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 今週もようやく金曜日が終わった。いや、正確には土曜日の午前1時を回っているから、もう週末か。


 カレンダー上の区切りなんて、人間が勝手に決めた約束事みたいなものだ。


 俺の仕事――人事コンサルタントというのは、言ってしまえば他人の会社の「人間関係」という名の迷宮を、地図もなしに歩き回るようなもの。


 その迷宮は、完全週休二日制などという概念を容易く飲み込んでしまう時すらある。今日は飲み会で遅くなっただけではあるが。


「はぁ……疲れた……」


 思わず漏れた声は、深夜の静寂には不釣り合いなほど大きなため息となって、ワンルームの部屋に虚しく響いた。


 熱いシャワーを浴びて、少しだけ人間らしさを取り戻す。


 さて、と。俺のささやかな週末の儀式を始めるとしよう。


 コインランドリー。それが俺の週末の始まりの場所であり、一種の聖域だった。


 自宅にも洗濯機はある。でも、なんて言うんだろうか、あの巨大なドラムが静かに回転し続ける様を眺めていると、頭の中で絡まった思考の糸が少しずつ解けていくような気がするのだ。


 洗濯物が綺麗になる過程と、自分の思考が整理されていく過程が、どこかシンクロするような、そんな感覚。


 乾燥まで終わらせれば、あとは寝るだけ。その手軽さも気に入っていた。


 いつものように、一週間分の洗濯物を大きなバッグに詰め込み、読みかけのミステリー小説を小脇に抱えて、俺は深夜の街に出た。


 ひんやりとした夜気が、火照った頭を冷やしてくれる。


 見慣れたコインランドリーの、少し色褪せた看板の灯りが、まるで灯台の光のように俺を誘っていた。


 店内には先客はいなかった。それもまた、この時間帯を選ぶ理由の一つだ。


 自分だけの空間で、誰にも邪魔されずに洗濯と読書に没頭できる。


 俺は一番奥の大型洗濯乾燥機に洗濯物を放り込み、小銭を投入した。ここの洗濯機は洗剤も柔軟剤も自動投入なので、あとはコースを選んでスタートボタンを押すだけだ。


 機械が短い起動音を発すると、ガラスの向こうで俺の日常の残滓がゆっくりと回り始めた。


 それを確認すると、俺は備え付けの硬いプラスチック椅子に腰掛け、持参した小説のページを開いた。


 今読んでいるのは、霧島譲という作家のデビュー作だ。


 緻密な伏線と、読者の予想を裏切る鮮やかなトリックを得意とする作家で、俺は彼の作品の熱心なファンだった。


 物語の主人公が、まさに絶体絶命のピンチに陥っている。どうやってこの状況を切り抜けるのか……。


 集中していたのだろう。どれくらいの時間が経ったのか。


 ふと顔を上げると、入口のドアが開き、新しい客が入ってきたところだった。


 ちらりと視線を送る。


 こんな時間にコインランドリーを利用するのは、俺のようなワーカホリックか、あるいは何か特別な事情を抱えた人くらいだろうと、勝手に思っていた。


 入ってきたのは、一人の女性だった。


 まず目に飛び込んできたのは、その髪の色。鮮やかなピンク色。それも、淡い桜色とかではなく、もっとこう、ビビッドな、主張の強いピンクだ。ショートボブの髪が、彼女が歩くたびに軽く揺れている。


 服装は、オーバーサイズの白いTシャツに、カーキ色のカーゴパンツ。足元はくたびれたスニーカー。


 その服装に無頓着なさまが、妙に彼女の気怠そうな雰囲気に合っているように見えた。


 年齢は……二十代半ばくらいだろうか。というかそんな色々な要素を帳消しにするくらいの美女でもあった。カジュアルなファッションも奇抜な髪色も似合ってしまうのはそれが理由なんだろう。


 全体的に色素が薄そうで、そのピンク色の髪が余計に際立って見えた。


 彼女は俺の存在には軽く会釈したように見えたが、すぐに店内を見渡し、壁際の旧式な両替機に向かった。


 しかし、何度か財布を覗き込み、カチャカチャと小銭を漁る音が聞こえた後、困ったように小さく首を傾げている。どうやら、両替に必要な千円札がないか、あるいは洗濯機に使える百円玉が足りないようだった。


(困っているな……)


 こういう時、声をかけるべきか、かけざるべきか、それが問題だ。


 だが、見知らぬ男からいきなり声をかけられるのも、彼女にとっては不審だろう。


 俺は数秒逡巡したが、彼女が諦めたようにため息をついたのを見て、読みかけの本から顔を上げた。


「……あの」


 俺の声に、彼女は少し驚いたようにこちらを振り向いた。


「もしよかったら、両替しましょうか? 百円玉、いくつかありますけど」


 彼女は一瞬きょとんとした顔をしたが、すぐに状況を理解したらしい。


「ん。さんきゅ。助かります」


 彼女はそう言うと、まるで旧知の友人に会ったかのように、軽い足取りでこちらに近づいてきた。手には一万円札が数枚握られている。


「今日に限って財布の中に万札しか入ってなくて。しかもこの両替機、千円札しか受け付けない鬼仕様なんだね。やられた」


 彼女の言葉に内心苦笑した。確かにここの両替機は少し不便だと、以前から思っていた。


「いえいえ。俺もたまに困るんですよね」


「アプリで送金の方がいい? 一万円も両替できないよね?」


「あー……いや、できますよ」


 飲み会の会計で千円札をもらいまくったため、むしろちょうどいい機会でもある。


「できるの!?」


「まぁ……はい」


「……千円札コレクター?」


 女性は申し訳なさそうに尋ねてくる。俺ってそんなに千円札をコレクションしていそうな人に見えるんだろうか。


「そうだとしたら交換はしませんよ。飲み会の会計を取りまとめたからたくさん貰ったんです」


 女性は「なるほどね」と言って無表情なまま頷いて自分の洗濯機へと向かった。


 そして、そこで改めて気づく。彼女はずっとタメ口だ。


 初対面の相手に対する、この一切の壁を感じさせないコミュニケーション。


(距離感バグってないか……? 変な人じゃないよな……?)


 俺の思考回路が、普段とは違う信号を発しているのを感じる。


 彼女は、両替した百円玉で無事に洗濯機を稼働させると、俺と同じように備え付けの椅子に腰を下ろし、バッグから一冊の文庫本を取り出した。


 少し使い込まれたような表紙で、タイトルは俺の位置からでは判読できない。


 彼女は慣れた様子でページを開き、すぐにその世界に入り込んでしまったようだった。


 時折、小さく頷いたり、眉間にわずかに皺を寄せたりしている。


 どんな物語を読んでいるのだろうか。こんな時間にまで熱中するほどに。


 静寂が戻る。


 聞こえるのは、二台の洗濯機が立てる、規則正しい回転音だけ。


 ゴウン、ゴウン、という低い音が、まるで大きな生き物の寝息のように響いている。


 俺は、ちらりと彼女の横顔と、彼女が手にしている本の背表紙を盗み見ようとしたが、何を見ているのかは分からなかった。


 SF小説だろうか、それとも難解な哲学書か。彼女の個性的な髪の色のように、選ぶ本もまたユニークなのだろうか、などと勝手に想像する。


 俺自身、ミステリーやSFといったジャンルを好んで読むだけに、他人が何を読んでいるのかは少し気になる性質だった。


 ふと視線を感じて顔を上げると、一瞬だけ彼女と目が合ったような気がした。


 すぐに彼女は自分の本に目を戻したが、その視線は俺の手元にある霧島譲の文庫本に向けられていたような……いや、気のせいか。


 彼女が霧島譲のファンだなんて、そんな都合の良い偶然があるわけない。


 それにしても、だ。


 非日常的な髪の色と、コインランドリーという日常的な風景。そして、そこで静かに本を読む二人。


 その組み合わせが、妙に俺の心をざわつかせる。


「ね、お兄さん。コインランドリーって少し不思議な空間じゃない?」


 本を脇においてピンク髪の女性が話しかけてきた。


「そう?」


「深夜に明かりがついてるだけでワクワクするのに、そこに一時的に色んな人が集まってる。で、人々の日常が交差して、また離れていく。社会的な立場も、年齢も、性別も、関係なくて、ただ『洗濯をする』という共通の目的を持った人間が、部屋着やすっぴん、家にいるときとさほど変わらない姿で一時的に同じ空間を共有してる。エモくない?」


「それ、どんな店でもそうじゃない? コンビニだってそうだよ」


 彼女はふふふっと笑う。


「そうだけどそれを言っちゃおしまいだよ。趣ってやつ」


「趣ねぇ……」


 もしかしたら、彼女のあのフランクな態度は、この場所の持つ特殊な匿名性から来ているのかもしれない。


 そう思うと、少しだけ納得がいったような、いかないような。


 俺の思考は、また別の袋小路に入り込もうとしていた。


 やはり、今夜はもう読書どころではないらしい。


「ここ、初めて使うの?」


「ん。そう。家の洗濯機が壊れちゃってさ」


「あぁ……それは困るね」


「そうなんだよねー……けど新しいのを買う気にならなくて」


「何か理由があるの?」


「ん。不買運動してる」


「洗濯機でそれは初めて聞いたよ!? そもそも頻繁に買わなくない!?」


「や、まぁ真面目な理由もあって。買い時が分かんないんだよね」


「壊れてるなら今しかなくない!?」


「ううん。今じゃないんだ」


 彼女はくるくると回転する洗濯槽をじっと無表情なまま見つめながらそう言った。


「だってさ、次のモデルがもっと性能いいかも、とか考えたら次のを待ちたくならない? 今は困ってないしなーって思って、ズルズルと行っちゃう」


「なるほどね。でもそれを繰り返してたらこれから一生コインランドリー生活だよ」


「ねー。恋愛と一緒だね」


「同じ土俵に上げられるコインランドリーが可哀想だよ……」


「恋愛リアリティショーと同じくらいのキラーコンテンツだと思うけど。少なくとも私はずっと見ていられる」


 彼女はくるくると回転する洗濯槽をじっと見つめる。すらっとした鼻筋で、彫刻のような横顔こそずっと見ていられるように思った。


「どっ、独特だねぇ……」


「けど、お兄さんも家に戻らずにここにいるってことは、ここが好きなんじゃないの?」


 これは否定できない。洗剤や柔軟剤の匂いに包まれ、機械の規則的な音に囲まれるのが好きだからここにいる。


「まぁ……それはそうかも」


 俺が認めると彼女はふっと微笑んだ。それが今日初めて見た彼女の笑顔。


「恋愛リアリティショーの視聴に費やした時間と、ここで過ごした時間、どっちが長い?」


 彼女がいたずらっぽくにやりと笑って尋ねてきた。


「確実にコインランドリーだね」


「でしょ? あっちは売名目的のインフルエンサーと、炎上でもなんでもいいから注目させるための切り抜き編集で作られた虚像。で、結局その後別れてそうだし。バッドエンド」


「確かに。お洒落な動画編集と音楽で誤魔化してるけど、繁殖相手を探してる様を全世界に配信してるだけだしね」


 何やら、この人とは馬が合う。お互いによく思っていなかったもやもやをぶつけ合い「だよね」と納得して頷いた。


「けどさ、私、ハッピーエンドのコンテンツも知ってるよ」


「そんなのあるの?」


「ん。服がきれいになる」


 彼女はケラケラと笑いながら洗濯機を指差す。俺もつられて笑ってしまった。


 こんな真夜中に、見ず知らずの女性と恋愛リアリティショーの悪口で盛り上がるとは、思ってもみなかった。だが、それもまた、このコインランドリーという非日常空間がもたらした、ささやかな奇跡なのかもしれない。


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