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土曜日の昼下がり。月島さんは当たり前のように俺の部屋にいた。前日の夜にコインランドリーで会話を交わし、そこから半日と経たないうちに再び顔を合わせるこの関係はなんなのだろう。
黒いイタリア製のソファの上で二人並んで、それぞれが持ち込んだ本を読んでいる。その光景は、もはや俺たちの週末のデフォルト設定になっていた。
「……ね、湊さん。なんか、飽きてきた」
しばらくして、読んでいた難解な専門書をパタンと閉じて、月島さんが、退屈そうに言った。
「珍しいね、月島さんが読書に飽きるなんて」
「や、この本の記述にいくつか論理的な矛盾点を見つけてしまって……」
彼女はそう言うと、ソファから立ち上がり、部屋の中を、何か面白いものでもないか、と探し始めた。そして、本棚の奥から埃をかぶっていた一つの箱を見つけ出した。
「……なにこれ?」
「ああ、それか……懐かしい。『人生ゲーム』だよ。子供の頃よく遊んだんだ」
「人生ゲーム……へぇ、アナログゲームか。電源不要の完全な手動システム。面白い」
月島さんは、まるで、未知の文明の遺物を発掘した考古学者かのように、その箱を興味深そうに眺めている。
「やってみる?」
俺がそう誘うと、彼女の瞳がキラリと輝いた。
「……いいよ。やってみよう。そのゲームの、最適攻略ルート、私が見つけてあげる」
俺たちは、ローテーブルの上に、カラフルなゲーム盤を広げた。プラスチック製の、小さな車。職業カード、お宝カード。そして、おもちゃの紙幣。
「なるほど。初期パラメータは、全員フラットな状態からスタートか。で、ルーレットっていう乱数生成器の結果で、自分の進路を決めていくわけね。プレイヤーのスキルが介入する余地は、どこにあるの?」
月島さんは、ルールブックを読み込みながら、真剣な顔で分析している。
「いや、スキルとか、そういうのは、あんまりないかな……職業選択とか、家の購入とかで、多少の戦略は立てられるけど、基本的には、運だよ、運」
「運……最も、信用できないパラメータだね」
彼女はそう言って、少しだけ不満そうに眉をひそめた。
ゲームが始まると、俺たちの性格の違いは、面白いほど顕著に現れた。
俺は、懐かしい雰囲気を楽しみながら、直感で、自分のコマを進めていく。一方、月島さんは、最初の職業選択から真剣そのものだった。
「……医者か……激務だけど、将来的なリターンが大きい。でも、エンジニアなら時々発明で一攫千金のチャンスがあったけど……や、そこまでのコマはないのか……普通に医者でいいか」
彼女は、全てのカードの期待値を、頭の中で高速で計算しているかのようだった。結局、彼女は「医者」の道で納得したらしい。
だが、人生は、彼女が設計した通りには、進んでくれなかった。
彼女のコマはことごとく、「税金の支払い」や「自動車事故で、修理代を払う」といった、ネガティブなイベントのマスに、吸い寄せられるように止まっていく。
「……なんで……このルーレット、本当に公正な乱数を生成してる? 内部のウエイト、絶対におかしくない?」
月島さんは、ルーレットを、じっと睨みつけながら、本気で、そのアルゴリズムのバグを疑い始めた。
一方、俺は、特に何も考えていなかったが、なぜか、面白いように、ラッキーなマスにばかり止まる。「株で一儲け」「宝くじ当選」「石油を掘り当てる」。俺の小さなプラスチックの車は、おもちゃの紙幣であっという間にいっぱいになった。
そして、ついに、その瞬間が訪れた。
月島さんはゲームの中で起業家に転身。人生最大のビジネスチャンスに賭けようとした、そのターン。彼女のコマは、ルーレットの無慈悲な一回転によって、「会社が倒産。全財産を失う」という、最悪のマスに、ぴたりと、止まった。
「…………」
月島さんは無言だった。そして、次の瞬間、ゲーム盤の上にばたっと突っ伏した。
「……理不尽だ。私の戦略は完璧だったのに。リスク管理も資産運用も、全て論理的に最適解を選んできたはずなのに。……ただの『運』っていう、制御不能なパラメータのせいで全部が台無し……!」
その、本気で悔しがっている姿に、俺は、思わず笑ってしまった。
「月島さん、めちゃくちゃ本気で悔しがってるね……でも、人生なんてそんなもんじゃない?」
俺がそう言うと、彼女は顔を上げて俺を睨みつけた。
「でも、それはシステムの欠陥だよ。努力や実力や戦略。そういう計算可能な要素が運という、完全にランダムなノイズによって、いとも簡単に上書きされるなんて。……そんなバグだらけのゲーム、普通に考えたらクソゲーでしょ」
「まあ、そうかも……でも、だからこそだよ」
俺は、彼女の隣にそっと座り直した。
「もし、全てが実力や戦略だけで決まるなら、多分、月島さんみたいな天才が、常に、トップに立ち続けるだけ。誰も勝てない。でも、運っていう理不尽なパラメータがあるから、俺みたいなごく普通の凡人にも、時々ジャイアントキリングが起こせる。逆転のチャンスがある……それに運っていうのも悪くないよ?」
俺は、そこで言葉を切って、彼女の目をまっすぐに見た。
「俺と月島さんが同じコインランドリーで出会えたのだってただの偶然……つまり、『運』が良かったから、とも言えるね」
「……っ……運が悪かったの間違いかもよ?」
月島さんが上目遣いでそう言った。
「『そんなことないよ』って言って欲しそうなこと言わない」
彼女の負けず嫌いな表情が少しずつ和らいでいく。
「……や、偶然……か」
彼女は、小さな声でそう呟いた。
「……確かに、湊さんとの出会いを、確率論で計算したら天文学的に低い数値になるだろうね……だとしたら、それは……私の人生で、一番のラッキーイベントだったって、ことになるのかな。洗濯機が壊れて、コインランドリーに行って、そこにいた人と話すようになって、その人がコンサルで入ってくる。ま、ありえない確率だね」
その言葉はほとんど独り言のようだったが、俺の心には確かに届いていた。
ゲームの勝敗なんてどうでもよくなっていた。
「……まあ、たまには、こういう、乱数調整のできない神様が支配するゲームも、悪くないかもね」
月島さんは、少しだけ照れたようにそう言うとゲーム盤を指差した。
「……もう一回、やる?」
その、負けず嫌いな、でも、どこか楽しそうな横顔を見て、俺は、心の底から、笑った。
「うん、やろうか。……次は、俺が人生のどん底を味わう番かもしれないよ?」
「湊さん、結婚はしなくていいからね」
「ゲームの中でくらいさせてよ……」
「や、駄目だよ。現実ですればいいじゃん」
「相手がどこにもなぁ……」
俺がそう言っても月島さんは何も言わない。無言のままルーレットを回す。
10を指して止まったルーレットを見て月島さんはにやりと笑った。
「湊さん、10だ。命拾いしたね」
「うん? 俺って10以外だったら殺されてたの!?」
「ま、私なりに条件を決めて回してみた」
月島さんは真意を悟らせない真顔でそう言ってまた人生ゲームを1から始めるためのセッティングを始めた。
新作始めました。
『河川敷で人気アイドルのそっくりさんと夜な夜な飲んでます』
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