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TechFrontierのオフィスは、朝から活気に満ちている。自席で資料の最終チェックをしていると、軽快な足音が近づいてきた。
「月島さーん! お疲れ様です!」
声の主は、人事部の田中さんだった。彼女は、近くのデスクから椅子を持ってきて私の隣にちょこんと腰を下ろした。
大きな瞳が、今日も好奇心でキラキラと輝いていた。
「今日の月島さん、なんだかいつもより更に素敵ですね! ……あれ? それに、すっごくいい匂いがしますね! 新しい香水ですか? フローラル系で、なんかこう……心が落ち着くような……?」
田中さんはそう言うと、遠慮という言葉をどこかに置き忘れてきたかのように、肩口あたりに顔を寄せて、くんくんと香りを確かめてくる。
「……そう? なにもしてないよ」
「えー、絶対しますよぉ! 私、鼻だけは利くんですから! なんていうか、こう……陽だまりで干した洗濯物みたいな、幸せな香り……。うーん、トップノートはベルガモットで、ミドルにジャスミンとローズ、ラストはムスクとアンバー、みたいな? ちょっと違うかなぁ……でも、すごくいい香りです!」
田中さんの熱弁は止まらない。香りの分析までご丁寧に披露している。
「ま、臭くないならいいや」
我が社はフラットで風通しが良い。それが良いところ。こんなことでいちいち目くじらを立てちゃダメだ、自分。
◆
午後は湊さんがやってきて定例会議。特に滞りなく進んだ。
スケジュールも遅延していないし、湊さんもデータとロジカルな分析で課題点を明確にしてくれているし、何も文句はない。
打ち合わせが終わり、資料をまとめて席を立とうとした瞬間だった。
タイミング良く、いや、この場合は悪く、と言うべきか。
会議室の扉を開けて側に立っていた田中さんが湊さんとすれ違い様に会釈をした。
何かを察知したように鼻をひくつかせた。
そして、興味深そうに私の方を見てきた。
エレベータホールに湊さん達を見送るために廊下を歩いていると、隣に田中さんがやって来た。
「……あれれ? 湊さんからも月島さんと同じ匂いがしましたよ? 待って、お二人、まさか同じ香水をお使いなんですか!? それとも……!」
「あ……」
いい匂い、同じ匂い。確実にコインランドリーで使われている洗剤か柔軟剤の香りが原因だ。
「ぐっ……偶然だよ、偶然。にっ、人気がある商品だから他の人と被ることもあるんじゃない?」
自分でも驚くほど早口になってしまっていた。
「元彼どころか……えっ、そういうことですか!?」
「や、どういうことかわかんないね。偶然の一致から考察するのは勝手だけどさ。それって妄想って言うんだよ」
強気に誤魔化しはするけれど、少し気を引き締めなければ。
「あっした〜!」
エレベータの閉まり際、いつもより気合を入れて挨拶をしたら体育会系みたいな言い方になってしまった。
扉が閉まる直前、湊さんが驚いた顔で私を見てきたのは忘れない。それもこれも田中さんの勘が鋭すぎるせいだ。
◆
週末。いつもの深夜のコインランドリー。
俺が洗濯物を抱えて中に入ると、月島さんはすでに洗濯機を回しながら本を読んでいた。だが、読書は捗っていないらしく、同じページを行ったり来たりしている。
俺も自分の洗濯物をセットし、いつものように彼女の隣の席に腰を下ろした。待ちかねていたように月島さんが話しかけてくる。
「……湊さん」
「はい、なんでしょうか」
俺が顔を向けると、彼女は本から視線を上げないまま、続けた。
「私たち、どうやら同じ匂いがするらしい」
「同じ匂い……?」
思わずきょとんとしてしまう。
「性格が似てるってこと?」
ともすれば若干の悪口にも聞こえる言い方に思えた。
「や、そういうメタ的な話じゃなくて、もっと物理的な話。洗剤と柔軟剤が同じじゃん? 今日言われたんだ。人事の田中ってわかるでしょ?」
「田中さん……あー、はいはい。田中純さんね。可愛らしい人だよね」
「ん? 可愛い?」
月島さんがジト目で俺を見てくる。
「かっ……可愛らしい、と言いました……可愛いとは断言しておりません……」
「なら、ヨシ」
「別に取引先の人に手を出したりしないから……」
「や、私も取引先の人じゃん」
「手出してないよね!? ここで読書してるだけでさ!」
「ん……ま、確かに」
「それで……田中さんに、俺と月島さんから同じ匂いがするからってまたからかわれたの?」
「ん。そういうこと。着々と状況証拠がたまりつつある。このままだと社内でコインランドリーフレンドがバレるか、ありもしない同棲疑惑が深まるかの二択」
「コインランドリーフレンドって宣言したら良いんじゃないの……」
「や、ダルいからなぁ……洗濯機を買い替えない理由を説明して毎回『欲しいと思ったときが買い時ですよ』って言われるだけだし」
「じゃあ洗濯機を買い換えたらいいじゃん……」
「や、それは困る」
月島さんは真意を隠すような真顔でそう言った。
「いっそのこと、福利厚生の一環として、全社員に同じ洗剤と柔軟剤を無償配布するのはどうかな? 『全社員、同じ匂い計画』よ。そうすれば誰も私たちだけを怪しまない」
突拍子もないアイデアだが、彼女なら本当に実行しかねない気もする。
「職権を濫用してるじゃん……」
僕が至極もっともな意見を述べると、彼女は少しつまらなそうな顔をした。
「……ん。だよね。どうしよっかなぁ……」
「一番現実的なのは、別の香りで上書きすることじゃない? 追加で匂いのつく柔軟剤を入れるとか」
僕のその提案に、月島さんは思わずといった感じで口を尖らせた。
「結構気に入ってるんだよね、これ。優しい香りを諦めろって言うの? それは……ちょっと、個人的なQOLが下がるというか……や、そもそも言うほど同じかな?」
月島さんはそう言うと俺の肩に顔を埋めてクンクンと匂いを嗅いだ。本人は全く意識していないのだろうけど、急に接近されてドキドキするのは仕方のないことだ。
「ど、どう?」
「んー……無臭」
「それ、同じ匂いだから鼻が慣れてるんだろうね……」
「やっぱり同じなんだ……」
「……まあ、別にバレたからって業務に支障が出るわけじゃないんだけどね。コインランドリーフレンドってだけだし」
「それだと洗濯機を買わない理由を……って、話がループしちゃってるね」
「ループから抜け出してみる?」
「どうやって?」
「俺が今度から別のコインランドリーを使う。探せば他にもあるし。そうすればコインランドリーフレンドでもないし、洗剤も変わる」
そう提案すると、彼女は一瞬ハッとしたような顔をして、すぐに視線を逸らした。
「……別に、そこまでする必要はないんじゃない? どこのコインランドリーでも……洗濯を始めたらここに来てくれるんだよね?」
「そうなの!?」
「や、そうじゃないんだとしたら受け入れがたいなぁ。ここにいなよ。別に同じ匂いがすることは嫌じゃないし……むしろ良い。や、メリットがあるわけじゃないけど、デメリットもないし」
月島さんが照れくさそうにそう言う。その言葉と表情に、思わず心臓が、洗濯槽の中で踊る洗濯物のように、大きく跳ねた。
同じ匂いがする。それは確かに、少し厄介な問題かもしれない。
けれど、彼女がそれを「別に嫌なわけじゃない」と言ってくれるのなら。
この、奇妙で、少しだけ特別な秘密を、もう少しだけ楽しんでみるのも、悪くないのかもしれない。