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TechFrontierとのプロジェクトが本格的に始動し、俺の日常には「クライアントの月島副社長」という、強烈な個性を放つ新しい登場人物がくっきりとその輪郭を現した。
もちろん、それは週に一度、コインランドリーの片隅で読書をしている「月島さん」と同一人物なわけで、そのギャップにより軽いフリーズを起こしかける。
会社での彼女はまさに「ハイスペックCTO兼CHRO」そのものだ。シャープな分析、的確な指示、そして一切の無駄を許容しないかのようなコミュニケーションスタイル。
あの鮮やかなピンク色の髪さえなければ、シリコンバレーのどこかのテックジャイアントからヘッドハントされてきた凄腕経営者と言われても、誰も疑わないだろう。
そんな彼女の姿を目の当たりにした怒涛の一週間が過ぎ去った週末、いつものように仕事終わりにコインランドリーにやってきた。
月島さんは奥の席で静かに読書に耽っていた。
洗濯機に洗濯物を詰め込み、月島さんの隣に座る。
「お……お世話になってます……」
相手は取引先の副社長。若干どころではない気まずさを感じながら声を掛けると月島さんは本を閉じて俺の方を見てきた。
「やっほ、湊さん。今日はやけに他人行儀じゃん」
「そ、そりゃ今週は色々とありましたから――」
気を遣って話していると、月島さんが腿の上に置いていた文庫本を俺の方に投げてきた。
「うわっ! な、何!?」
「ね、湊さん。ここでは『湊さんと月島さん』としよう。お互いに下の名前は知らないし、職業も知らない。知ってるのは推しのキャラクターと苗字だけ」
「あ……う、うん……そうだね。その方が話しやすくはあるけど……」
「大丈夫。プライベートと仕事は分けられるタイプだから」
「その割には、打ち合わせ中にニヤけてたらしいよ。会社の人に『元カノですか?』って聞かれたし」
「や……それ私も。湊さんもニヤけてたみたいだよ」
指摘されるまで自覚がなかった二人で目を見合わせ、ぷっと吹き出す。
「月島さんも案外顔に出るんだね。ポーカーフェイスなイメージだったから意外だよ」
「コインランドリーで話してた人がいきなりスーツをビシッと着て現れるんだもん。そりゃ笑うよね」
「それはお互い様だよ……ってか、月島さんって立場的にはかなり稼いでそうなのに、まだ新しい洗濯機買わないの?」
「多分、今買うよりも新モデルの方が良い気がするからまだ買わない」
「それ、一生言ってるんだろうね……」
「や、けど湊さんだって買えばいいじゃん。御社、最近調子良いんでしょ? ボーナスで買っちゃいなよ」
「うちは狭いから、どうせなら引っ越しのタイミングで大きめのいいヤツを買いたいんだよね。今は乾燥機能がついてないし。引っ越しは未定」
「ふふっ……それだと私と言ってること変わんないよ」
「ま、ここに来る理由を正当化してるだけだからね」
「つまり……他に隠すような理由があるの?」
月島さんがじっと俺の方を見ながら尋ねてきた。答えづらい質問のため押し黙ると洗濯が終わるのを待つ男女が見つめ合うだけの空間ができあがった。
しばらくの間、店内には二台の洗濯機が立てる、規則正しい回転音だけが響いていた。ゴウン、ゴウン、という低い音が、まるで大きな生き物の寝息のように俺たちの間の静寂を揺らしている。
「……どうだろうね」
「ふぅん……」
月島さんはジト目で俺を見る。そのまま俺が持っていた自分の文庫本を回収すると、一人で読書を始めた。
時折本から視線を外して流し目で考え込む姿は、淀みなく資料に対して指摘をする副社長ではなく、ただの文学少女にも見える。
俺も自分の本を読み始めると、コインランドリーの店内は洗濯機が回る音と、たまにペラっとページを捲る音だけが聞こえるようになった。
たまに人がやってくるも、洗濯機を回してすぐに去っていく。月島さんはそう言った視覚的な情報のアップデートが気になるらしく、ドアが開く度にちらっと見てはまた本に視線を戻すことを繰り返している。
「あ、隣に湊さんいたんだった」
「そうだけど……どうしたの?」
「や、本に夢中になりすぎて隣にいることを忘れてたんだよね。だから、ドアが開く度に『湊さんかな?』って見ちゃってた」
この人、基本的に天才なんだろうけどたまに抜けてるところもあるな……
「ちゃんと隣に座ってるから。認識しといてよ」
「ん。わかった」
月島さんがまた読書に戻ったため俺も自分の本を開いた。
月島さんの言っていたことは本当だったらしく、俺が隣にいると認識してからはドアが開いても顔を上げなくなった。
つまり、月島さんは無意識に俺を待っているということか? 本人はそんな気恥ずかしいことを暗に伝えたとも気づいていないらしく、視線が文章の上をしばらく走った後は流し目で内容を咀嚼することを繰り返している。
途中、また思い出したように月島さんが口を開いた。
「ね、湊さん」
「何?」
「私、しばらく洗濯機は買うつもり無いから。家庭用洗濯機に根本的なイノベーションが起こらない限り、洗濯機は買わずにここで洗濯をするよ」
「俺は元々ここで洗濯してるから……そうなると、しばらくは会うことになりそうだね」
「ん。そうだね。ま、本を読むくらいしかやることないけど」
相当に忙しいであろう月島さんがパソコンを持ってこない場所。それはつまり、それだけ日常から離れられる場所ということ。
そんな大切な場所で一緒にいられるというのも中々に光栄なことだと思う。
月島さんがちらっと俺を見てふっと笑った。
「湊さん。ニヤけてるよ」
「顔に出やすいから」
適当に誤魔化すと月島さんは「何を考えてるんだか」と言って本に視線を戻す。
読んでいる霧島譲の本はコメディ要素はない作品のはず。だが、月島さんの横顔からは脳内での楽しげな想像が漏れ出ているかのようなニヤケ顔だった。
この静かな日常はもうしばらく続きそうだ。