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金曜日の深夜。俺がいつものように洗濯機を回していると、月島さんが、風呂敷に包まれた、一升瓶らしきものを持ってやってきた。
「お疲れ、湊さん」
「お疲れさま、月島さん。その箱は何?」
「ん。これね。凄いよ」
彼女は、風呂敷を解き、中から美しい箱に入った、見るからに高級そうな日本酒の瓶を取り出した。
ラベルには達筆な文字で酒蔵と酒の名前らしき漢字が書かれている。
「お酒……?」
「この前、出張で新潟に行ってさ。その時、現地の取引先に、お土産で頂いたんだよね。純米大吟醸。でも、私一人じゃ、こんなのとても飲みきれないし」
「飲みきれそうな気もするけど……」
「でも、私一人じゃ、こんなのとても飲みきれないし」
「無限ループ?」
月島さんはニヤリと笑って頷くと「print(でも、私一人じゃ、こんなのとても飲みきれないし)」と言った。
「無限ループのプログラム!?」
「や、これだけだと無限ループするための処理がないし、文字列をダブルクォーテーションで括ってないからエラーになる」
「そ、そうなんだ……」
彼女は、そこで一度、言葉を切り、俺の目を、じっと見つめてきた。
「……だから、一緒に飲まない? これの処理を手伝ってよ」
「今の処理っていうのは……」
「無論、酒を飲むということ。酒処理バッチの実行時間はJSTで今日の1時から」
「今からだね!?」
「あのソファ、たぶん、日本酒を飲むための、世界で最も最適なプラットフォームだと思うし。夜間バッチを動かす価値もある」
「すごい口実だ……」
「でしょ?」
洗濯機の設定を終えた月島さんが俺の方を振り返る。その表情は事務的なバッチ処理を待っているとは思えないくらいに晴れやかだった。
「じゃあ……洗濯が終わるまでにつまみの準備をしとく?」
「ん。無駄のない完璧なジョブ設計」
「今日はいつもより専門用語多めだけど、先にちょっと飲んでない?」
「呼気チェックしてみる?」
月島さんは言うが早いか、俺の前にやってくると可愛らしく微笑みながら「ふぅ〜」と息を吹きかけてきた。
明らかにアルコールの混ざった香りがしている。
「……飲み会だったんだね!?」
「ふふっ。私にとっては二次会なんだ」
「大丈夫なの……? ソファ、高いやつだよ?」
「や、大丈夫大丈夫。吐かないから」
「人の夢と書いて?」
「儚い。ぜーったいに大丈夫だって」
月島さんはへらへらしながらそう言った。壮大な振りじゃないことを祈るばかりだ……
◆
黒いイタリア製のソファ。そして、その前にある、ソファと釣り合わないローテーブルには、月島さんが持ってきてくれた、純米大吟醸とコンビニで調達した簡単なつまみが数品。
月島さんは慣れた手つきで一升瓶の封を開けると、俺の持っていた一番いい切子のグラスに、とくとくと、透き通った液体を注いでくれた。グラスから、フルーティーな香りがふわりと立ち上る。
「……じゃあ」
「……うん」
俺たちは、グラスを、カチン、と、静かに合わせた。
「あぁ……美味い……」
口に含んだ瞬間、米の、ふくよかで、上品な甘みが、舌の上で、とろけるように広がった。後味は、驚くほど、すっきりとしている。これが、本物の、純米大吟醸……。
「でしょ? ……あー、五臓六腑に染み渡る。疲れたシステムの、コアの部分まで、染み込んでくる感じ」
彼女はそう言って幸せそうに目を細めた。
「酒カスだ……」
「まぁね。私の肝臓のスペックをなめないでほしい。湊さんこそ、顔が赤くなってるじゃん。冷却ファン、回した方がいいんじゃない?」
「うっ……うるさい……俺は嗜む程度でいいんだよ」
俺たちは軽口を叩き合いながら杯を重ねていく。それなりの度数があるはずなのに、軽やかな口当たりで一杯、二杯、三杯と水のように飲んでいってしまう。
「……ね、湊さん」
一升瓶が、半分ほど空になった頃。月島さんが、不意に、真剣な顔で言った。
「ん。ちょっと、トイレ」
「……え? ああ、うん」
彼女は少しだけふらついた足取りでソファから立ち上がった。だが、一歩も前に進めずにラグの端に足を引っ掛けた。
「おっと……!」
彼女の体が、ぐらりと大きく傾く。
気づいたら俺の腕の中には、月島さんがいた。
甘い日本酒の香りと彼女の香水の匂いが混じり合って、俺の理性をぐらぐらと揺さぶる。
俺たちの顔の距離は、数センチもなかった。
彼女の少しだけ潤んだ大きな瞳が、驚いたように俺を見上げている。ほんのり開かれた唇に俺の視線は吸い寄せられていく。
部屋の中の時間が止まった。
このまま、あと、ほんの少しだけ、顔を傾ければ俺たちの唇は……
そう思った、その瞬間、月島さんは顔を下げた。
「……湊さん、ナイスキャッチ。レスポンスタイム、なかなか優秀だね。……でも、ちょっとホールドしすぎじゃない? 私を解放してよ。このままだとOOM Killerが発動しそう」
彼女は俺の腕の中で、いつもの調子で言った。半分も意味は分からないけれどいつまでもこの態勢を維持するなということだろう。
「あ、ああ、ごめん……!」
俺はハッとして慌てて彼女から体を離した。
「けど、トイレまで歩けるの……?」
「ん、大丈夫。ちょっと、足元の当たり判定がバグってただけだから」
彼女もまた、顔を真っ赤にしながらそっぽを向いて早口でそう言った。
俺たちの間に、これ以上ないくらい気まずい沈黙が流れる。
さっきまでの友人同士のような和やかな空気は、どこかへ消え去ってしまった。代わりに、お互いを男女として強烈に意識してしまった、甘くて苦い緊張感だけが満ちていた。
俺たちは、どちらからともなく、ソファのそれぞれの端に、そっと腰を下ろした。
「……」
何か話さなければ。そう思うのに、言葉が出てこない。
俺が必死で当たり障りのない話題を探していると、隣の月島さんから、すうすうと、穏やかな寝息が聞こえてきた。
え? と思って横を見ると、月島さんは、ソファの背もたれに体を預けたまま、こくりこくりと、船を漕ぎ始めていた。そして、ついにカクンと完全に眠りの世界へと旅立ってしまったようだった。
「ここで寝ちゃうかね……そりゃお陰様で寝心地は最高だけどさ……」
月島さんの無防備な寝顔を見ていると、男女だとかそんな事を考えていた自分が恥ずかしくなる。月島さんは最初からずっとリラックスしていたんだろう。
さっきまでのあの張り詰めたような緊張感が、嘘のようだ。
俺はしばらくその寝顔を呆然と眺めていた。
どうすればいい? 起こすべきか? いや、こんなに気持ちよさそうに眠っている彼女を、起こすなんてできるはずがない。
俺は静かに立ち上がると寝室からブランケットを持ってきた。そして、彼女の体にそっとかける。
月島さんは「ん」と小さな寝言を漏らしたが、起きる気配はない。
俺はコインランドリーで座る時とそんなに変わらない距離感で隣にそっと座り込んだ。
腕の中に彼女を引き寄せた時の柔らかな感触。
数センチ先に見えた潤んだ瞳。
そして今、目の前で、静かに繰り返される穏やかな寝息。
友人というにはあまりにも近すぎる。
でも、まだ、その先の関係性を定義する言葉を、俺たちは持っていない。
それでいいのかもしれない。
今はただ、静かで、温かくて、そして、少しだけ心臓に悪い時間が愛おしい。
俺は一人の晩酌のように日本酒を注ぎ、その水面を眺めながら、この、どうしようもなく甘いバグのデバッグ方法について途方に暮れるしかなかった。
「……あ、あれ? トイレ! 月島さん! トイレ、行かなくていいの? おっ、おーい! 月島さーん!」
吐かないとは言ったけれど、他の理由でソファを汚す事態になりかねない。俺は慌てて月島さんを揺さぶって起こすのだった。
新作始めました。
『通学電車でトナラーから助けたクラスメイトのSSS級美少女が毎日のように俺の隣に座ってくるようになった 』
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