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 月島さんが霧島譲のファンだと判明した。


 ほんの少しだけ、だけど確かに、俺たちの間の距離は縮まったように感じられた。次はいつ話せるんだろう。


 そんな小さな期待を胸に抱きつつ、俺の日常は相変わらずコンサルタントとしての激務に追われていた。


 新しい週が明け、部長の高橋さんに呼び出されたのは月曜の朝一番のことだった。


「湊くん。急なんだが、新しいクライアントを担当して欲しいんだ。プロジェクトのアサインを調整してたんだが玉突きでこの案件のリーダーが空いてしまってね。お願いするよ。先方にはお伝えして了承をいただいているから」


 高橋部長は、いつもと変わらぬ温厚な笑みを浮かべてそう言った。


 差し出された資料の表紙には、「TechFrontier株式会社 開発チーム組織見直しのご提案」とある。


 TechFrontier。この数年、独自のAI技術で業界を席巻しているITベンチャー企業だ。


「TechFrontier……ですか」


「そう。副社長が若いんだけど切れ者でね。24歳にしてCTO、CIO、そしてCHROを兼任している。まさに天才だよ。副社長のビジョンをどう組織に落とし込むか、君の腕の見せ所だぞ」


「なるほど……分かりました」


 ペラペラと資料をめくっていると双方の体制図が書かれていた。相対する副社長が今回のプロジェクトを統括しているらしい。


 体制図にある『月島副社長』という人物に妙な引っ掛かりを覚える。


 仕事中まで月島さんの事を考えるようになったらいよいよこれは恋なのではないか、なんて考えてしまうのだった。


 ◆


 初回打ち合わせは、水曜日の午後。


 TechFrontierのオフィスは、都心の一等地にそびえ立つ、ガラス張りの新しいビルにあった。


 受付で名前を告げると、すぐに会議室へと案内される。ガラス張りの壁の向こうには、自由な雰囲気のオフィス空間が広がっていた。


 カラフルなバランスボールに座って作業する社員、ヘッドフォンで音楽を聴きながら猛烈な勢いでキーボードを叩く社員……。


 俺の知る、いわゆる「日本の会社」とは明らかに異質なカルチャーがそこにはあった。


 チームメンバーの社員達と会議室で待っているとドアが開き、数人の社員と共に入ってきたピンク色の髪の毛の女性を見て俺は目を丸くした。コインランドリーに出現する、あの月島さんが入ってきたのだ。


 ただ、いつものコインランドリーでのラフな服装とは違い、今日はオーバーサイズの白いシャツに黒い細身のパンツ、その上にさらりとカジュアルなグレーのジャケットを羽織っている。鮮やかなピンク色のショートボブは、会議室の明るい照明の下でより一層際立って見えた。


 彼女もまた、俺の姿を認めて、ほんの一瞬、本当にコンマ数秒だけ、あのコインランドリーで見せるような、わずかに目を見開く表情をした。だが、すぐにそれは完璧なビジネススマイルに上書きされる。


「本日はお越しいただき誠にありがとうございます。TechFrontier副社長の月島です」


 月島さんが名刺を差し出してきた。俺も慌てて名刺を取り出して月島さんと名刺を交換する。名刺に書かれていたのは、月島つきしましおりという名前と、副社長、CTO、CIO、そしてCHROという肩書の羅列。間違いなく、この人がクライアント側の責任者である月島副社長に他ならない。


「かっ……株式会社ヒューマン・キャピタル・ソリューションズのみなと啓一郎けいいちろうです。本案件のチームリーダーを務めさせていただきます。よろしくお願いいたします」


 俺もまた、プロのコンサルタントとしての仮面を被り、深々と頭を下げた。頭の中では、コインランドリーの回転ドラムと、会議室の静寂と、彼女の二つの顔が、ぐるぐると混ざり合っていた。


 月島さんはコインランドリーで読書をしている時のように、じっと俺の名刺を見ながら間を設ける。少ししてから顔を上げると、俺にだけ聞こえる声で「啓一郎……ね」と呟いた。


 打ち合わせが始まると、月島さんはCHROとして、TechFrontierが抱える人事組織上の課題、目指すべきビジョンについて、驚くほど流暢かつ的確な言葉で説明を始めた。


 その内容は、彼女がコインランドリーで読んでいた『部下が百人を超えたら読む本』から得たであろう多角的な視点、そしてCTOとしての技術的な知見が複雑に絡み合った、非常に高度なものだった。


「当社の組織構造は、創業期のスタートアップとしては最適化されていましたが、現在のフェーズにおいては、スケーラビリティとアジリティの両立という点で、いくつかのクリティカルな脆弱性を内包していると認識しています。特に、情報共有のフローにおけるボトルネックの解消、および、各プロジェクトチーム間のコミュニケーションプロトコルの標準化が急務です」


 まるで、複雑なシステムアーキテクチャの設計図を解説するように、彼女は淀みなく語る。その姿は、コインランドリーで見る、どこか気怠げな雰囲気とはまるで別人だった。


 一分の隙もないプレゼンテーション。彼女の言葉の一つ一つに、明確なロジックと強い意志が込められているのが分かる。これが、24歳のCTO兼CHRO……。俺は、改めて彼女の能力の高さに圧倒されていた。


 とはいえ、こちらも仕事で来ている。やることはやらねば。


「承知いたしました。活動の大枠ですが……まずは、現状の組織課題を洗い出すため、網羅的なアセスメントを実施します。その上で、御社の企業文化――すなわち『変化を恐れず、常に新しい技術と価値を創造し続ける』というコアバリューを損なうことなく、持続的な成長を可能とするための、新たな人事戦略フレームワークを構築する、といった進め方を想定しております」


「ん……よ、よろしくお願いします。私はエンジニア上がりなので人事の話には詳しくないところもありまして……頼りにしていますね」


 月島さん、今一瞬素が出かけてたな!?


 ◆


 打ち合わせ後、月島さん達に見送られてエレベータで地上へ向かう。


「湊さん、あの副社長さんって知り合いなんですか?」


 俺達しか乗っていないエレベータのため、社員の一人が軽いノリで雑談を振ってきた。


「えっ……な、何でそう思ったの!?」


「なんか……空気感? 少なくとも初めましてではなさそうだったので」


「はっ、はじめましてだよ!?」


「ふぅん……」


 どうやら誰も信じてない感じだ。俺、そんなに顔に出てたんだろうか。


 ◆


 湊さん達を見送った直後、エレベータの扉が閉まりきったのを確信してから頭を上げる。


「月島さん、さっきのリーダーの人って知り合いなんですか?」


 目敏い女性社員がニヤニヤしながら尋ねてきた。


「えっ……や……しっ、知らない人です……」


「えー! 絶対に表情を変えない鉄仮面の月島さんが打ち合わせ中もニヤけてるし、絶対に元カレだなーって思ってたんですよね」


「ないない……そんな偶然あるわけないじゃないですか。そもそも彼氏いた事ないですし。世の中の男性のほとんどは誰かから見た『元カレ』かもしれませんが、私から見た時に『元カレ』という人物は存在しません。故にあの人は元カレではないです」


「なるほどぉ……月島さんも初対面の人にあんな表情見せるんですねぇ……じゃ、単にタイプだった?」


「別に……私のタイプは時任警部なので」


「誰ですか? それ」


 湊さんなら伝わったのにな、なんて思ってしまうくらいには、エレベータが行ってしまったのが名残惜しく思えた。


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