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TechFrontierでのコンサルティング業務は、刺激的ではあったが、同時に俺の平穏な日常をじわじわと侵食しつつあった。
原因は、言うまでもなく、月島栞という存在と、そして彼女を取り巻く理解不能な噂の数々だ。
「湊さん、質問です」
金曜日の午後、TechFrontierでの打ち合わせを終えた後、パソコンをカバンに片付けていると、資料とノートパソコンを前で抱えた田中さんが俺の方へやってきて、小さな声でそう言った。
「あ……はい。何か打ち合わせの中で不明点でもありましたか?」
「あぁ、いえ! 資料はいつも通り分かりやすかったです! その……湊さんって、恋人はいらっしゃいますか?」
「はっ……ん!?」
俺が驚いた声を上げると周囲の社員が何事かと見てきた。手で制して田中さんと部屋の隅に向かう。
「ですから、恋人の有無を聞いてるんです。います?」
田中さんはにこやかに尋ねてくる。
これは……モテ期到来か!?
ちょっとだけ声を低くして「いませんよ」と答える。すると田中さんは「ちょうどよかった!」と言った。
……ん? ちょうどいい?
田中さんは月島さんを手招きして会議室の隅で俺と月島さんと3人で小さな会議を始めた。
「ん? 二人でどうしたの?」
月島さんが尋ねると田中さんは「実はですね……」と話を切り出した。
「営業部の人からお話がありまして。週末……ってか明日なんですけど、取引先の不動産会社さんが主催するちょっとした交流パーティーがあるんです。で、男女一人ずつキャンセルが出ちゃったらしくて、誰か代わりに顔出せる人を探してるんですよ。お二人なら、まさにうってつけじゃないですか!?」
月島さんまで巻き込んで、田中さんはマシンガンのようにまくし立てる。『交流パーティー』とは言っているが、要は街コンイベントだろう。
田中さんの目は「これは絶対面白いことになる」という確信に満ちている。俺と月島さんは顔を見合わせ、お互いの表情に「面倒なことになった」と書いてあるのを読み取った。
「わっ、私はちょっと……」
「いきなり明日は……」
俺たちが同時に断りの言葉を口にしようとした瞬間、田中さんは「大丈夫です! 先方には、もうお二人で連絡しちゃいましたから! じゃ、そういうことで! 打ち合わせ中にメールで詳細を送ったのでよろしくお願いしまーす!」と、ウインクと共に爆弾発言を残し、嵐のように去っていった。
月島さんと二人で顔を見合わせる。
「湊さん、明日用事あるの?」
「今、できたとこ」
「や、私も暇ではあるんだけど……」
「……行く?」
月島さんは困り顔でスマートフォンを開いた。
「ん……大口の取引先だから無下にはできないなぁ」
「となると、俺も取引先の人に誘われたら無下にはできないんだけど」
「湊さんは誘われ待ち?」
「ラブコメ漫画みたいな言い方しなくていいからね!? じゃ、明日は街コンに参加ということで」
「街コン? これ、交流パーティーじゃないの?」
「上品に言ってるだけで要は街コンでしょ?」
「えっ……そ、そうなんだ……どうしよ……」
月島さんはわかりやすく動揺し始めた。だがもうどうしようもない。この話を振られた時点で俺達の参加は確定していたのだから。
◆
湊さんを見送った後、田中さんが満面の笑みで近づいてきた。
「月島さん! これで、あの湊さんっていう元カレの前でモテモテなとこを見せてやりましょうよ! 新しい人を見つけて、綺麗さっぱり忘れちゃって、素敵な出会いを掴みましょう!」
「や……も、元彼じゃないし……ねぇ、これって街コンなの? そういうの言ったことないんだけど……」
「大丈夫ですよ。月島さん程の人なら黙って立ってれば話しかけられますから! それに一対一の時間もあるみたいですし」
「うぅ……憂鬱……」
この会社のいいところは風通しが良いところ。勝手に副社長を街コンにエントリーさせる社員がいるくらいにはフラットな組織。
そう自分に言い聞かせて『街コン 服装』と検索を始めた。
◆
翌日、指定された会場は、都心のお洒落なカフェバーだった。
薄暗い照明、やたらと陽気なBGM、そして、どこか浮足立った男女の、目的意識の強すぎる会話の波。俺は、完全に場違いな場所に迷い込んでしまった、哀れな子羊のような気分だった。
「えーと、まずはプロフィールカードを書いていただいて、参加者の女性陣と順番に1on1になります。その後はフリータイムですので、積極的にアピールしちゃってくださいね!」
受付のやけにテンションの高い女性スタッフに促されるまま、趣味「読書」、特技「無し」などと、当たり障りのない、というかむしろマイナスアピールになりかねない情報を書き連ねる。こんな不完全なデータシートで、一体誰が俺に興味を持ってくれるんだと思いつつも書くことが思いつかない。
案の定、1on1が始まっても、女性との会話は全く弾まない。俺の仕事である人事コンサルティングの話をしても、相手は「へえ、大変そうですね」という反応。
これが外資系のイケてるコンサル会社だったら食いつきも違ったんだろう。
かといって、最近流行りのインフルエンサーやスイーツの話には、俺の知識ベースでは到底太刀打ちできない。
(……もう帰りたい。今すぐコインランドリーに行って、霧島譲の最新刊の、あの難解なトリックについて、月島さんと議論したい……)
そんな絶望的な気分で1on1を捌き続ける。席を移動すると、そこにはピンク髪の疲れ果てた月島さんが座っていた。
「TechFrontierというベンチャー企業で副社長兼CTO兼CIO兼CHROを担当しております月島――なんだ、湊さんか」
虚ろな目で自己紹介を唱えていた月島さんが俺を認識すると生気を取り戻した。
いつものラフな姿ではなく、今日は少しだけフェミニンな、しかしどこか彼女らしいエッジの効いたデザインのワンピースを着ている。
その声を聞いた瞬間、俺は、このカオスな空間で唯一信頼できる居場所を見つけたような、妙な安心感を覚えた。
「なんだ、月島さんか。どうだった? その……収穫は」
「完全に時間の無駄。こういうの、効率悪いだけだよね。目的も仕様も曖昧な人間が、ランダムにマッチングされて、数分間の表面的な会話だけで何が分かるのって話」
彼女の言葉に、俺は心の底から激しく同意した。まさにその通りだ。
「……本当にそう思う」
「や、でも湊さんモテそうだけど」
「いやぁ……全然だったよ」
「けど年収は結構あるでしょ? 御社」
「会社の知名度がないんだよね。お金目当ての人って怖いから年収は低めに書いたし」
「や、いいなそれ。私もそうしたら良かった」
「素直に書いたの?」
「ん。嘘をつく必要もないし。苦笑いする人と、ドン引きする人の2択だった」
月島さんのプロフィールを見る。すると、一般人の感覚からすると、明らかにゼロが一つ多い年収が書かれていた。さすが急成長中のベンチャー企業の役員は格が違う。
「せっ、洗濯機どころか……コインランドリーも買収できそうだね……」
「ふふっ……確かに」
「月島さんは? ハイスペ、若い、可愛い、高収入。モテない理由がないよね」
「や、まぁそうなんだけどさぁ……プロフィールを見ても共通点もないわ、気になる点もないわで話が弾まなくて。あ、湊さんの見せてよ」
月島さんは俺のプロフィールシートを見て、ボールペンでチェックを付けていく。
「趣味、同じ。特技……無し? ふふっ……わかる。字の形も好み。年収は……わ、大分下に書いてるね。そんなに警戒してるの?」
「ま……月島さんの前じゃ端数だけど」
「そんな事ないよ。十分じゃん」
月島さんはふふっと笑い、「あ、そうだ」となにかを思いついたように言った。
「せっかくだし、湊さんのタイプとか教えてよ」
「えぇ……タイプぅ?」
「そ。好きな系統とか、髪型とか、そういうの」
「うーん……自立してる人、かな」
「自律(神経をぶっ壊)してる人ってこと?」
「そういう意味じゃ、健康な人だと嬉しいかな!?」
「見た目は?」
「ピンクの髪の毛もダルそうなファッションも許容範囲ではある」
「おっ、狙い撃ちだ」
「月島さんは?」
「ん……そうだね。人間なら誰でも」
「ショットガン並みにばらまくね!?」
「や、けどさぁ……分かんないんだよね。肩こりみたいな感じ。私にとっては」
「肩こり?」
「肩こりってさ『私肩こりしてるな〜』って自覚しないと肩こりしてることにならないじゃん? それと同じで、『私、恋してるな〜』って自覚したことないから分かんないんだ」
「なるほどねぇ……肩は凝らないの?」
「や、めっちゃこる。姿勢がよくないみたいで」
「それはどうやって自覚したの?」
「ん……確かに。いつから私って肩こりしてるって思ったんだろ……なんか、違和感があって……そこから調べたら『肩こり』って概念を知ったんだったかな……」
「なら、同じ様に違和感を探してみたらわかるんじゃないの? 普段と違う、特別な感じがあるなら、それがきっかけになるかも」
「ふぅん……なるほどね。湊さん良いこと言うじゃん」
会話が一区切りついたところで移動の合図が聞こえた。
俺は「それじゃ」と言って立ち上がる。
すると月島さんは「あ、湊さん」と言って俺を呼び止めた。
「どうしたの?」
「その……もし良かったら、フリータイムにもう少しお話しませんか?」
「急に関係性リセットしてくるじゃん」
「ふはっ……じゃ、また後でね」
「うん。また」
月島さんがここまで、他の人と離れるときにどういう態度だったのかは見ていないので分からない。だが、少なくとも俺の時は笑顔で手を振ってくれて、次の人の時はまたしんどそうに俯いていたことだけは確認した。
◆
フリータイムに突入後、ここで出会いを探すことを諦めた俺は月島さんと会場の隅でひたすらビュッフェのローストビーフを食べ続けた。
「皆、なんか盛り上がってるねぇ……」
「そうだね。……あ、そろそろお開きの時間みたい。最後に、なんか投票カードを書くんだってさ。『本日、印象に残った方』だって。意味わかんない。評価基準が曖昧すぎる」
月島さんは、そう言って受付でもらった小さなカードを、まるでバグ報告書でも見るかのように、怪訝な顔でひらひらさせた。
俺も自分のカードを取り出す。誰の名前を書けというのだろうか。正直、まともに会話できた女性すらいなかったのに。だが、白紙で出すのも、何だかこのシステムに対する敗北宣言のようで気まずい。
俺は、少しだけ迷った後、ペンを走らせた。その名前は、今、目の前にいる、不機嫌そうな顔でカードを睨みつけている、ピンク髪の女性以外に思いつかなかった。そして、月島さんもまた、何かをサラサラと書き込むと、さっさと投票箱に入れて会場を出ていこうとする。
「あ、月島さん、もう帰るの?」
「ん。お腹はいっぱい。参加して義理も果たした。もう十分だよね」
そう言って、彼女は本当にあっさりと帰ってしまった。俺も、その後すぐに会場を後にした。一体、何しに来たんだろう、俺は……。得たものといえば、疲労感と、そして、あの投票用紙に書いた名前に対する、ほんの少しの後ろめたさだけだ。
◆
後日、お互いに印象に残った人と書いた人の連絡先が送られてきた。晴れてマッチングした、ということらしい。
俺のことを『印象に残った』と評価してくれた相手の名前欄には『月島栞様』と書かれていた。
その直後、私用のスマートフォンが鳴動する。
『湊さん、私の名前を書いてたんだ?』
メッセージアプリのアカウント名は『ツキシマ』。
こんな形で月島さんのプライベートの連絡先をゲットすることになるとは。
『お互い様だよ』
『ね、湊さん。肩こりが酷い』
『自覚しなきゃ今も肩こりせずにいられたのにね』
『本当に。違和感なんか見つけなければ良かったよ。あっちもそっちも。疼く』
『左腕が?』
『や、胸』
どうやら、恋愛の方の違和感も月島さんなりに見つけたらしい。