第4話 変わった世界の中で
夢を見ていた。
昔の夢。細部は当然違うけど、でもいつのことか、ここがどこなのか。それだけははっきりとしていた。
小学生の頃に初めて通い始めたピアノ教室。
僕が一番ピアノが楽しかった時だ。
クラスの男子にからかわれたりもした。それでも全然よかった。
僕が鍵盤を押すと音が出る。その音の積み重ねが曲になる。
どんな曲でも弾き方ひとつで印象を変えられる。そんな自由なピアノが本当に大好きだった。
優しい先生にピアノを教わりながら、一生懸命に鍵盤をたたく。指がおぼつかない。練習不足。だけどこの満ち足りた気持ちはなんなのだろう。
「成田君、はやくわたしにも弾かせて」
後ろから女の子の声がする。
本来ならきちんと順番が終わった後に先生の指示で交代する。でもこれは夢だ。
だからなんの疑問にも思わなかった。
僕はすんなりと席を空け、まだ弾いていたかったという未練の視線をピアノに向ける。
こんなに弾いていたかったのに、僕はなんでどいてしまったのだろう。
その理由は簡単だ。
ピアノを弾き始めた女の子。その子の演奏はすぐに僕を魅了する。
ただの練習曲なのにひきつけられるその演奏。
きっと女の子はピアノの神様に祝福されて生まれてきたのだろう。そしてそれを彼女も受け入れた。
その相思相愛にこそ、美しさは宿るのだと思った。
いつまでも聴いていたい。この場から離れることを僕は望まない。
でも少しずつ演奏が、先生と彼女の姿が遠くなっていく。
夢の覚醒が近い。そう思った時にはもう目の前は暗く閉じていく。
だから僕は最後につぶやいた。
高みに行ってしまった彼女にはもう、二度と届かないだろうけど。
「香奈ちゃん上手だね」
完全な闇が視界を覆う。
◇ ◇ ◇
ゆっくりと瞼が開く感覚がした。
起きてすぐ感じたことは、違和感だった。
見えるのは天井の景色。しかしその天井こそ違和感の根源だとすぐに気づく。
視界いっぱいの黄色。おおよそ見たことのない色使いに、僕は何も考えることができずにいた。
殆ど音にならない声が息と一緒に漏れる。そこでさらに生じる疑問。
この声は一体誰の声だ。
体が勝手に跳ね起きた。腕に刺さる注射器の存在に気付くころには、僕は鏡の前に立っていた。
そこに映るのは見たこともない色使いの人間。
そして明らかに自分の顔ではない知らない人間だった。
「ああっ・・・あっ・・・」
何が起こっているのかわからない。これは誰だ。なんでこんな色を僕はしている。
肌は薄紫、唇はそれに少し青みがかった色をしている。毛の色は緑に、そして黒目の色も同様に緑だった。
後ろを振り返る。くすんだ黄色のベッドに床までもが黄色く変色していた。
いや、変色というのは語弊がある。まるで最初から黄色であったかのような。そんな自然な色をしていた。
ただ僕だけが、世の中のすべての配色がおかしくなった世界に取り残された感覚。
「森さん」
くぐもった声の方を振り返ると、一人の人間が立っていた。しかしおおよそ人間と呼べるものなのだろうか。まるっきり僕が鏡で見た自分と同じ配色をしている。
ただ表情は読み取れた。その顔は驚いていた。
「いつ目覚められましたか? よかった・・・先生を呼んできますね」
「あの!」
このままでは行ってしまう。そうならないよう語気を強めて呼び止める。
混乱した頭の中にさらにイレギュラーが舞い込む。
この声は絶対に僕のものではない。
「どうしました?」
くぐもった声は僕に問いかける。目の前にいるのはおそらく年配の女性。
なのになぜ、こんなくぐもった音しか聞こえないのだろう。
「ぼ、僕は誰ですか? ここはどこで・・・あの・・」
思考がまとまらない。視界の隅に風に舞う黄色のものが見えた。それがカーテンだと分かって、僕は見なかったことにする。
このまま夢であってほしい。外がどうなってるかなんて僕は知りたくない。
相手の人間はこちらに近づき、少し微笑んで答えた。
「少し混乱されてるのですね。今先生を呼んできますので少し待っててくださいね。あなたは森さん。ビル火災に巻き込まれて意識不明だったのですよ」
そしてすべてを理解する。
ビルの梯子から脱出しようとしたこと。そこから滑り落ち、目の前に店員の顔がアップになって意識が途切れたこと。
その店員の名前が、森だったこと。
鏡に映る自分の顔が、配色は違えどその森と似ていること。
入れ替わり。
そう帰結した時にはもう、目の前の人間はいなかった。