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ピンク髪の女性こと、月島さんを『月島さん』と認識してから、さらに数週間が過ぎていた
正確には三週間。ともかく、俺の週末のルーティンには、一つの不可解な、しかし無視できない期待感が組み込まれてしまっていた。ルーティンなんて言うと計画的みたいだけど、実際はもっとこう、磁石に引き寄せられる砂鉄みたいな、抗えない力に引っぱられている感じだ。
その磁力の発信源は、土曜日の深夜、無機質な蛍光灯が煌々と照らし出す、あのコインランドリー。自動ドアが開く瞬間の、ウィーンという軽いモーター音が聞こえると、俺はあの鮮やかなピンク色の髪の月島さんとの、三度目の邂逅を期待してしまう。もちろん、毎週会えるわけじゃないし、実際にここ二週間は空振りに終わった。
人事コンサルタントという仕事柄、人の行動パターンや心理を分析し、予測可能な未来へと導くのが生業のはずだった。それなのに、自分自身のこの心情の変化だけは、どうにも論理的な説明がつかない。
「……月島さん、いるかな」
深夜の静けさに溶けるはずの独り言は、自分の耳にはっきりと届いた。
もし、いなかったら?
それはそれで、構わない。本当に。いつものように、読みかけのミステリー小説の世界に没頭するだけだ。別にあの人と話したくてここに来ているわけじゃない。
いや、それは半分くらい嘘。
コインランドリーの自動ドアが、いつものようにウィーンと間の抜けた音を立てて開く。
一歩足を踏み入れると、むわっとした湿度とともに、いつもの洗剤と柔軟剤の混じり合った、どこか生活感のある、それでいて非日常的な匂いが鼻腔をくすぐった。悪くない匂いだ。誰かの日常の断片が、ここで綺麗に洗い流されていく。そういう場所。
そして――視線を奥へ。
いた。
一番奥の、大型洗濯乾燥機がよく見える特等席。プラスチック製の、お世辞にも座り心地が良いとは言えない椅子に、月島さんは腰掛けていた。
広げているのは一冊の本。それは、俺もここ数日、書店で見かけては気になっていた、深い青色の装丁。間違いない。発売されたばかりの、霧島譲の最新刊だ。
俺は、無意識にごくりと喉を鳴らしていた。心臓が、少しだけ速く、力強く脈打っているのを感じる。前回はビジネス書だったのに、まさか月島さんも霧島譲の読者だったなんて。これは……もう、運命とかそういう、普段なら一笑に付すような言葉が頭をよぎるレベルの出来事だ。
自分の洗濯物をドラムに放り込み、コースを選択する。ガラスの向こうで、俺の一週間の日常の残滓がゆっくりと回り始めるのを確認する。
よし。
俺は意を決して、月島さんの隣の空いている椅子へと、できるだけ自然な動作を心がけながら近づいた。
「こんばんは。月島さん」
声をかける。思ったより、自分の声が少し掠れているのに気づいて焦る。
月島さんは、ゆっくりと顔を上げた。大きな瞳が、俺の顔と、俺の視線の先にある本とを、値踏みするように交互に見た。そして、ほんのわずかに、その瞳が見開かれた。些細な驚きを含んだ表情だった。
「見慣れない花でも咲いてた?」
俺が冗談めかして尋ねると月島さんは穏やかに微笑んだ。
「私、花を見ても別に心は動かないよ」
「じゃ、プレゼントをする時は花束は避けるよ」
「ん。できれば洋菓子で。バームクーヘンとかね」
「はいはい……それさ、もしかして……霧島譲の新作?」
「……うん。そうだよ」
その声は、前回と同じ、どこか体温を感じさせない、淡々とした響き。だが、俺には分かった。その短い返事の中に、確かな思考の「間」があったことを。
「やっぱり! 俺も買ったけどまだ全然読めてなくて……評判、ものすごく良いみたいだね。ネットのレビューとかでも、初期の傑作群に匹敵するって絶賛されてて」
月島さんの表情が、ほんの少しだけ和らいだように見えた。深夜のコインランドリーの蛍光灯は、人の表情を正確に読み取るには不親切だが、そんな環境でも和らいだと分かるくらいには表情に変化があった。
「……月島さん、霧島譲好きなの?」
追加の問いかけは、まるで古い洋館にある鍵のかかった秘密の部屋のドアノブにそっと手をかけるような緊張感を伴っていた。
「ん。デビュー作の『硝子の迷宮』からずっと追いかけてる。中学生くらいだったかな? そのくらいから。読者の心理を弄ぶような叙述トリックと、複雑に絡み合う人間ドラマがたまらなくて――」
そこから先は、まるで堰を切ったように、月島さんの霧島譲への愛が言葉となって溢れ出した。好きなことはとことん饒舌になるタイプらしい。
「――霧島作品は特に謎の提示の仕方が絶妙なんだよね。読者を巧みにミスリードして、最後に『え、そっちだったの!?』って、頭を殴られたような衝撃を与えるあの感じ……」
月島さんは我に返ったようにハッとして「……ごめん。喋りすぎた」と言って恥ずかしそうに俯いた。
「全然。むしろ同志と会えて嬉しいよ」
「……ん。良かった」
普段、冷静沈着を心がけている俺も、この時ばかりは、目をキラキラと輝かせていたと思う。月島さんもクールなポーカーフェイスが嘘のように表情が砕けている。
「俺はやっぱり、『虚飾の回廊』の、あの最後の最後で明かされる冷徹な真相が……あれは本当に衝撃だった」
俺が興奮気味にそう言うと、月島さんはこくりと深く頷いた。
「わかる……。あの作品はミステリーってジャンルの枠を超えて、人間の心の奥底に潜む業の深さみたいなものを、容赦なく描き切ってたよね。私が霧島作品の中で一番心惹かれるのは、シリーズを通して時折顔を出す、偏屈だけど滅法腕は確かな老探偵なんだけど……湊さん、知ってる……?」
月島さんが、少し遠慮がちに、しかし確かな熱を込めてそう言った。その名前に、俺は電流が背骨を駆け抜けたかのような衝撃を受けた。
「もしかして……『迷宮の案内人』? 元警視庁捜査一課の伝説の刑事、時任警部……!?」
「そう! 彼! やっぱり知ってたんだ。主人公たちが必死の捜査で掴んだ貴重な情報を、まるで鼻であしらうかのように扱いながらも、決定的なヒントだけを気まぐれにポツリと漏らすあの感じ、たまらないよね。普段はヨレヨレのトレンチコート着てるくせに、紅茶の茶葉の銘柄にだけはやたらとうるさい、あのギャップとか」
「わかるぅ……! 時任さんいいんだよね。『最近の若い刑事は、足で稼ぐという基本を忘れとる』なんて偉そうなこと言いながら、結局誰よりも早く事件の核心にたどり着いてるっていう、彼の過去を描いたスピンオフ作品とか出ないかなって密かに期待してるんだよね」
「私も同じこと考えてた。あの人がどうして一線を退くことになったのか、奥さんとはどういう馴れ初めだったのか……。本編では、本当に断片的にしか語られない彼の過去、ものすごく気になるよね」
まさか、こんなにもピンポイントで「推し」が一致するなんて……。まるで、広大な砂漠でたった一つのオアシスを見つけたような、そんな感動が胸いっぱいに広がった。俺と月島さんは、まるで数十年来の親友を見つけたかのように、その老探偵の魅力について、時間を忘れて熱く、深く語り合った。
その時だった。
ピーッ! ピーッ!
まるで俺たちの熱狂的な談義を諌めるかのように、洗濯乾燥機が電子音で終了を告げた。我を忘れて熱中しすぎて、すっかり自分の洗濯物のことなど頭から消え去っていた。
「あ……乾燥終わっちゃった」
月島さんは名残惜しそうに立ち上がり、洗濯機に駆け寄る。ほかほかと湯気を立てる洗濯物を取り出しながら、俺の方を振り返ってきた。
「生乾きだったらもう一度回せたんだけどね。残念ながらハッピーエンドだった」
それは多分、月島さんなりの『もう少し話したかった』という意思表示に思えた。
「そっか。シーズン2に期待だね。ごめん、月島さん。読書タイムなのに、こんなに長々と……」
「ううん、こっちこそ。こんなに霧島譲の話、しかも時任警部のことまでこんなに語り合えたのは初めてだから」
月島さんはそう言って、ふっと息を吐くように柔らかく微笑んだ。その笑顔は、コインランドリーの無機質な蛍光灯の光を浴びて、なぜかとても儚げで、それでいて心惹かれる魅力的なものに見えた。俺の心臓は、先ほどまでの興奮とはまた違う種類の、優しくて、でも少しだけ切ないリズムで不規則に跳ねていた。
洗濯物をバッグにしまい終えた俺は、名残惜しさを胸の奥に押し込めながら、次の一手を必死で探した。このまま別れてしまうのは、あまりにももったいない。
「月島さん……もしよかったらなんだけど……また話そう」
月島さんは、少しの間、俺の目をじっと見つめていた。その深い、どこか吸い込まれそうな瞳に射抜かれて、俺は身動き一つ取れない。そして、彼女はゆっくりと、しかしはっきりと、小さく頷いた。
「……うん。私もそう思う。一日に五回くらい着替えよっかな。そうしたら、ここに通い詰めることになるし」
その言葉と、それに添えられたほんのりとした悪戯っぽい笑みに、胸の奥が温かいココアが染み渡るようにじんわりと温かくなるのを感じた。
「じゃ、私はこれで。またね、湊さん」
「うん。おやすみ」
月島さんに反応して自動ドアが開くと少しだけ夜風が吹き込んできた。大きなガラス越しに、月島さんが振り向いて手を振ってきたので俺も手を振る。
霧島譲の最新刊を読む楽しみが、さらに一つ、いや、もっともっとたくさん増えたような気がした。
頭の中では、時任警部が渋い声で俺に向かって「おい若いの、まだ始まったばかりだ。油断するなよ」と、どこか楽しそうに囁いているような気がした。