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深夜、コインランドリーのドアを開けた。洗濯物が溜まっていたのはもちろん事実だが、それ以上に月島さんが現れることを、心のどこかで強く期待していた。
今夜は俺が先だった。いつもの奥の席に腰を下ろし、持参した小説のページをめくる。だが、活字はなかなか頭に入ってこない。洗濯機の低い回転音を聞きながら、無意識のうちにドアの方を何度も見てしまっていた。
どれくらい時間が経っただろうか。諦めかけて、本の世界に意識を集中させようとした、その時だった。
ウィーン、と間の抜けた音を立てて、自動ドアが開いた。そこに立っていたのは、やはり月島さんだった。だが、いつもの彼女とは、明らかに様子が違った。その足取りは、どこか、ふらりとしていて、力がない。
「月島さん、こんばんは」
俺が声をかけると、彼女はゆっくりとこちらを向き、力なく片手を上げた。
「……ん。やっほ」
その声は、いつもよりずっと小さく、かすれている。彼女は、洗濯物を抱えるのも億劫そうに、洗濯機にそれを放り込むと、まるで電池が切れたロボットのように、俺の隣の席に、どさりと腰を下ろした。
「うぃ〜……あぁ……」
月島さんが深く息を吐きだす。
「すごく疲れてるみたいだけど……大丈夫?」
その顔には、隠しようのない疲労の色が濃く浮かんでいた。目の下には深いクマが刻まれているように見える。
鮮やかなピンク色の髪も、心なしか今日は少しだけ、その彩度を失っているように感じられた。
「……ダメだね、今日は。完全に、シャットダウン寸前。新人の子が間違って本番環境でデータベース壊しちゃってサービスが止まっちゃって。復旧作業と並行して広報と対外発表の調整してたりで大変だったぁ……使う脳みそ違いすぎるんだもん」
「なるほど……おつかれ。髪の毛、ちょっとくすんでるかも」
「や、疲労度によって明度が変わる仕組みなんだよね」
「彩度じゃなくて?」
「や、彩度だ、彩度。ダメだね、今日は」
そう言って、彼女は背もたれに深く体を預け、大きなため息をついた。その姿は、会社で見せる凛とした「月島副社長」とはかけ離れている。
彼女の疲れをこれ以上増幅させないように、かけるべき言葉を探した。
「仕事終わりってさ、何も考えたくないけど、完全に無音だと逆に不安になったりしない?」
俺はできるだけ穏やかな声で、そう切り出した。
「……わかる。すごい、わかる。だから、YouTubeとかで、暖炉で火が燃えてるだけの映像とか、川が流れてるだけの映像とか、延々見ちゃうんだよね。意味のない情報が、逆に安心する」
「ははっ、俺もだよ。俺の場合は、工場のベルトコンベアの動画かな。同じ製品が、延々と流れていくだけのやつ。あれ見てると、なんか、自分の悩みとかどうでもよくなってくる」
「……湊さん、意外とマニアックな趣味をしてるんだね。……私は、猫がひたすらパンこねてる動画とかも見るかな。あれは、人類が生み出した最高の発明だと思う」
「猫がパンこねる動画……?」
ダメだこの人、完全に意味のわからないことを口走っている。
とりとめのない、本当に他愛のない会話を、俺たちはぽつりぽつりと交わした。俺が主に話し、月島さんは、時折、短い言葉で相槌を打つ。その声は、だんだんと、小さく、そして曖昧になっていった。
「眠い時って、なんか、世界の解像度がぐっと下がる感じしない? 全部の輪郭がぼやけて、色も褪せて、どうでもいいことだけが、やけにはっきり見えたりして……」
俺がそう言うと、彼女は、ほとんど吐息のような声で答えた。
「……うん……」
「昨日見た夢の話とかも、まさにそうでさ。起きた瞬間は、すごく壮大なSF映画みたいなストーリーだったはずなのに、人に話そうとすると、全然ディテールを思い出せなくて……」
「……うん……」
月島さんの返事が、単調な肯定だけになっていることに、俺は気づいていた。だが、その声は、不思議と俺の心を落ち着かせた。
彼女が、俺の言葉を聞きながら、少しずつ、その纏っていた緊張の糸を解きほぐしているのが、伝わってくるようだった。だから、俺は、彼女を眠りの世界へと誘う子守唄のように、一人で話し続けた。
「……結局、思い出せたのは、ピンク色の髪の猫が、宇宙船の中で、すごい勢いでキーボードを叩いてるっていう、意味不明なシーンだけだったんだけどさ。あれって、やっぱり月島さんの影響なのかな……」
俺が、そこまで言った時だった。
ふと、右肩に、柔らかな、そして確かな重みを感じた。
見ると、月島さんが、俺の肩に、すっぽりと頭を預けて、すうすうと穏やかな寝息を立てていた。
肩にかかる、彼女の頭の重み。鼻先をかすめる、彼女の髪から香る、甘くて、少しだけミントのような匂い。耳元で聞こえる、か細いけれど、規則正しい寝息。
その全てが、俺の五感を麻痺させ、心臓を、これまでに経験したことのないくらい、激しく、そして不規則に高鳴らせた。
起こすべきか? でも、こんなに安心しきった顔で眠っている彼女を、起こすなんてこと、できるはずがない。
かといって、このままの体勢でいるのか? 彼女が起きた時、どんな顔をするだろうか。俺は、どんな顔をすればいい?
頭の中では、様々な思考が、エラーコードのように点滅している。だが、俺の体は、まるで金縛りにでもあったかのように、指一本、動かすことができなかった。
ただ、一つだけ、はっきりと分かったことがある。
彼女の重みは、決して不快ではなかった。むしろ、その逆だ。彼女が、俺を信頼して、こんなにも無防備な姿を晒してくれている。その事実が、どうしようもなく、俺の胸を温かく満たしていた。
俺は、動かないことを決意した。彼女が自然に目を覚ますまで、このままでいよう。彼女の、この束の間の休息を守る、静かな壁になってあげよう。
俺は、自分の肩で眠る月島さんの重みを感じながら、ゆっくりと回転を続ける洗濯機のドラムを、ぼんやりと眺めていた。
会社で見せる、誰よりも優秀で、誰よりも強い「月島副社長」の顔。
そして今、俺の隣で、まるで子供のように安心して眠る、ただの「月島栞」の顔。
そのギャップがたまらず心をくすぐる。彼女が起きるまで、この静かで、穏やかで、そして少しだけ心臓に悪い時間が、少しでも長く続いてほしい、なんてことを柄にもなく願いながら、俺は、彼女の寝息という、世界で一番優しいBGMに、静かに耳を傾けていた。
◆
月島さんが寝て数十分後、俺の回していた洗濯機が乾燥を終えた事をアラーム音で教えてくれた。
洗濯機に空きはあるものの、早く取り出しをしないと妙に落ち着かずそわそわしていると、それが身体の振動となって月島さんに伝わったらしく、「ん……」と月島さんが喉を鳴らした。
「んん……ごめん、寝てた」
月島さんは脱力して俺にもたれかかったまま話す。
「ううん。俺も寝てた」
「ふふっ……待ち合わせで今来たとこの亜種だ」
「今来たとこ兄さん、元気してるかな」
「ふはっ……じゃあ、俺も寝てたは次男?」
「晴れてよかったね姉さんもいるから3人目かな。あ、私達はもうお腹いっぱいだからお祖母さんもいそう」
「ふふっ……気遣い大家族………うあぁ……立ち上がれない……もう少しこれで。迷惑かな?」
「そんな事ないよ姉さん。あ、田中さんが外から見てるよ」
月島さんはビクっと身体を震わせ一人で起き上がりキョロキョロと辺りを見渡した。
「……いないじゃん」
頬を膨らませて可愛らしく怒り、また俺にもたれかかって肩に頭を載せてきた。
「月島さん、一回起きれた実績があるんだから……」
「ん。一回キレる実績も解除しとく?」
「え、遠慮しておきます……」
「もう少しだけ私の枕。そこで枕っぽくしてて」
「じゃ、先に洗濯物だけ片付けてくるよ」
月島さんに「ん」と許可をもらい、洗濯物を片付けに向かう。急いで自分の洗濯物を取り出し、袋に詰めて椅子に戻る。
月島さんは待ってましたとばかりに俺にもたれかかってきた。
「待った?」
「や、今来たとこ姉さん」
月島さんはそう言ってすぐにすぅすぅと寝息を立て始めた。




