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週末の街コンは、その後の私の静的な日常に予期せぬバグを大量に発生させていた。
湊啓一郎。あの人のことを考えると、私の思考ルーチンは、どうも普段通りに機能しない。
街コンの投票用紙に、なぜ私は彼の名前を書いたのだろうか。論理的な理由は見当たらない。
会場にいた男性の中で、最も会話が成立し、かつ、最も不快指数が低かったから? それもある。だが、それだけじゃない。不器用で、真面目で、時々妙に核心を突いてくる。
打ち合わせ中もコードレビュー中も、ふとした時に心に現れる違和感の正体を探してしまう。心の肩こり、『心こり』だ。恋ではない、はず。
そんな自己問答を繰り返していた月曜日の昼過ぎ。私のデスクに、嵐のような勢いで接近してくる人物がいた。田中さんだ。
「月島さん! 先日の街コン参加、ありがとうございました! いい感じの人はいました?」
「……まあまあ、かな。一応、投票でマッチングして連絡先はゲットしたし」
私は、ポーカーフェイスを維持したまま、少しだけ彼女をからかうつもりでそう答えた。大した意味はない。ただの、気まぐれ。
だが、彼女の反応は、私の予想を遥かに超えていた。
「えええええええええっ!? ほ、本当ですかぁっ!?」
彼女の絶叫が、静かだったオフィスに木霊する。周囲のエンジニアたちが、何事かと一斉にこちらを見た。
「ちょ、田中さん、声大きいって……!」
「だ、だって、あの月島さんが、たった一回の街コンで……! いや、確かにモテるだろうとは思ってましたけど月島さんのハードルが高そうで……けど、やりましたね! やりましたよ、副社長! その調子で、あの湊さんっていう元カレのことは、綺麗さっぱり忘れちゃいましょう! 新しい恋にバージョンアップですよ!」
……まだその噂を信じてたのか。しかも、バージョンアップってなんなんだ。まだローンチもしていないというのに。
私は、内心で深いため息をつきながらも、この勘違いを訂正する気力も、その必要性も感じなかった。むしろ、この状況を利用して、ずっと分からなかった一つの疑問を解決する方が、よっぽど建設的だ。
「……で、田中さん」
私は、真面目な顔で彼女に向き直った。
「こういう、連絡先を知った時って、まず何を連絡すればいいの? その……最初のハンドシェイクというか、人間関係のプロトコルが、いまいちよく分かんないんだけど」
私の問いに、今度は田中純が、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「え……? えーっと……プ、プロトコル、ですか……?」
「うん。いきなり本題に入るのはマナー違反でしょ? かといって、当たり障りのない挨拶だけじゃ、ノイズとして処理される可能性もある。最適な最初の一手は、何?」
私のあまりにも真剣な問いかけに、田中さんは数秒間フリーズした後、ようやく再起動したようだった。
「うーん……食事じゃないですか? まずは食事に誘いましょう!」
「食事……。なるほど。了解。参考にする」
「は、はい! 健闘を祈ります!」
田中さんは、なぜか敬礼をすると、まだ少し混乱した様子で自分の席に戻っていった。
一人になり、私はプライベート用スマホのメッセージアプリを開く。
食事、か。夕飯はいつも一人だし、湊さんも一人だろうし誘ってみるか。
断られたら? ……まあ、その時はその時だ。エラーが出たら、原因を分析して、次のアプローチを考えればいい。
私は、意を決してチャットアプリを起動した。そして、余計な装飾も、回りくどい前置きも全部削ぎ落として、ただ一言、打ち込む。
『食事に行こう』
送信ボタンを押す。指先が、ほんの少しだけ震えた気がした。きっと肩が凝っているせいだ。
◆
俺の頭の中は、週末の出来事でいっぱいだった。
街コンでの月島さんとのやり取り。そして、彼女も俺の名前を書いたという事実。そこから導き出される淡い期待と、いや、自意識過剰も甚だしい、と自分を戒める理性の声が、無限ループのようにせめぎ合っていた。
仕事に集中しよう。そう思ってPCに向き直った瞬間、ポケットの中のスマホが、控えめにぶるっと震えた。
社内の誰かからの業務連絡だろう。そう思って、気のない様子で画面を確認した俺は、一瞬、呼吸が止まった。
ディスプレイに表示されていたのは、たった一言。
『湊さん、食事に行こう』
送信者は、月島栞。
……え?
俺の頭の中で、様々な疑問符と感嘆符が、エラーコードのように点滅する。これは、いわゆる、世間一般で言うところの「デート」の誘いというやつなのだろうか。それとも、何か別の、俺の理解を超えた目的があるのだろうか。
彼女のことだ。もしかしたら、「食事をしながら、霧島譲の最新作のプロットの脆弱性について、徹底的に議論したい」とか、そういうことなのかもしれない。
だが、どんな可能性をシミュレーションしてみても、俺が出すべき答えは、一つしかなかった。
俺は、震える指で、返信を打ち込む。
『了解。いつにする?』
送信して数秒後。すぐに返事が来た。
『今夜』
……今夜!?
あまりの展開の速さに、俺は再びフリーズした。
その日の夜、仕事を終え、俺は、どこか現実感のないまま、指定された集合場所へと向かった。その場所は、お洒落なレストランでも、夜景の見えるバーでもなく――いつもの、コインランドリーの前だった。時間もいつも通りの深夜。
月島さんは、すでに到着していて、いつものラフなパーカー姿で、スマホをいじりながら俺を待っていた。その姿を見ると、なぜかホッとする。
「……お疲れ、月島さん」
「ん。湊さんもお疲れ」
彼女は、顔を上げると、いつもと変わらない、少し気怠そうな、でもどこか楽しそうな表情で俺を見た。
「湊さん、急に誘って悪かったね。でも、善は急げって言うし」
「急がば回れとも言うよ」
「や、急がばのがばって何なんだろうね」
「あれじゃない? ストレスの緩和に作用するやつ」
「や、それはギャバだね」
「あぁ……あれだよ、あれ。不倫に使われがちなビジネスホテル」
「や、アパだね」
二人でにやりと笑い、並んで立つ。
「いや、それで、その……食事って、どこに行くの? 何か、予約とかしてる?」
俺は、少しだけ緊張しながら尋ねた。一応、ジャケットは羽織ってきたが、月島さんの格好がラフすぎる。
俺の問いに、月島さんは、きょとんとした顔で首を傾げた。
「え? 予約? なんで? や、食事は食事だけど」
「え、あ、いや、いっ、一応ね!? まぁ俺も手ぶらで来ちゃったけどさ!」
「ん。この辺で、深夜までやってて、めちゃくちゃ美味しいラーメン屋、知ってるんだよね。天絶」
「天下絶品?」
「ん。そう。こってりがたまらん」
チェーンのラーメン屋。
その、あまりにも予想外で、そして、あまりにも彼女らしい提案に、俺は、思わず噴き出してしまった。
「ラーメン屋、か。いいね、すごくいいと思う」
「でしょ? じゃ、決まりね。こっち」
そう言って、月島さんは、満足そうに頷くと、さっさと歩き出した。
俺は、彼女の後ろ姿を追いかけながら、これが、俺たちの最初の「デート」なのだとしたら、深夜のラーメン屋というのは、いかにも俺たちらしくて、悪くないな、と思った。
月島さんに連れられて歩く、午前2時過ぎの街は、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っていた。時折、走り去るタクシーのエンジン音と、俺たちの靴が湿ったアスファルトを蹴る音だけが、やけにクリアに聞こえる。
「……ラーメンってさ、なんで深夜に食べると、あんなに美味しく感じるんだろうね」
沈黙が少しだけ気まずくて、俺はそんな、ありきたりな疑問を口にした。
「んー……。それは、背徳感という名の、最強のスパイスが加わるからじゃない?」
月島さんは、前を向いたまま、こともなげにそう答えた。
「背徳感、か。なるほど。健康に悪い、太る、翌朝胃がもたれる……そういう罪悪感が、逆に味覚をバグらせて、旨味を増幅させる、みたいな?」
「そういうこと。人間って、禁止されてるものほど、魅力的に感じるように設計されてるからね。深夜のラーメンは、いわば、システムが推奨しない禁断の裏コマンドみたいなものかも。そういう意味じゃ不倫とメカニズムは同じだよね」
「じゃ、アパでラーメンを食べるのが一番美味しい、と」
「ふふっ……不倫相手とね」
俺が苦笑すると、彼女は「ま、誰と食べるかは大事かも」と小さく笑った。
そんな、とりとめのない会話を交わしているうちに、月島さんは「着いた。ここ」と言って、大通り沿いの店舗を指差して立ち止まる。
「こんなところにあったんだ」
「……ん。遅くまでやってるからよくお世話になってる」
二人でテーブル席に座り、ラーメンを注文してしばらく待つことに。
「湊さん、今日も遅かったの? ビジネスカジュアルな日もあるんだね。いつもスーツだったから」
そりゃそこそこの店に行ける服装だしな!?
「あは……あはは……ま、まぁお客さんで使い分けてるんだ。御社だと固い方が専門家っぽくて良さそうだし、逆に銀行とかの固すぎるところは逆に柔らかくしていってる時もあるかな」
「へぇ……」
ラーメンを待つ間、俺たちの間には、会話のない、でも決して気まずくはない、心地よい沈黙が流れていた。彼女は、カウンターの上に置かれた、年季の入ったコショウの瓶を、まるで珍しい工芸品でも眺めるかのように、じっと見つめている。俺は、そんな彼女の横顔を、また、盗み見てしまった。
ふと、彼女が視線に気づいたのか、こちらを向く。目が合って、俺は慌てて顔を逸らした。
「ね、湊さん。教えてほしいことがある」
「何?」
「『食事に誘え』って言われたらさ、これって食事に誘ったことになる?」
「んー……どういう文脈かにもよるけど……なんとなく大人の男女における文脈と仮定するね。とすると、多分、落ち着いて会話のできる静かな場所、かつ気まずくならない程度にお酒なんかも飲めたりする場所で食事をするのが王道かもね」
「食事ってタイトルなのに?」
「食事ってタイトルなのに、ね。多分、飯より話すことが重要視されてるまである」
「あっ……あー……そういうことか……」
月島さんは長年解消できなかった原因不明のバグの挙動を解き明かした時のように目を見開き、自分の無知を恥じるように顔を赤くした。
「ま、ビールはあるし、人は少ないから天絶も定義には当てはまるよ」
「なるほどなるほど……けど、湊さんと落ち着いて話せる場所、もうあるよね」
「コインランドリー?」
「ん。あそこに酒とお菓子を持ち込んでゆっくり洗濯が終わるのを待つのが最適解と思料する」
「評価パラメータに『本来の用途との適合性』って入れてくれる!?」
「……天絶が最適解となった」
そうこうしているとラーメンが到着。月島さんはドロドロのスープから引き上げた麺を嬉しそうに見つめている。
「ね、湊さん。また今度食事に行こうよ」
「今日のも食事だよ」
「や、セックスに足る相手かどうかを見極めるって意味での食事」
「月島さん!?」
俺が動揺して顔を上げると月島さんはクックっと笑った。からかってたな。
「や、冗談だよ。けど……うん、一理あるね。違和感の正体を探すための旅としての食事だよ」
「なら、旅のお供も必要だね」
「ん。そう。クラフトビールとかワインとか、そういうやつでしょ?」
「飲み込みが早い……」
月島さんは照れ隠しでボケているのか「よく噛んで食べるんだよ」と言ってラーメンを啜った。