17
ソファを買いに行く、という名目のデートの日。
俺は、待ち合わせ場所の駅の改札前で、落ち着かない気分でスマホの画面をタップしていた。
時刻を何度も確認するが、当然、時間はワープしたりしない。
昨夜のコインランドリーでの、月島さんの即席ファッションショーを思い出す。彼女は、一体どんな顔をして、そして、どんな服を着て現れるのだろうか。
「……湊さん。待たせた?」
ふと、声をかけられて顔を上げると、そこに立っていたのは、俺の知らない月島さんだった。
彼女が着ていたのは、予告通りと言うべきか、シンプルで、しかし体のラインを美しく見せる、上品な黒いワンピースだった。普段のラフな服装とは全く違う、その装い。鮮やかなピンク色の髪とのコントラストが、彼女の白い肌と、その存在自体を、雑踏の中で際立たせていた。
「全然」
「ん。良かった。本当はもっと早く来れたはずだったんだけど……寝癖がなおらなくて」
そう言った瞬間、月島さんの横の髪の毛がピヨン、と外に向かって跳ねた。
「あ……本当だ」
「こういう日に限って、ね」
月島さんは恨めしそうにジト目で髪の毛の方に視線をやって、跳ねた髪の毛を指で何度か揺らす。
「……まぁ……でも、すごく似合ってる。そのワンピース」
「ん。ありがと。テストの結果を取り入れてみた。科学的な分析結果に基づいて決定しただけだから。他意はないよ」
彼女は、小さな声でそう呟くと、ぷいっとそっぽを向いた。その耳が、ほんのりと赤く染まっているのを、俺は見逃さなかった。
俺たちは、少しだけぎこちない空気のまま、目的のインテリアショップへと歩き始めた。週末の、少し賑やかな歩道。俺の数歩前を歩く月島さんの、いつもとは違う後ろ姿から、目が離せない。
「でも、すごいよね、こういうのって」
彼女が、不意に振り返って言った。
「こういうのって?」
「デートっていう、仕様も目的も曖昧で、成功の定義も人それぞれ。それなのに、世界中の人間が週末になるとこの不安定なプロセスを、何の疑いもなく実行してる。壮大な社会実験だよ、これって」
「はは……確かにそうかも。でも、その不確定な部分が、面白いんだろうね。予定調和じゃないから、ドキドキする、みたいな……」
「それはつまり……たくさん変なことをしてもいいってこと?」
イタズラ好きの子供のようにニヤリと笑い、月島さんが尋ねてきた。
「奇行は勘弁願えるかな!?」
「や、仕方ないなぁ」
月島さんはそう言うと、俺の手を握って歩き始める。
「こっ……これは……」
「変でしょ? 自分の手が誰かに握られて自由がなくなってるんだよ」
「それはすごく変だね」
「しかも、ここから更に倫理観や法の縛りで自由がなくなる。今日はその一歩目かもしれないね」
月島さんは未来を見通すように遠くを見ながらそう言った。
「ま……それは良いんじゃない?」
俺がそう言うと月島さんは勢いよく俺の方を向いた。
「いっ……いいの?」
「だっ……だってソファ買うだけだしね!?」
「ふふっ……ん。ソファを買うだけだよ」
「……行こうか」
「……うん」
俺たちは、何事もなかったかのように、再び歩き出す。だが、さっきまでの、ぎこちないけれどどこか楽しかった空気は、もうそこにはなかった。
代わりに、お互いの存在を、物理的なレベルで、強烈に意識してしまっていた。
◆
広大なインテリアショップに到着しても、その奇妙な空気は続いた。完璧にコーディネートされたリビングの展示が並ぶ中、俺たちは、どこか上の空だった。
「なんだか、落ち着かないね。他人の完成されたセーブデータを、無理やり見せられてるみたいで。生活感っていう、一番重要なパラメータが欠落してる」
「はは……確かに。綺麗なのはいいけど、人が暮らしている匂いはしないよね」
どのソファから見るべきか迷った俺は、一つの切り口として、彼女に尋ねてみることにした。
「月島さんの理想の家って、どんな感じなの?」
「私の理想の家?」
彼女は少しだけ考え込むと、いかにも彼女らしい答えを返してきた。
「ギガビットのネット回線と、冗長化された電源、広いデスク。あと、腰に負担のかからないアーロンチェアがあれば、それでいいかな」
そのドライな回答に、俺は苦笑する。さっきまでの出来事で高鳴っていた心臓が、少しだけ落ち着きを取り戻した。
「湊さんは?」
「俺は……家は、ただの生活空間じゃなくて、聖域みたいな場所であってほしいかな。仕事とか、外の世界のノイズから完全に切り離されてる空間っていうか……」
俺が口にした「聖域」という言葉が、月島さんの思考に、新しいクエリを投げかけたようだった。彼女の瞳が、真剣な光を宿す。
俺たちは、ソファ選びを忘れ、適当なソファに腰掛けて雑談を始めてしまった。
「じゃあさ、湊さんにとっての『最高の家』の定義って何? 例えば、脱ぎっぱなしの靴下はセーフ? アウト?」
「え、そこ?」
俺が戸惑っていると、彼女は真剣な目で続ける。
「重要だよ。生活っていう共同作業における、許容されるエラーの範囲を決める、大事な仕様策定なんだから」
「うーん……靴下は気になるから拾うかなぁ……え? 月島さんの部屋ってそんなに汚いの?」
「や、全然」
「そ、そうなんだ……」
「ま、靴下は例えだよ。他にもあるじゃん? トイレットペーパーの残りが少ないのに変えてくれてないとかね」
「あー……麦茶の残りが少ないのに新しく作ってくれてないとかね」
「ま、麦茶はポットを2つ用意して順番に使えばいいだけだね。ローリングアップデートだ」
「ま、トイレットペーパーは定期便で買って常に横においておけばいい話だけど……在庫管理?」
「ん。そうだね」
何故か急に始まった共同生活における気になるポイントのすり合わせ会議。解決案が即座に承認されていくため小気味よい。
「……ね、湊さん。トイレットペーパーなんだけどさ……」
月島さんは神妙な顔つきで、膝に手をおいて話を切り出した。
「う……うん。何?」
「あれの『ット』の部分って必要?」
「あー……確かに。ソファに似てるかもね」
「トイレソファペーパー?」
「置換はしなくていいよ!? いや、なんかさ……別にあってもなくてもいいんだけど、あると落ち着くというか……あって然るべきというか……そういうもの?」
「……その観点ならソファより『ット』の方が優れてると思う」
「じゃ、リビングには『ット』を置こうかな」
「ふはっ……変な形だ。けど……ん。そうだね。『ット』に相当するソファか……なるほど」
会話が一段落した時、月島さんは、突然、「……なるほど、完全に理解した」と、何かを悟ったように力強く頷いた。
その瞳には、さっきまでの感傷的な光ではなく、プロジェクトの仕様が固まった時のような、明確な意志の光が宿っている。
「え?」
「湊さん、行こ」
彼女は俺の手を引くと、一直線に店の最奥にある、ひときわ高級なオーラを放つフロアへと向かった。そこは、イタリア直輸入の高級家具ばかりを集めたエリアだった。値段を見ずとも余裕で給料何ヶ月分の世界だとわかる。
俺の言葉を無視して、彼女はある一つのソファの前で立ち止まった。滑らかな黒い本革、ミニマルで洗練されたフォルム、そして、素人目にも分かる、圧倒的な存在感。イタリア製の、高級デザイナーズソファだ。
「……ん。これ」
月島さんは、満足そうに頷いた。
「確かに……これ、いいね」
「ソファはトイレットペーパーの『ット』と同じくらい重要で、湊さんの言う『聖域』を構成する大事な位置づけ。一切の妥協は許されない。よって、これが論理的な最適解。これを購入する。私が買うから気にしないで」
「い、いや、月島さん!? 最適解かもしれないけど、値段が絶対に常識を遥かに超えてるって! いちじゅうひゃく……ひっ!?」
俺が慌てて値札を確認すると、そこには、月給の何ヶ月分か計算を諦める信じられない数字が記載されていた。
「や、けど半額らしい」
月島さんが指差した先には「閉店セール」と書かれていた。半額になるなら桁が一つ減るのでギリギリ手が届くラインだ。
「お客様、何かお探しですか?」
そこへ、洗練された物腰の男性店員が、にこやかに話しかけてきた。彼は、俺と月島さんを瞬時に見比べて、俺が決定権者だと判断したらしい。その視線は、完全に俺にロックオンされていた。
まぁ見た目だけじゃなく月島さんが質問に対し「『ット』を少々」とこれまでの経緯を知らない人からしたら意味不明な言葉を口走ったのも要因だろう。
「そ、ソファを探してまして……」
緊張のあまりソファの前で「ソファを探している」なんて至極当たり前な事を言ってしまう。
「えぇ。こちらのソファは、イタリアの――」
店員から流暢な説明を二人で一通り受けた後、月島さんはきっぱりと言った。
「ん。これください」
「よっ、よろしいんですか?」
「月島さん、本気!?」
俺が小声で、しかし必死に制止しようとすると、彼女は俺の方を振り向き、真顔で言った。
「これは、私が引き起こした、湊さんの家のソファに対する、重大なシステム障害への完全な補償。後、私もたまに使いに行きたい。二人でゆったり使えるサイズ感。完璧だね」
「えぇ……いや、でも……これが俺の部屋にあるの? 全身ユニクロなのにワンポイントでハイブランドを使ってるみたいな感じだよ」
「や、ちょうどいいお洒落じゃん。全身ハイブラよりよっぽどいいよ」
「例えがよくなかったかな……けど、もし夜に家具達が寝静まった後に会議をしてるとしたら、いじめられないかな? 一人だけイタリア生まれイタリア育ちでしょ?」
「大丈夫。イタリア育ちならコミュ力高そうだし。湊さんの部屋にある家具なんだからみんな性格は良いよ」
ぶっ飛んだ設定の言い訳でも月島さんはあしらう。
「うーん……じゃあこう……大して重要じゃないサーバだけやたらとハイスペックな感じ?」
「踏み台とか?」
月島さんが目の色を変えて尋ねてきた。踏み台が何か分からないけれど頷く。すると月島さんは「それは無駄だね」と言った。
「そう! つまりこれは踏み台だよ」
ここぞとばかりに畳み掛けるも月島さんには刺さらない。
「や、ソファだけど……踏み台もいる? いつ使うの?」
月島さんが異常者を見るように恐る恐る俺を上目遣いで伺ってくる。
「これの上に立つわけじゃないよ!?」
有無を言わせぬ、彼女のロジックと態度に、俺はもはやなすすべもなく、ただ圧倒されるだけだった。
「で、ではこちらへ」
店員が俺を見ながらそう言うと、月島さんが一歩前に出る。
「カードで、一括で」
そして、財布から取り出したのは、俺が見たこともない、重厚な輝きを放つブラックカードだった。
多分、月島さんなりに思うこともあったんだろう。
「え……」
店員の、完璧な営業スマイルが、凍り付いた。
その目は、信じられないものを見るように、月島さんと、彼女が差し出したカードと、そして、呆然と立ち尽くす俺とを、何度も往復している。
さっきまで俺にだけ向いていたその視線が、今や完全に、目の前の小柄なピンク髪の女性に釘付けになっていた。
◆
店を出た後も、俺はまだ、状況がうまく飲み込めずにいた。月島さんは、まるで大きな契約を一つまとめてきたかのように、どこかスッキリとした顔をしている。
「湊さん、これで一件落着だね」
「一件落着って……ソファを弁償してもらうつもりなんて、これっぽっちも……というか弁償にしては利息が高すぎるというか……」
「ま、私が使いたいだけだし。気にしないで。普段買い物しないから、別にこのくらいならどうってことないよ。それに、たくさん使わせてもらうから」
「頻度は?」
「毎日。お腹すいた。ご飯いこ」
月島さんはいつもと変わらない飄々とした態度でランチ先を探してウロウロし始めた。




