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 湊さんがコンサルとしてオフィスに出入りするようになって数週間。TechFrontierの役員としての日常は、相変わらず目まぐるしいけれど、金曜日の深夜、あの静かな空間で彼と交わす、仕事とは全く関係のない、とりとめのない会話は、私にとって予想外の安らぎの時間となっていた。


 普段見せることのない彼の素顔や、時折光る洞察力に触れるのは、悪くない刺激だ。

 だが、そんな穏やかな日常に、思わぬ方向から小石が投げ込まれた。


 発生源は、人事部の田中たなかじゅん。彼女の社内情報網の速さと広さには、時々舌を巻いてしまうのだがついに自分がターゲットとなる日がやってきた。


「月島さん! お疲れ様です!」


 ある日の昼休み、オフィスの机で一人、考え事をしながらランチを取っていると、田中さんがランチのサラダを持って私の向かいに座り、目を輝かせながら声を潜めてきた。


 肩までの明るいブラウンの髪をゆるく巻き、流行のオフィスルックに身を包んだ、いかにも情報通といった雰囲気の女性社員。


「ちょっと耳にしちゃったんですけど、月島さん、コインランドリーって行きます? そこに例の元カレさんといるって噂があるんですけど」


 う……社員の誰かが近くに住んでるんだろうか。住宅手当の支給要件を緩和する、逆に会社の近くには住ませないようにする、髪の毛を暗くする。色々な対策を瞬時に思いつくけれど、田中さんにバレた時点で時すでに遅し、お寿司。


「そっ……そうなの? 人違いじゃないかなぁ……」


「見間違えますかね。そのピンク髪で」


 うちの会社の良いところはフラットで風通しの良い人間関係だと対外的にアピールしている。副社長に向かって『そのピンク髪』と言い放つ人がいるのがその証左だ。


「みっ、湊さんに似てる人なんていっぱいいるしね! ほ、ほら。センター分けにしてシュッとした人なんてたくさんいるじゃん!?」


「じゃ、副社長がコインランドリーにいるのは本当だと。案外庶民派なんですね」


「洗濯機が壊れてるんだ」


「買い替えたら良いじゃないですか」


「や、今じゃないから」


「なるほどなるほどぉ……分かりました!」


 彼女はそう言いながらもその瞳の好奇心は少しも衰えていないようだった。


 そして、金曜日の夜。いつものコインランドリー。


 私は少し早めに着いて霧島譲の本を開いた。自動ドアが開く度に顔を上げてしまう。彼がどんな顔で現れるか、少しだけ期待しながらページをめくっていた。


 ◆


 俺がコインランドリーに到着すると、月島さんはすでにいつもの席で本を広げていた。


 俺は洗濯物をセットし、彼女の隣に腰を下ろす。ローカルルールに従い、仕事の話はしない。


 ふと、いつもと違う洗剤の香りが鼻をかすめた。


「あれ、この柔軟剤の香り……新しくなった?」


 俺が言うと、月島さんは顔を上げずに答えた。


「ん。気づいたんだ。先週から変わったみたいだよ。前のより、こっちの方が好みかも」


「俺も。なんだか少し優しい香りになった気がする。こういう小さな変化も大事だね」


「ん。ユーザ体験は大事。後は小銭の両替と電子決済に対応してくれたら完璧なんだけどね」


 沈黙が戻り、洗濯機の回る音だけが響く。その音も、今日は心なしかいつもより穏やかに聞こえる。


 不意に、月島さんが口を開いた。


「……ね、湊さん」


 本から顔も上げずに、彼女は言った。


「何?」


「私達がここで会ってること、社員にバレてる……」


「じゃ、いよいよ月島さんが洗濯機を買い替える時が来た、と」


「や、そのつもりはないよ。次のモデルの方が高性能なはずだし」


「出たよ……まぁけど、バレたところで問題はないんじゃないの? 別に人目も憚らずにイチャイチャしてるわけでもないし」


「ん……それだ!」


 月島さんが珍しく大きな声を出すと、椅子を引いて俺との距離を詰めてきた。そのまま脚を上げて俺の腿の上においてくる。部屋着の、短い丈のズボンのためすぐ目の前に生足があり目に毒だ。


「なっ……何が!?」


「中途半端に一緒にいるから変な噂が立つんだって気づいた。むしろここで『人目を憚れ』って思われるくらいのことをしてたら触れづらくなって誰も話題にならないはず!」


「多分、裏でこっそり『あの人、コインランドリーでめっちゃイチャイチャしてた』って言われるだけだよ!? 月島さんくらい優秀な人ならわかるはずだよ!? 良く考えて!? メリットとデメリットが釣り合ってないよ!?」


「や……確かに。メリデメ比較は大事だね」


 月島さんは苦笑しながら足をおろして座り直す。


「そもそもだけど俺が元彼って噂が広がったところで大したデメリットなくない?」


 実は社内に好きな人がいる、なんて話だったら大きなデメリットになると発言してから気づいた。


 だが、月島さんはいたって真剣な表情で考え込み、「確かに……何も問題なかった」と呟いたためその線はなさそうだ。


「や、けどさぁ……中学生じゃないんだからさ。誰と誰が話してたから付き合ってるとかさ。ダルいよねぇ」


「逆に付き合ってないのに深夜のコインランドリーで毎週のように顔を合わせることもない気もするけどね」


「じゃ、私達付き合ってる?」


 月島さんがお互いを指さしながら尋ねてくる。


 そのまま見つめ合いフリーズする。月島さんからすれば、俺の返答待ちというステータスのため気楽に待てるだろうけど、なんとなく答え方に詰まってしまう。日が浅いからそんな訳はないのだけど。


「い……いや、そういうわけじゃ……」


「ん。でしょ?」


 月島さんはさも当然とばかりに無表情でそう言った。別に照れた反応が見たかったわけじゃないけれど、これはこれでさみしいものがある。


「ま、未来のことは誰にもわかんないけどね。未来にドラえもんもいるかどうか」


 月島さんはポツリと呟いた。


「ドラえもんだと、最早未来の人が過去の漫画を参照して作る可能性まであるよね」


「なら……結局、今を生きてる人の行動次第ってことかな?」


 月島さんはニヤリと笑って横向きになり、また俺の腿の上に足を載せてきた。


「こっ……これが未来に繋がるの!?」


「さてね。どうだろ」


 月島さんは自分の部屋でくつろぐような態勢で洗濯が終わるまで本を読み続けた。


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