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 あの鮮烈な出会いから、2週間が経った。


 相変わらず仕事に忙殺される日々を何とか乗り越え、ようやくたどり着いた土曜日の深夜。俺は、溜まった洗濯物と読みかけのミステリー小説を抱え、いつものコインランドリーのドアを開けた。


 先客は……いた。


 見慣れたピンク色のショートボブが、一番奥の大型洗濯乾燥機のガラス窓を静かに見つめている。あの夜、恋愛リアリティショーの悪口で妙に意気投合した彼女だ。


 あれ以来、ここに来るたびに、心のどこかで彼女の姿を探している自分がいた。いると少し緊張し、いないと少しだけ落胆する。我ながら単純なものだ。


 彼女は俺に気づくと、軽く会釈した。俺も無言で会釈を返す。


 先日の饒舌さが嘘のように、俺たちの間にはまた最初の頃のような、少しぎこちない空気が流れた。


 いや、むしろ一度打ち解けたからこその、なんとも言えない距離感というべきか。


 俺は自分の洗濯物を洗濯機に放り込み、持参したミステリー小説を開いた。だが、どうにも集中できない。


 彼女も自分の洗濯が終わるのを待つ間、コインランドリーに居残り分厚いビジネス書を広げている。


 時折、ページをめくる乾いた音だけが、洗濯機の低い唸りとともに店内に響いた。その本のタイトルは『部下が百人を超えたら』。俺も一度は目を通したことのある、組織論の古典的名著だ。


 ちらりと彼女の横顔を盗み見る。


 何か深く考え込んでいるのか、少し眉間に皺を寄せ、ページの一点を見つめている。


 そして、ふと何かに気づいたように小さく頷き、ペンで何事かメモを取る。その表情の変化は、まるで複雑な経営課題を分析し、解決策を模索しているかのようだ、と人事系のコンサルタントの端くれとして興味をそそられた。


 彼女の読書スタイルは独特だった。一つの章を読み終えるごとに、長い「間」を置いて目を閉じ、思考を巡らせているように見える。


 それはまるで、本の内容を自らの経験や知識と照らし合わせ、実践的な示唆を得ようとしているかのようだった。


 そして、時折見せる、現状の本質を見抜くような鋭い眼差し。あれは確かに、ただ情報をインプットしているだけの読書とは違う何かを感じさせた。


 どれくらいの時間が経っただろうか。不意に、彼女が小さな声で呟いた。


「……このKPI設定、うちみたいな急成長フェーズの組織だと、半年も持たずに陳腐化しそうだけど……」


 それは独り言のようでもあり、すぐ隣にいる俺への問いかけのようでもあった。彼女の視線は手元の本に注がれたままだ。俺は、読んでいた小説から顔を上げた。


「どうしたの?」


 つい話しかけてしまった。いや、話しかける口実に食いついた、というのが正しいんだろう。


「いや……この本で推奨してる目標管理制度なんだけどさ。安定期の企業なら機能するかもしれないけど、変化の激しいITベンチャーだとこんな画一的な指標じゃ現場のモチベーション維持は難しくない? って思って」


 彼女が指摘したのは、まさに俺も顧客企業で度々議論するテーマだった。人事コンサルタントとしての血が騒ぐのを感じる。


 思わず、口を挟んでしまった。


「確かにね。急成長中の企業、特にエンジニアリング部門など専門性の高いチームだと、画一的で単純なKPIよりもOKRみたいな柔軟性の高い目標設定と、頻繁な1on1による定性的なフィードバックの方が機能しやすいケースが多いね。この本が出版されたのは少し前だから、現代の組織運営にそのまま適用するには工夫が必要かも」


 俺の言葉に、彼女はゆっくりと顔を上げた。その瞳が、意外そうな、それでいて興味深そうな光を宿して俺を捉える。


「……OKRね。確かにその方がアジリティは高そう。でも、評価の公平性をどう担保するかが課題かな。結局、評価者の主観に左右されやすくなるリスクもあるし。人によって基準も違うし」


「そうなんだよね。評価者トレーニングの徹底と、複数の評価軸、例えば360度評価などを組み合わせて、多角的にパフォーマンスを把握する仕組みが重要。その本ってリーダーシップの重要性については多くのページが割かれていますが、そのリーダー自身の評価能力を高める視点が少し弱いんだよね」


 そこから、俺たちの間で組織論や人事戦略に関する深い議論が始まった。部下100人の壁、フラットな組織構成の在り方とヒエラルキーのバランス、イノベーションを生む企業文化の醸成。


 彼女の指摘は常に本質を突いており、その思考の速さと論理構成の巧みさには、同業者としても感嘆させられるものがあった。


 お互いに言葉が途切れた瞬間に思う。「この人は何者なんだ?」と。そして、それは彼女も同じだったらしく不思議そうに首を傾げた。


「お姉さん……仕事はそっち系?」


「水商売じゃないよ」


「そんな前提で話してないよ!?」


 俺が突っ込むと彼女は嬉しそうにニヤけた。


「私、月島つきしま


「もんじゃ焼きの店で働いてるの?」


「ふふっ……違うよ。名前だよ、名前。職業を知ってるけど名前を知らない人より、職業は知らないけど名前を知ってる人の方がまた次に話しやすいでしょ?」


「確かに。俺はみなと。名前じゃなくて苗字がね」


 月島さんは「おっしゃれ〜」と反応した。フルネームを言われなかったのでこちらもフルネームを伝えるのは憚られた。何となく、この人はそういう人に思えたからだ。


 お互いの簡単な自己紹介を終えたところで彼女の洗濯機が終了を告げる軽快なメロディを鳴らした。


「あ、終わった」


 彼女は手際よく洗濯物を取り出しながら、俺を振り返って微笑む。


「んじゃ、お先。今日のディスカッション、なかなか有益だったよ。湊」


「こちらこそ」


 湊、と本名で呼ばれたことにも、思考の切り替えの速さにも、彼女のたまに見せる笑顔にも、俺は完全にペースを乱されていた。


 バタン、とドアが閉まり、彼女は夜の街へと消えていく。


 一人残されたコインランドリーで、俺は先ほどの議論の熱の余韻に包まれていた。

 思考の「間」、鋭い眼差し。


 あのピンク色の髪の女性は、知れば知るほど謎が深まる。だが同時に、彼女の知性や、物事の本質を見抜く力に、言いようのない魅力を感じ始めている自分に気づいていた。


 俺は手元のミステリー小説に視線を戻す。複雑なトリックも、今はどこか単純なものに思えた。それよりも、あの女性という、はるかに難解で魅力的な「謎」に、俺の心はすっかり奪われていた。

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