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一週間の労働を終えた金曜日の深夜、俺と月島さんはいつものように、それぞれの本を片手に、静かな時間を共有していた。洗濯機の低い回転音が、まるで心地よいBGMのように響いている。
不意に、月島さんが、読んでいたハードカバーをパタンと閉じた。そして、何かを深く考え込むように、じっと、目の前の回転ドラムを見つめている。
「……ねえ、湊さん」
「何?」
「ちょっと相談があって……聞いてもらってもいい?」
「直球で相談なんて珍しいね。どうしたの?」
俺が聞き返すと、彼女は少しだけ言い淀むように言葉を選びながら話し始めた。
「や、実はさ、採用活動の拡大施策を考えてて。これまでは中途採用がメインだったけど新卒採用も力を入れていきましょうとなってるんだよね」
「ふんふん……」
ゴリゴリに仕事の相談だった。店内には俺達以外誰もいないのでそれなりに突っ込んだ話もできそうではある。
「で、人事部に佐藤さんって若者がいて……まぁ私とそんなに変わらないんだけど。その人が提案してきた施策がまぁ……ちょっとね」
「一体何を……?」
「ショート動画をSNSにあげて認知度を上げたいんだってさ。社員が踊ったりとか、そういうやつ」
「あぁ……企業Tiktokってやつね……基本滑ってるのに……」
「ん。そういうこと。社員が踊ってる動画とか、後は『社長! 社長!』から始まって質問を投げかけて浅い答えをどや顔で答えるやつもやりたいらしい」
「あぁ……ありきたりだねぇ……」
「オリジナル要素は社長じゃなくて副社長でやる点らしいよ」
「月島さんが出るの?」
月島さんは心底うんざりした様子で「ん」と言った。
「とりあえずデモンストレーションしてみる?」
俺は冗談めかしてスマホを取り出す。
「ぜーったいやんないから」
月島さんは頬を膨らませてぷいっと外を向いた。その後また前を向いて「どう思う? 湊さん」と尋ねてきた。
「……どう、と言われても……まあ、最近よくある手法ではあるよね。良い悪いは置いておくとして。若者向けって言われると……うーん……学生に歳の近い人のほうがその辺は詳しそうだしなぁ」
「でしょ? だから、厄介なんだよ」
月島さんは、深いため息をついた。
「個人的な意見を言わせてもらえば、ああいうノリは、致命的に滑っていると思う。でも、それは私の主観でしかない。問題なのは、あの動画を見て『この会社、楽しそう!』って思う人材は絶望的にカルチャーフィットしないってこと。深刻なミスマッチを誘発する可能性がある」
「だろうねぇ……」
「でもさ、提案してきた佐藤さんは新卒なんだけど学生時代から人事系の会社でインターンをしてて経験も豊富で優秀だし、すごく真面目でやる気もある子なんだよね。若干陽キャが過ぎるけど……ま、とにかく、頭ごなしに『そのセンス、ないわ』なんて否定できない。それに彼女のモチベーションを削りたくはないし……という悩み」
「状況はよくわかったよ」
そこで、彼女は俺の目をじっと見つめてきた。
「だから、湊さんにお願いがあるんだ。次の打ち合わせの後とか、立ち話くらいでいいから、外部の専門家である湊さんから『客観的かつロジカルな視点』でこの施策の非効率性を、彼女がやる気をなくさないように、うまく諭してほしいんだ」
簡単ではないオーダーに俺は一瞬ためらった。
「評価制度とか組織設計はまだしも、採用戦略は厳密には俺の専門外なんだけど……」
だが、心から困っている彼女の顔を見ていたら、そんな言葉は、もはや何の意味も持たなかった。この人の力になりたい。ただ、それだけだった。
「ま、分かった。やってみるよ」
俺がそう答えると、彼女の表情が、ぱっと明るくなった。
「本当!? 助かるよ、湊さん」
「『オッサンがなんか言ってるよ』って思われない程度には理論武装しとかないとだけどね」
俺は、その場でスマホを取り出すと、採用マーケティングに関する最新のデータや、各SNSのユーザー層の分析、人材採用における効果的なアプローチに関するレポートなどを、猛烈な勢いで検索し始めた。
その俺の横顔を、月島さんが、どこか、とても優しい眼差しで見つめている。
「や……本当、すごく助かる。本当は自分で解決すべき話なんだろうけどさぁ……」
「月島さん、こういう話苦手そうだもんね。それを自覚して周囲にヘルプを求めているだけ立派だよ。ストレートに『や、絶対滑るじゃん』とか言っちゃいそうじゃん」
「そうなんだよねぇ……湊さんがいてよかったよ」
「けど、渋々踊ってる月島さんも見てみたくはあるかな」
俺がニヤリと笑って月島さんをいじる。月島さんは「ずぇーったいに嫌だ」と言って、頑なに首を縦に振ろうとしなかった。
◆
翌週、TechFrontierでの定例会議が終わり、オフィスの一角で、俺はターゲットである佐藤さんを捕まえることに成功した。
彼女は、新卒らしい、少し緊張した面持ちで俺の前に立っている。
「佐藤さん、お疲れ様です。採用施策の件、月島さんから相談に乗ってあげてって話がありまして……ちょっと時間あります?」
「あ、はい! 湊さん! お疲れ様です!」
「新しいプラットフォームに、積極的に挑戦しようという姿勢、非常に素晴らしいと思います。その熱意、本当に尊敬します」
俺がまず彼女の意欲を肯定すると、佐藤さんの表情が、ぱっと明るくなった。
「ただ話を聞いていて少しだけ気になった点があって……もしよろしければ僕にもこういう新しい取り組みのこと、教えてくれませんか? ちょっとこう……壁打ち的な」
「は、はい! もちろんです!」
俺は、彼女を近くのホワイトボードの前に誘導すると、コインランドリーで調べ上げたデータを元に、話を切り出した。
「佐藤さんの案ってターゲットを『若者』と明確に設定しているところがすごく良いですよね。でも……その『若者』の中でも、本当に採用したい『ハイスペックなエンジニアになりうるポテンシャルを持つ若者』は、一体どのSNSを、どういう目的で使っているんでしょうね?」
俺は、決して彼女の案を否定するのではなく、問いを投げかけ、彼女自身に考えさせるアプローチを取った。
「うーん……ショート動画って誰でも見るものじゃないんですか? それに、従来じゃリーチできる幅が広がるのもメリットだと思ってるんです」
「質より量って言葉もありますけど、数だけ増えても面接やその前のスクリーニングが大変になりますからね……巡り巡って採用担当の人の負担が増えますよ。それに、オタク気質のある優秀なエンジニア志望の学生が本当に企業の採用動画を、娯楽系のコンテンツと同じように消費するのか。むしろ、企業からの、あまりにも砕けすぎたアピールに対して、かえって不信感や、専門性を軽んじられているという印象を抱く可能性はないだろうか……とかおじさんは考えちゃうんですよね」
続けて、会話の中で具体的なデータや、候補者心理の分析モデルを提示していくと、最初は自信に満ちていた佐藤さんの顔が、次第に真剣なものへと変わっていく。
その時だった。
田中さんが、絶妙としか言いようのないタイミングで、俺たちの横を通り過ぎる。ニヤニヤしながら月島さんの方に視線を送る。色々と勘違いされていそうだが少し声を大きめに張って真面目な話をしている事をアピールする。
俺たちの「壁打ち」は、その後も続いた。そして、最終的に、佐藤さんは、自分の考えの浅さを素直に認め、目を輝かせながらこう言った。
「なるほど……! 私、完全に『若者向け』っていう、すごく雑なターゲティングしかできていませんでした。もっと、採用したい人物のペルソナを具体的に設定して、そのペルソナが本当に求めている情報、響くアプローチを、ロジカルに考え直してみます! ありがとうございます、湊さん!」
その、前向きな言葉に、俺は安堵のため息をついた。ミッションコンプリート。
用事は済んだため、一足遅れてオフィスを出ようとエレベータホールの方へと向かう。
すると、背後から、てくてく、と聞き慣れた足音が近づいてきた。月島さんだった。
「見てたよ、湊さん。完璧な仕事だった。ありがとう」
彼女は、本当に嬉しそうに、そして、少しだけ尊敬するような目で、俺を見ていた。その労いの言葉に、俺は照れくさくなる。
「お礼。私の奢り」
そう言って、彼女は、近くの自販機で買ったと思しき、少し高級な缶コーヒーを俺に差し出した。
「あぁ……わざわざいいのに。ありがと、月島さん」
「ん。あっちで飲もうよ。ちょっと話したい」
月島さんの提案で、二人で休憩スペースの窓際に並びコーヒーを飲む。
その、穏やかで、少しだけ特別な時間を、またしても、あの人物が邪魔をした。
いや、正確には、邪魔をしたわけではない。ただ、俺たちの前を通り過ぎただけだ。満面の笑みでニヤニヤしながら。田中さんが。
「……また、何か変な噂が立ちそうだね」
俺がやれやれと肩をすくめると、月島さんはコーヒーを一口飲んで、冷静に、しかしどこか楽しそうに未来予測を口にした。
「明日には『湊氏、今度は若手社員にまで手を出し、月島さんと三角関係のもつれか!? オフィスは戦場へ!』みたいな、新しいデマが広がってるかもしれないよ」
俺がそう言い、月島さんと顔を見合わせて、同時に苦笑いをする。
「本当さぁ……何が良いんだか。社内ゴシップもショート動画も」
月島さんは廊下に響かないよう、俺にだけ聞こえる声量でポツリと呟いた。
「だよねぇ……迷惑だよね、ごめんね」
「や、ま、まぁ……迷惑とまでは言いませんがな……」
月島さんは顔を赤くしてドギマギしながらそう言い、コーヒーを一気飲みすると「じゃーね。ご来訪あざした」と言ってオフィスの方へ戻っていった。




