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金曜日の夜、俺はいつものコインランドリーで、少しだけ眉間に皺を寄せながらスマホの画面を睨みつけていた。
「……遅い……」
洗濯が終わるのが遅いのではない。通信制限によりスマホ回線が致命的に遅いのだ。
その原因は自宅wifiの不調だ。日常生活におけるすべての通信をモバイル回線に頼った結果、通信制限となった。
動画は数秒ごとにフリーズし、ニュースサイトの読み込みは遅々として進まない状況。
「や、ごめんね。遅くなって。おまたせ」
いつの間にか、俺の隣には月島さんが座っていた。
「うわっ!? びっくりした……」
「湊さん、すっごい集中してたね。何見てたの?」
「あー……いや、むしろ何も見れないんだよね。通信制限でさ。遅いっていうのは月島さんのことじゃなくて、回線のこと」
「ふぅん……通信制限か……」
「最近、家のWiFiの調子が悪くてずっとスマホ回線だったんだ。動画は止まるし、ページの読み込みも、異常に遅い。そろそろ、ルーターの寿命なのかなって」
俺がそう言ってため息をつくと、月島さんの瞳が、カチリ、と音を立てて輝いたように見えた。それは、難解なミステリーの謎を前にした探偵か、あるいは、興味深いバグ報告を受けた凄腕のエンジニアの目だった。
「へぇ……? ネットワークの不調ね。症状は? レイテンシが高いのか、それともパケットロスが発生してるのか。まさかとは思うけど……DNSの設定見直した?」
「え、あ、いや……。レイテンシ? パケット……?」
矢継ぎ早に繰り出される専門用語に、俺は完全にフリーズした。俺に分かるのは「遅い」か「速い」かそれだけだ。
月島さんは、そんな俺の様子を見て、盛大なため息をついた。
「湊さん、自分の家のインフラ環境にあまりにも無頓着。人事のコンサルもいいけど、最低限のITリテラシーは現代社会を生き抜くための必須スキルだよ」
「……返す言葉もございません」
「ま、いいや。この洗濯が終わったら家に行くよ。ネットワークもちょっとわかるし、直せるかは分かんないけど原因の特定位はできるはず」
「……そうなの?」
「や、私、CTO以前にエンジニア。それに、昔、今の綺麗なオフィスに移転する前は社内ネットワーク管理もしてた。さすがに規模が大きすぎるから業者に任せるようにしたけど……ま、それなりに分かる」
あまりに強すぎる肩書と経歴に「ほぇぇ……」と馬鹿っぽい反応しか出てこない。
「けど……貴重な月島さんの時間を……」
「いいの。私、こういうトラブルシューティングは結構好きだから。人間関係のトラブルよりよっぽど解決が楽だし」
彼女の、あまりにも頼もしすぎる申し出に、俺は、もはや断るという選択肢を持ち合わせていなかった。
◆
コインランドリーからの帰り道、俺たちは、並んで夜道を歩いていた。俺の、少しだけ古びたマンションに、まさか、こんな形で月島さんを二度も招き入れることになるとは、数ヶ月前の俺には、想像もできなかっただろう。
部屋に入るなり、月島さんは、一直線に、部屋の隅でひっそりと明滅しているWi-Fiルーターへと向かった。
「……なるほどね。まず、このルーターの設置場所が、そもそも構造的に問題あり」
彼女は、俺が適当に置いたルーターを手に取ると、厳しい目で室内を見渡し、棚の上に移動させた。
「湊さん、コーヒーでも淹れてて。すぐ終わらせるから」
「あ、うん……」
俺は彼女に言われるがままに、キッチンでコーヒーの準備を始めるしかなかった。
リビングの方からは、月島さんの、小さな、しかし真剣な呟きが聞こえてくる。
「……周辺のアクセスポイントとのチャネル干渉がひどいな。みんな、デフォルト設定のまま使ってるのか……。あと、このルーターのファームウェア、バージョンが古すぎる。セキュリティ的にも、パフォーマンス的にも、ありえない……」
彼女は、キーボードをまるでF1レーサーがハンドルを操作するかのように、正確かつ驚異的な速さでタイピングしていく。その横顔は、真剣で、知的で、そして……俺が今まで見た、どの彼女の顔よりも、輝いて見えた。
会社で見せる、CHROとしての顔。
コインランドリーで見せる、ミステリー好きの、少し気怠げな顔。
そして今、俺の部屋で、俺のために、その圧倒的な専門知識を駆使する、CTO、エンジニアとしての顔。
そのどれもが、月島栞という人間を構成する、多面的な魅力なのだと、改めて思い知らされる。
「……はい、終わり」
俺がコーヒーを淹れ終えた、ちょうどそのタイミングで、月島さんが、こともなげにそう言った。
「え、もう?」
「うん。とりあえず、近隣のネットワークとのチャネル干渉を避けるように設定変更して、ファームウェアも最新版にアップデートしといた。あと、ルーターの設置場所、こっちの棚の上に変えるから。電波の通り道は、物理的に確保しないと……これで、スループットが体感で300%は改善するはず」
俺は、言われるがままに、自分のスマホでネットに接続してみた。
「……えっ、速い……! なんだこれ、別次元だ……!」
さっきまでの遅延が嘘のように、動画は瞬時に再生され、重いニュースサイトも、一瞬で表示される。
「すごい……月島さん……魔法使いか何か?」
俺が、本気で感嘆の声を上げると、月島さんは、まるで子供に簡単な計算を教えてあげた後のような、そんな涼しい顔で、ふっと笑った。
「別に。こんなの基本のキだよ……それより、湊さん」
彼女は急に少しだけ甘えたような声色になった。
「なんか、お菓子ない? お腹すいた」
その、あまりのギャップ。
さっきまで、最先端の技術を操る、孤高の天才エンジニアだったはずの彼女が、今は、ただ、お菓子をねだる、普通の女の子になっている。
その、あまりの可愛らしさに、俺の心臓は、またしても、大きく、そして不規則に跳ねた。
「う、うん……何かあるはず……」
俺が適当にチョコレートやポテトチップスを持っていき二人でソファに腰掛ける。
コーヒーとクッキーを前に、一息ついた。Wi-Fiが快適になったおかげで、スマホで好きな音楽を流しながら、俺たちは、また、とりとめのない話を続けた。
彼女が最近ハマっているという海外ドラマの話。俺が読んでいるミステリーの、犯人に関する考察。
その時間は、あまりにも心地よくて、俺たちは、すっかり時間を忘れてしまっていた。
ふと、俺が壁の時計に目をやって、ぎょっとする。時計の針は、とっくに深夜3時を回っていた。
「あ……もうこんな時間だ。月島さん、ありがとうね。送ってくよ」
月島さんは、俺の言葉に、ゆっくりと自分のスマホを取り出して時間を確認する。その顔は、不思議なくらい落ち着いていた。
「……」
無言で画面を見つめる彼女。やがて、ぽつりと、まるで他人事のように呟いた。
「……本当だ。もう寝る時間だね。帰ってる時間がもったいないや」
「……え?」
月島さんは、俺と、俺の部屋のソファ、そしてスライドドアを挟んで隣の部屋にあるベッドを、順番にゆっくりと見比べてから、静かに言った。
「……湊さん。泊めてもらってもいい?」
その問いは、あまりにも直接的で、でも、どこか、助けを求めるような、それでいて別の世界へ誘うような響きを帯びていた。
「え……あ、うん。かっ、構わないけど……その、ベッド、一つしかないし……お客さん用の布団とかも……」
「ん。問題ないよ。私は、床でもどこでも寝られるから。フカフカであることは必須要件じゃない」
「いやいや、そういうわけには……!」
「……じゃあ、湊さんの匂いがたっぷりと染み込んだベッドでもいいよ? ま、このソファで寝られるのも最高ではあるから本当にどちらでも」
「まぁ……確かに。着替えは……あるのか」
「ん。そう。明日の着替えも、さっき洗濯したばかりで、いっぱいあるから困らない。汗かいたからお風呂……ってかシャワー借りても良い? 集中すると脇汗すごいんだよね」
月島さんは不愉快そうに脇を閉じてそう言った。
「ど……どうぞ……」
月島さんは「ん。ありがと。タオルだけ貸りる」と言って、バスルームへと消えていく。
一人で部屋に残された俺は、まだ、状況をうまく飲み込めていなかった。
さっきまで、俺の家のWi-Fiルーターを修理してくれていたはずの月島さんが、今、俺の家の風呂に入っていて、そして、今夜、ここに、泊まる……?
これまで経験したことのない、重大で、そして、どう対処すればいいのか全く分からない、未知の例外処理に直面していた。
遠くから聞こえる、シャワーの音。それは、これから始まる、長い夜の、始まりの合図のような気がした。




