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TechFrontierの会議室は、和やかな、そして確かな達成感に満ちた空気に包まれていた。俺と月島さんが中心となって進めてきた新人事制度設計プロジェクトの中間報告が、無事に完了したのだ。
とはいえ、まだ現状分析と方向性が見えてきただけで現場の人達との折り合いは完全にはついていないが。
俺の上司である高橋部長も同席する中、月島さんがメインで話した報告に対して、TechFrontierの五十嵐社長は終始上機嫌だった。
「面白いじゃん! ロジカルだけど、ちゃんとウチの会社のカルチャーも理解してくれてる! よし、それで進めてくれ!」
社長の快活な承認の声に、俺は安堵の息を漏らす。隣に座る月島さんも、いつもは鉄仮面のようなその表情を、ほんの少しだけ緩めているのが分かった。
「湊くん、よくやった。月島さんのビジョンを、見事に言語化してみせたな」
高橋部長も、満足げにそう言って俺の肩を軽く叩いてくれた。大きな山場を一つ越え、会議室に安堵のため息が広がったその時だった。
「やりましたねーっ! 月島さん! 湊さん! この勢いで、プロジェクトメンバー全員で打ち上げに行きましょうよ! ぱーっと!」
声を上げたのは、もちろん、人事部の田中純さんだ。彼女のこういう、場の空気を読んで盛り上げる能力は、ある意味天才的だと思う。
「いいね、それ! やろうやろう! ウチで店セッティングするよ!」
社長も即座に乗り気になり、高橋部長も「ぜひ。親睦を深める、またとない良い機会ですからな」とにこやかに賛成した。こうして、俺の意志とは全く関係のないところで、オンシャとヘイシャの懇親会が、とんとん拍子に決まってしまったのだった。
◆
そして数週間後。打ち上げの会場となったのは、お洒落なダイニングバーの個室だった。
双方の会社のメンバー、総勢20名ほどが集まり、五十嵐社長の乾杯の音頭で、賑やかな宴が始まった。今後の取引拡大を狙っているのか、こちらも部長だけでなく、更に上の本部長と取締役が来ている始末。
双方の偉い人が端に固まってしまい、俺と月島さんは長いテーブルのちょうど対角線上、最も遠い席に座ることになってしまった。
歳の離れた人達に囲まれた月島さんは、その心中を悟らせないような無表情でそこにいた。たまに頷いたり愛想笑いを浮かべてはいるが『これも仕事』という心の声が聞こえてくるようだ。
騒がしい喧騒の中、俺は、何度か彼女と目が合った。
グラスを口に運んだ、ふとした瞬間。周囲の笑い声に、つられて顔を上げた、その一瞬。
目が合うたびに、俺たちは、まるで共犯者のように、一瞬だけ時が止まったような感覚に陥る。そして、すぐに、どちらからともなく、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。そのたびに、俺の心臓は、打ち上げのアルコールとは違う理由で、小さく、しかし確かに、跳ねるのだった。
「あ、でぇ〜湊さぁ〜ん。最近どうなんですか〜?」
酔っ払った田中さんがニヤニヤしながら尋ねてきた。
「なっ……何がですか?」
「会議中、たまーに月島さんとアイコンタクトしてますよね〜? あれってどういう意味なんですか〜?」
「と、特に意味はないですけど……」
「そうですかそうですぁ……あ、そういえばこの前の街コンは急遽なのにご参加ありがとうございました。どうでした?」
「いや……そっちも特に何も。月島さんと肉を食べて帰ったくらいです。一応運営から連絡先は来たけど……」
俺がそう言うと田中さんは「ええっ!? 月島さんの連絡先が来たんですか!?」と驚いた。
「そうですけど、どうしました……?」
「月島さんが『気になる人がいて連絡先を交換した』って言ってたんですけど……えっ、じゃあそれって湊さんってことですか?」
しまった! 田中さんに情報を渡したら月島さんの証言と突き合わせて検証されてしまう!
「あっ、いや……べ、別の人のことじゃないですかねぇ……あは……あはは……」
気になる人!? いや、田中さんが盛っている可能性もあるな……
◆
結局、約二時間半の宴の間、俺と彼女が直接言葉を交わすことは、一度もなかった。
五十嵐社長とうちの偉い人たちは個別に二次会へ向かっていった。接待オブ接待。こういうダルい事は偉い人に任せよう、と思う。
他の人達もまだ店の前に溜まっているが、月島さんの姿はない。偉い人の二次会に向かうタクシーには乗っていなかったのでさっさと帰ったんだろう。
俺は「お先に失礼します」と言って駅に向かってゆっくりと歩き始める。
結局、月島さんとは話せなかったな……。
遠くから見る彼女は、やっぱりすごくて、綺麗で、そして、少しだけ……遠い存在に感じられた。
そんな、少しだけ感傷的な気分で、交差点の赤信号で立ち止まっていた、その時だった。
後ろから、聞き慣れない、しかし、どこかで聞き覚えのある、妙に間延びした、甘い声が聞こえてきた。
「みーなーとーさーん」
俺は、ハッとして振り返った。
そこに立っていたのは、月島さんだった。頬をほんのりと赤く染め、その大きな瞳は、少しとろんとしていて、焦点が合っていないように見える。普段の彼女からは想像もつかない、かなり酔っているであろうその姿に、俺は一瞬、言葉を失った。
「月島さん!? だ、大丈夫!?」
俺が心配して駆け寄ると、彼女は、ふらりとした足取りで一歩俺に近づき、そして、俺のジャケットの袖を、むんずと、しかし子供のような力なさで掴んだ。
「……湊さん、捕まえた」
その声は、完全に、コインランドリーで聞く、いつもの彼女の声だった。
「二次会行かないとか、許さないから」
「え、でも俺は、もう帰ろうと……月島さんも帰ったと思ってて……」
「いいから、行くよ。……私と、サシで」
彼女は、俺の袖を掴んだまま、潤んだ瞳で、じっと俺の顔を見上げてくる。
「今日の打ち上げ、ぜんっぜん、湊さんと話せなかったじゃん。……つまんなかった。行こーよー! みーなーとーさーん!」
最後の方は、少し拗ねたような、そして、甘えたような声で、俺の耳に届いた。
その瞬間、俺の中の、冷静なコンサルタントとしての思考回路は、完全に焼き切れた。
なんだ、この……破壊力は。
会社での、誰よりもプロフェッショナルな副社長の顔。コインランドリーでの、理知的でミステリアスな読書家の顔。そして今、俺の目の前には、酔っ払って、少しだけ寂しさを滲ませて、俺に絡んでくる、ただの女の子がいる。
そのあまりのギャップに、俺はもう抵抗するなんていう選択肢を、持ち合わせていなかった。
「……わかったよ。わかったから。どこに行く?」
俺が、降参するようにそう言うと、月島さんは、ぱあっと、花が咲くように表情を明るくした。
「ん。こっち」
「あてがあるの?」
「や、ないよ。家の方に向かって歩きながら、気になったお店に入る。居酒屋じゃなくても、ラーメン屋でもいいし、チェーンの牛丼屋だって構わない」
「そんな二次会ある!?」
「や、だから家の方角が同じ人じゃないとできないんだよね」
彼女は、俺の袖を掴んでいた手を、今度は、俺の腕に絡めるように持ち替えた。そして、さっきまでのふらついた足取りが嘘のように、意外としっかりとした足取りで、俺を引っ張るように歩き出す。
腕に伝わる、彼女の小さな体の熱。鼻先をかすめる、甘いアルコールと、彼女自身の匂い。
俺は、なすがままに彼女に腕を引かれながら、これからどこに連れて行かれるのか、一体何を話すことになるのか、全く予想もつかない「二次会」へと、足を踏み出した。
期待と、不安と、そして、どうしようもない高揚感で、胸がいっぱいだった。