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TechFrontierの新人事制度プロジェクトは、まだまだ道半ば。その日も、俺たちは会議室に缶詰になり、各チームの代表者達とチーム設計や評価制度、運用フローについて調整を続けていた。
会議が佳境に差し掛かったところで、田中さんが画面を投影しようとHDMIケーブルを探し始めた。
俺の正面に座っている月島さんが、すっと手を伸ばして田中さんにケーブルの先端を手渡す。
「田中さん、はい、これ」
その場にいた田中純さんが、感心したような、申し訳なさそうな、複雑な声を上げた。
「月島さん、すみません……助かります」
「ん。じゃ、続けよっか」
月島さんは、表情一つ変えずにそう答えると、すぐに議論の本筋へと意識を戻した。俺は、その一連の流れを横目で見ながら、田中さんの口にした「すみません」という言葉に、ふと、ほんの少しだけ引っかかりを覚えていた。
会議は無事に終わり、参加者たちがぞろぞろと会議室を出ていく。PCをバッグにしまっている最中、片付けを手伝っていた月島さんが、余った資料を一式持ってきてくれた。
「湊さん、残った資料ってどうします? こっちで処分しちゃっていい?」
自然でさりげない気遣い。それは、会社での「月島副社長」というよりは、コインランドリーで時折見せる、親密な「月島さん」のそれに近かった。
俺は、その距離感に、つい油断してしまったのかもしれない。
「あ、うん。ありがと――」
そこまで言って、ハッとした。まずい。いつものコインランドリーでのタメ口が、うっかり顔を出してしまった。
「……あ、ありがとうございます、月島さん! 助かります!」
俺は、慌てて敬語に上書き修正し、深々と頭を下げた。だが、時すでに遅し。俺の視界の端で、まだ会議室に残っていた田中純さんが、ニヤリと、何か面白いバグでも見つけたかのように笑っているのが見えた。
終わった……。1時間もしないうちに、また何か新しい、突拍子もない噂が社内ネットワークを駆け巡るに違いない。
月島さんは、そんな俺の内心の動揺などどこ吹く風といった様子。会議室の出入り口に向かうその背中が、心なしか少しだけ、楽しそうに揺れているように見えたのは、きっと気のせいだろう。
俺は、これ以上ボロが出ないうちにと、そそくさとTechFrontierのオフィスを後にした。
◆
そして、その日の深夜。少しだけ気まずい気持ちを抱えながら、俺はいつものコインランドリーのドアを開けた。月島さんは、すでにいつもの席で、静かに本を読んでいた。
俺は、音を立てないように隣に座り、自分の洗濯機を回す。しばらくは、お互い、それぞれの読書に集中し、店内には静かな時間が流れていた。
沈黙を破ったのは、意外にも月島さんの方だった。
「ね、湊さん」
本から顔を上げずに、彼女はぽつりと言った。
「今日の会議の後、田中さんに言われたんだ。『湊さんって慣れるとタメ口になるタイプなんですかね? それとも、タメ口がついうっかり出ちゃう理由があったとか?』だってさ」
「月島さんもそうだし、田中さんもちゃっかりタメ口じゃん」
「確かに……や、そこはいいんだけどさ。相変わらず、湊さんは元カレという設定が続いてる。親しげに『ありがと』なんて言っちゃうから。ふふっ……油断しすぎ」
月島さんは怒っているわけではなく、それもまた楽しいハプニングだと言いたげににやりと笑う。
「……あー……ごめん……会議が終わって気が抜けてたよ……」
「別に、謝んなくてもいいけど」
「けど月島さんもだったよ!? 『処分していい?』って聞かれたから、つい、ね」
「ふふっ……私も油断してた。でもさ、その時、思ったんだよね」
月島さんは、そこでパタンと本を閉じて、俺の方に向き直った。
「『ごめん』と『ありがとう』って、すごく似てて、でも、全然違うよなって」
「……というと?」
「日本人はさ、『すみません』っていう言葉で、その両方を済ませがちじゃない? 会議中の田中さんみたいに。あれって、どうなんだろうね。『すみません』は、感謝と謝罪、両方のリクエストを受け付けちゃう、すごい汎用的な関数だけど、戻り値が曖昧すぎる。受け取った側は、それが感謝なのか、謝罪なのか、文脈から判断しなきゃいけない」
彼女の話は、いつものように独特の視点だったが、不思議とすんなり頭に入ってきた。
「確かに……。感謝の気持ちを伝えたいのに、『すみません』って言われると、なんだか相手に負い目を感じさせてるみたいで、ちょっとモヤっとする時、あるかもな」
「でしょ? 『すみません』は、例外をとりあえずキャッチする機能みたいなものなんだよ。本来なら、エラーの種類……つまり、感謝なのか、謝罪なのかに応じて、ちゃんと個別の例外処理を実装すべきなのに」
彼女は、まるでシステムの仕様について語るように、熱っぽく続けた。その大きな瞳が、まっすぐに俺を見つめている。
「だからさ」
月島さんは、ふと、少しだけ声のトーンを落とした。
「ちゃんと『ありがとう』って言える人って、いいよね」
その言葉は、まるでスローモーションのように、俺の耳に届いた。
「自分の感情を、回りくどい言葉でラッピングしないで、ストレートに、ポジティブな言葉として出力できる人。それって、結構、勇気がいることだと思うから」
俺は、言葉を失っていた。彼女の言葉が、まるで、あの会議の後の、俺の不器かな「ありがと……」を、肯定してくれているかのように感じられたからだ。
「……俺も、そう思う。月島さんみたいに、ちゃんと言葉にしてくれると、……嬉しいよ」
俺が、ようやく絞り出した言葉に、月島さんは、少しだけ驚いたような顔をして、そして、すぐにぷいっとそっぽを向いた。その耳が、心なしか赤くなっているように見える。
「……別に、湊さんのために言ったわけじゃないし。一般的な話」
その、分かりやすい照れ隠しが、なんだか無性に愛おしくて、俺は思わず笑ってしまった。
「そうだね。じゃあ、俺も、これからはもっと『ありがとう』っていう言葉を、積極的に使っていくことにするよ。月島さんに対しては、特にね」
「……勝手にすれば」
彼女は、そうぶっきらぼうに呟くと、再び自分の本を開いた。だが、その口元が、ほんの少しだけ緩んでいるのを、俺は見逃さなかった。
◆
洗濯が終わり、俺たちはコインランドリーを後にする。外の空気は、少しだけひんやりとしていた。
「じゃあ、また。……湊さん。おやすみ」
別れ際に、月島さんが小さな声で言った。
「うん。また来週。……月島さん。ありがとう。特に何にってわけじゃないけれど」
「ふふっ……雑感謝だ。助かる」
「オタク風の感謝だ」
「多謝!」
「深い感謝だね!?」
「トンクス」
「ねらー感謝……きゅっ、急にどうしたの? 別れ際にすごい手数でボケてくるじゃん」
「……遅延行為してるだけだよ」
「サッカーだとブーイングされるやつ」
「ま……アディショナルタイムはまた今度かな。今日は遅いし。いつも付き合ってくれてありがと」
月島さんはニッと微笑んで後ろ手に荷物を持ち、プランプランと袋を揺らしながら自宅の方へ向かっていった。




