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TechFrontierでの新人事制度の設計プロジェクトは、まさに嵐の中の航海だった。
俺が設計した新しい組織構成や評価制度の骨子を叩き台に、連日、現場のエンジニアたちとの間で、白熱、いや、時には紛糾と呼ぶべき議論が繰り広げられていた。
その日も、大会議室には重苦しい空気が漂っていた。参加者は、俺と月島さん、そしてTechFrontierの各開発チームを代表するエース級のエンジニアたち。
彼らの視線は、俺が提示した評価項目の詳細資料に突き刺さるように注がれている。
「湊さんのご提案ですが、この『技術的貢献度』の評価ウェイト、具体的な算出ロジックが不明瞭です。これでは、結局、評価者の主観や声の大きさでスコアが左右される余地が大きすぎるのではありませんか?」
最初に口火を切ったのは、AI開発部のリーダーだった。彼の言葉は冷静だが、その奥には強い疑念が込められているのが分かる。
「おっしゃる通り、評価の客観性は最重要項目の一つです。このウェイトに関しては、現在、過去のプロジェクト実績やコードレビューの評価、社内勉強会での貢献度などを多角的にスコアリングするアルゴリズムを複数検討しており……」
俺が説明しようとすると、別のチームのベテランエンジニアが、腕を組んだまま鋭い声で割り込んできた。
「KPIが我々の現在のアジャイルな開発スプリントのサイクルと全く噛み合っていないように思います。達成不可能な目標値を設定されたところで、それはエンジニアのモチベーションを著しく低下させるだけかと」
次から次へと浴びせられる、的確かつ手厳しい指摘。彼らは、自分たちの仕事と評価に直結する問題だからこそ、一切の妥協を許さない。その真摯な姿勢は理解できるが、俺の額にはじわりと汗が滲んでいた。
その時、それまで黙って議論を聞いていた月島さんが、静かに口を開いた。
「皆さん、貴重なご意見ありがとうございます。湊さんの提案は、あくまで現時点でのドラフトバージョンです。皆さんのフィードバックを元に、より実情に即した、そして皆さんが納得できる形でチューニングしていくのが、今回のプロジェクトの肝だと認識しています」
彼女の声は、不思議なほど落ち着いていた。そして、それぞれのエンジニアの顔をゆっくりと見渡しながら、言葉を続ける。
「まず、評価アルゴリズムの透明性についてですが、これは湊さんも言及した通り、複数の評価モデルをテスト中です。最終的には、そのロジックを可能な限りオープンにし、誰もが納得できる形で運用に乗せたいと考えています。皆さんの専門的な知見を、ぜひそのチューニングにも貸してください」
CTOとしての彼女の言葉には、エンジニアたちが頷かざるを得ない説得力がある。
「また、KPIの設定については、確かに現状のドラフトでは、一部のチームにとって現実的ではない部分があるかもしれません。これに関しては、各チームのミッションと特性を再定義し、ボトムアップでの目標設定と、ストレッチな目標のバランスをどう取るか、再度検討させてください。ただし……」
月島さんはそこで一旦言葉を切り、全員の顔をしっかりと見据えた。
「この制度の目的は、単に個人のパフォーマンスを評価し、序列をつけることではありません。チーム全体のパフォーマンスを最大化し、個々のエンジニアが持つ潜在能力を最大限に引き出し、そして、会社として皆さんの成長を長期的にサポートするための『仕組み』を作ることです。そのためのインセンティブ設計や、キャリアパスとの連動についても、現在、具体的なプランを並行して検討しています」
CHROとしての彼女の言葉には、社員一人ひとりへの配慮と、組織全体を俯瞰する視点が共存していた。
さっきまで強硬な態度だったエンジニアたちも、月島さんの真摯な説明に、少しずつ表情を和らげ、議論は建設的な方向へとシフトしていく。
俺は、その隣で、彼女の言葉を補足し、他社事例や具体的な運用イメージを提示しながら、議論が円滑に進むようサポートに徹した。
月島さんの言葉には、不思議な力がある。それは、ただロジカルなだけではない。彼女自身の経験と、エンジニアへの深い理解、そして組織をより良くしたいという強い意志が、言葉の端々から滲み出ているからだろう。
それでも、会議が終わる頃には、月島さんの顔には疲労の色が隠せなくなっていた。俺も、どっと疲れが押し寄せてくるのを感じる。これだけのプレッシャーと日々向き合っているのだ。彼女の精神的なタフさには、本当に頭が下がる。
◆
そんな多忙な日々が続いた、土曜日の深夜。俺は、一週間分の疲労と、そして、あの会議室での彼女の姿を思い出しながら、少しばかりの期待感を抱えて、いつものコインランドリーのドアを開けた。
月島さんはいつもの場所にいた。
だが、いつもの彼女とは明らかに様子が違った。奥の席に深くもたれかかり、読んでいたはずの本は膝の上に力なく置かれ、その顔には、隠しようのない疲労の色が濃く浮かんでいた。
目の下には、うっすらとクマができている。鮮やかなピンク色の髪も、心なしか今日は少しだけ元気がなさそうに見えた。あの会議での気丈な姿とのギャップが、俺の胸を締め付ける。
俺は自分の洗濯物をセットし、静かに彼女の隣に腰を下ろす。今の彼女にかけるべき言葉が、すぐには見つからなかった。
「……お疲れ、湊さん」
先に口を開いたのは、月島さんだった。その声は、いつもより少しだけかすれている。
「月島さんも、お疲れさま。……なんだか、すごく疲れてるみたいだけど……大丈夫?」
俺がそう言うと、彼女は力なく首を横に振った。
「ダメだね。今日は完全にエネルギー切れ。バッテリー残量、ほぼゼロ。……というか、マイナス」
そう言って、彼女は深いため息をついた。その姿は、会社で見せる凛とした「月島副社長」とはかけ離れていて、どこか痛々しい。
「……何かあった?」
「……別に、大したことじゃないよ。ただ……ちょっと、ね。うちのエンジニアたち、優秀なんだけど、その分、こだわりも強くてさ。しかも全員私より年上。やりづらいったらないよね」
今週の会議の様子からして、俺にはそれが痛いほどよく分かった。
俺は黙って立ち上がり、コインランドリーの隅にある自販機へと向かった。
財布から小銭を取り出し、迷わず一つのボタンを押す。ガコン、という音と共に、取り出し口に転がり落ちてきたのは、エナジードリンク。
俺はそれを手に月島さんの元へ戻り、無言で彼女に差し出した。
月島さんは、一瞬きょとんとした顔で俺とエナジードリンクを交互に見たが、すぐに合点がいったように、ふっと小さく笑った。
「……お、ナイスチョイス。これがあれば、明日の作業も、なんとか乗り切れそう」
そう言って、彼女はエナジードリンクを受け取り、その場でプルタブを引いた。
「明日もあるんだ……そんなになるまで、無理しなくてもいいんじゃない? 少しは休んだ方が……」
俺の言葉に、彼女は力なく首を振った。
「そうも言ってられないんだよね、今のフェーズは。ここでバグ出しとリファクタリングを徹底的にやっておかないと、後で取り返しのつかないことになるから。……それに、こういうプレッシャー、嫌いじゃないんだ、実は。自分の限界ギリギリでパフォーマンス出すのって、ちょっとしたスリルがあって、癖になる」
そう言って笑う彼女の顔は、疲れているはずなのに、どこか生き生きとして見えた。この人は、根っからのエンジニアなんだな、と改めて思う。困難な課題であればあるほど、燃えるタイプ。
「けど……大変だね。社内システムもプロダクトも技術面の責任者で、かつ人事もやってるなんてさ」
「ま、仕方ないよ。社長の要求が厳しいから、背中を任せられる人が少ないってこと」
「なるほどねぇ……」
「ま、それは私も同じだけどね。いないと思ってたし」
「最近は違うの?」
月島さんは「ん」と喉を鳴らして、俺に背中を向けるように椅子に座り直した。俺ってことか……?
振り向いて俺を手招きしてくるので、椅子を動かして背中を合わせるように座る。小さく華奢な背中の温もりを感じた。
「湊さんには……背中を任せようと思えてる」
「それはありがたいね」
シーソーのように体重をかけたり、かけられたりして遊びながら会話を続ける。
「ある程度こなれてきたら、社内の人に細かいところはやってもらうけど、湊さんには残ってほしかったり」
「どうだろうね。遊牧民みたいなものだから。別の会社の案件が入ったら、あっちに行ってそっちに行ってって感じだし」
「ふぅん……ま、そうだよね」
途中で月島さんがバランスを崩したのをきっかけに元のように並んで座り直した。
「……でもさ」
エナジードリンクを飲み干した彼女が、不意に真剣な顔で空き缶を見た。
「湊さんがこれをくれなかったら、多分ダメだったね」
「いや……別に、大したことじゃないよ。ただ、月島さんが好きそうだなと思っただけだから」
俺が照れ隠しにそう言うと、彼女はニヤリと笑った。
「ふーん。私ってエナジードリンク好きそうに見えるんだ?」
「好きじゃないの?」
「や、好き。けど論点がズレてるよ。好きかどうかじゃなくて、好きそうに見えるかどうか」
「好きそうじゃん」
「好きそうなのが好き?」
月島さんは、そう言って悪戯っぽく笑うと、空き缶を俺に手渡してきた。ゴミ箱まで持っていってくれ、ということなんだろう。些細な甘え方につい頬が綻ぶ。
「回答は差し控えるよ」
やがて、それぞれの洗濯が終わり、俺たちはコインランドリーを後にする。外は小雨が降り続いていた。
「……湊さん。今日は、その……いろいろと、ありがとね」
別れ際に、月島さんが小さな声でそう言った。
「いや、俺の方こそ。……月島さん、あんまり無理しないでね」
「……善処する。じゃあ、また」
そう言って、彼女は夜の闇へと消えていった。
彼女の後ろ姿を見送る。
月島さんが曲がり角の向こうに行って見えなくなったところで、俺も湿った夜道をゆっくりと歩き始めた。