絵ばかり描いていないで誰でもいいから婚約者を探してこい、という父親の意向で、シルヴァンは渋々参加した。アトリエを燃やしてしまうぞ、とまで言われてしまえば仕方がない。


 城の大広間に響く音楽のなか、クラウス・オールセン侯爵令息の怒声がそれをかき消した。

「聞いたぞ! お前がシエラを突き飛ばしたと! 水差しを頭から浴びせ、皆の前で嘲笑ったとも! 陰湿で卑しいお前のような女を、物語では“悪役令嬢”と呼ぶのだ! 婚約など破棄だ、破棄!」


 侯爵令息の背にかくれるように、涙を拭いている令嬢が肩を震わせている。ストロベリーブロンドの髪をツインテールにして、薄いピンク色のドレスを着たその令嬢は、見た目は清楚だった。

 だが、なんと醜悪な表情をするのだろう、とシルヴァンは気分が悪くなる。

 彼女は時々顔を上げて、思惑通りにことが運んでいるか、確かめていた。


 こうした場に来るたび、人間が嫌いになる。

 だから彼の描く絵は、森と動物たちに溢れていた。

 そんな彼だったが、この夜会ではなぜか、一人の令嬢が気になって仕方がなかった。美しい彼女が誰とも踊ることなく、壁のそばに佇んでいる。

 青い瞳には悲嘆も諦めもない。

 一人でいることを楽しんでいるかのようにさえ見えた。

 その気高い様子に、シルヴァンは目を惹き付けられた。

 なぜだか彼女の周囲だけ、空気が違って見えて、ずっと目で追っていた。


 そんな彼女が突然糾弾され、突き飛ばされ、罵られた。

 相手が侯爵家令息だからか、誰も彼女を助けようと動く者はいない。

 関わってもろくなことにならないと、周囲の人々は判断したのだろう。


「エリーゼ・オルコット! 聞いているのか!」


 エリーゼはゆっくりと、優雅に立ち上がった。

 微笑む彼女の目に浮かぶのは、憐れみだ。

 シルヴァンは、彼女の様子に息を飲んだ。


 彼女は微笑み一つで、侯爵令息の言葉を否定したのだ……この私が、そんなくだらないことをするわけがないでしょう? ──と。


「今日こそは許さんぞ! たかが伯爵家の娘ごときが、よくも私のシエラを!」

 侯爵令息が手を振り上げた。

 思わずその前に立ちはだかったのは、シルヴァンだ。


 彼は自分に驚いていた。

 気が小さくて、人の視線を浴びると足がすくんで動けない。

 それなのに、こんな厄介ごとに首を突っ込むなんて……彼自身、信じられなかった。


「誰だっ」

 侯爵家令息は鋭い声で尋ねたが、シルヴァンは名乗らなかった。

 やや震える声で指摘する。


「あなたの言うことは矛盾ばかりだ。あの麗しいご令嬢は、誰かを突き飛ばしたり、水をかけたり、嘲笑ったりなどしてはいなかった。婚約者などいないかのように、壁際に一人で立っていた。僕は、どうすればダンスに誘えるのか、誰かに先に誘われたりしないかと心配で、ずっと見ていたから間違いない」


 確かに、という声が取り囲む貴族たちから上がった。

 彼女を誘いたいと、動向を窺っていた令息が何人もいたのだ。

 

「なっ……そんな馬鹿な! シエラが嘘を吐いているとでも?」

 クラウス・オールセン侯爵令息は興奮した様子で息巻いた。

「シエラほど純粋で、嘘を吐けない人はいない! お前のような胡散臭い男に、シエラを侮辱する権利などない!」


 ざわめきが生まれ、大きくなっていく。

 舞踏用音楽はいつの間にか止まっていた。


 シルヴァンは、適当に選んだ父親の夜会服を着ていたので大きさが合っていなかった。

 長い髪も、古びた靴も、胡散臭いと言われた原因の一つだろう。

 他人の信頼を勝ち取るためには、服装も髪型も武器の一つだと、彼は初めて気づいた。

 それでも、この場を引き下がるわけにはいかない。

 かのご令嬢の名誉のために。


「僕はただ見たままを言っただけなんだが、それがどうして侮辱になるのか不思議だ。僕を一方的に嘘吐きだと断じているのか。侮辱しているのはそっちじゃないか」

 意外と冷静に、言いたい事を口にできた。

 もう少し柔らかい言い方はあったかもしれないが、人慣れしていないシルヴァンにとってはそれが精一杯だった。


「お前の言い分など知ったことか!」

 さらに侯爵令息が言い募ってくるので、シルヴァンは言葉を重ねようとした。


 ところが、ツンツン、とシルヴァンの袖を引く感触があった。

 振り返ると、エリーゼ・オルコットがすぐ傍に立っていて、笑顔を向けてきた。


「もうよろしいのです。庇っていただいて、ありがとうございました。私が全てやったということでも構いませんの。貴方が信じてくれた、それだけで私の心は救われます。どうかこの次には私を見ているだけではなく、是非ダンスのお誘いをかけてくださいませ。……それでは、これにて失礼いたします」


 エリーゼは優雅にお辞儀をする。

 シルヴァンは胸の激しい鼓動を感じる。

 去って行く彼女の姿を見送りながら、彼は自分のとんでもない言葉に気づいた。


『ずっと見ていた』


 そんなことを言われて彼女は、気持ち悪い男だと思ったに違いない。

 シルヴァンは、羞恥で赤くなった顔を俯かせた。

 そしてその夜は、誰にもダンスを申し込むことなく早々に帰宅したのだった。




 ***


『昨日助けていただいた悪役令嬢です』


 その台詞を、シルヴァンは昨日のことのように思い出す。


 あの日エリーゼにそう言われた後で意識が飛んで、気づいた時には運ばれてきたサンドイッチを食べていた。

「何度もお声がけしましたのに」

 飲み物の世話をしながら文句を言っているのは、中年の侍従だ。

「ぼっちゃんは絵に夢中になると、いつもこうなんです」


 エリーゼは、アトリエの奥からシルヴァンの描きためた絵画を引っ張り出してきていた。

「まるで、物語が絵の中に閉じ込められているようですわ!」


 星に埋め尽くされた空を頂きながら航行する帆船。

 世界樹を仰ぎながら楽器を奏でるエルフ。

 この世の果てまで続く、誰も居ない図書館。


「光の描写が独特ですね。本当に光っているみたい。どの絵画にも切なさと懐かしさがあるわ。なぜ発表なさらないでしまい込んでいますの?」

 彼女は不思議そうに尋ねた。

「独特な色使いですが、刺さる人には刺さりますよ。売りたくないとお考えですか?」


「画廊に持っていったことはあるけれど、酷評されたんだ」

 悲しい気持ちでシルヴァンは言った。

 たった一度の経験だったが、大事な絵を貶される経験は、一度で充分だ。

「それに、もう描けなくなる。……父上に、絵を描くことを反対されているから」




 エリーゼが画廊を開いたのはその直後だ。


 彼女の行動力にシルヴァンは驚いた。

 その店の展示場には、夜会の情景を描いた『矜持』が中央に飾られていた。

 非売品、という銘がついていたので、売るつもりはないらしい。


「だって、貴方が私を救ってくださった瞬間だもの」

 と、エリーゼは嬉しそうに言う。

「私のために勇気を奮ってくださって、ありがとうございます」


 あの夜エリーゼ・オルコットとの婚約破棄を宣言したクラウス・オールセン侯爵令息は、シエラと呼んでいた女と結婚した。

 そして、侯爵家の事業は傾いていった。

 経済界のことには疎いシルヴァンだが、エリーゼ関連のニュースにはそれとなく留意していた。オールセン侯爵の事業からオルコット伯爵家が撤退したことと、婚約破棄に伴う莫大な慰謝料の支払いが影響したという噂だ。


 エリーゼの画廊では、シルヴァンの絵にとんでもない値段の札が付けられていた。

 そんな値段で自分の絵が売れるはずがない、と思い悩み、眠れない夜が何日も続いた。

 彼女に損失を与えた挙げ句、失望させてしまうことが怖かった。


 けれどエリーゼは絵を値札通りの価格で売ったばかりか、その報酬を父公爵に渡して、説得した。

 その結果、シルヴァンは爵位を継いだ後も絵を描き続けて良いことになった……エリーゼが結婚後、公爵夫人として領地経営を手伝うという約束のもとで。


(まだ彼女の申し出に、ちゃんと返事ができてていないのに……)

 申し訳なさで、シルヴァンは胸がいっぱいになる。

 彼女と一緒にいるだけで言葉に詰まってしまうため、結婚してください、という大切な言葉を口にできない。


 言葉の代わりにシルヴァンは、あの日のエリーゼを描いたカンバスに、色を重ねる。

 何度絵の具を足しても、彼女の美しさには足りない、と思いながら。


 陽光の中、金色が煙るように揺れる長い髪。

 真っ直ぐにこちらを見る青い瞳。


 背景のアトリエは暗く、彼女の周囲は光に満ち溢れている。

 陰鬱なシルヴァンの世界に突如現れた、聖なる存在。

 シルヴァンは一筆ずつ気持ちを込めて、繊細な筆使いで絵の具を載せていく。




「今日もお昼を抜いたのですね?」


 話しかけられて、シルヴァンははっと顔を上げた。

 

 アトリエに現れたエリーゼは、テキパキと机の上の絵の具皿を片付けると、サンドイッチを置いた。


「健康を損ねるようなことがあったら、お義父様の仰る通りアトリエを燃やしてしまいますよ」

 そう言って悪戯っぽく笑うエリーゼの笑顔は、美しいけれど迫力がある。


「そ、……それは困る」

 シルヴァンは慌てて筆を置くと、差し出された手拭きで手を綺麗にして、サンドイッチを食べ始めた。

「切りの良いところまで進めたら、本館に戻るつもりだったんだ」


「……素敵ね」

 と、彼女はカンバスを眺めて溜め息を吐く。

 シルヴァンは恥ずかしさに逃げ出したくなる。


 静止した世界なのに、カンバスの上にいるエリーゼは生き生きとして見える。


 シルヴァンは、いつもなら描き終わってからタイトルを決めるのだが、この絵の場合はすでに決まっていた。


『求婚~昨日助けていただいた悪役令嬢です~』


 ロマンチックな言葉にこそできないシルヴァンだが、その絵には、彼女からの求婚に対する答えが余すところなく表現されていたのだった。











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