表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/9

第1話 トロイメライに包まれて

 優しく包むように耳をなでる。ヘッドホンから聴こえるトロイメライはまさに夢の中にいるような、そんな気分にさせてくれた。


 ベッドに寝転がったまま目を開ける。部屋に入ってくる夕方の風がカーテンを揺らす。心地よい春の匂いがした。


 傍らに転がるスマートフォンを持ち上げ画面を見る。動画配信サイトのロゴと共に、一人の女性が演奏している姿が映し出される。


『上本香奈 トロイメライ』


 動画で有名になりたいとかそんなことを一切考えていないような簡潔なタイトル。

 しかしこの演奏に引き込まれた人間は多いのだろう。現に再生回数は100万回を超えている。


 もっとも彼女の知名度も後押ししている。

 上本香奈、確かなピアノの技術と美貌を持ち、今やクラシック業界だけではなく幅広い層に認知されている同い年の女の子。


 僕が過去、彼女と一緒のピアノ教室に通っていたことなど誰も知らない。


 それでも嫉妬なんかはわかなかった。遠くに行き過ぎた存在は、自分の中で自動的に処理されるのだと思う。

 現に遠ざけることもなく、僕は彼女の演奏を毎日欠かさず聴いている。


 演奏のものが違った。トロイメライは中高の時に何回も弾いたことがある。

 簡単で個人的に好きな曲だったから。

 でも彼女のようには弾けない。

 僕がいくら弾いても動画の中の香奈ちゃんには勝てない。

 夢の中に落ちるような情景は、弾いてる本人でも一回も感じたことはない。


 高校の時に付き合っていた彼女にこの曲を演奏して褒めてもらったことがあった。

 ただそれは秋の夕暮れの情緒と、ピアノのもともと持ってる繊細な音の力でごまかされてるだけだと思った。

 

 そんなことをぼうっと考えているうちに動画は終わっていた。そのままヘッドホンを外して、スマホと共に傍らに置く。


 夢の時間は終わって現実に引き戻される。その時嫌でも思い出されるのは、現状の自分のことだった。


 コンクール審査用の動画撮影が1週間後に迫っていた。だけど課題曲はいまだに納得のいく演奏が一度もできていない。


 ミスタッチの多さ、リズムの狂い、理解の浅さ。何よりも譜面通りに弾くことができない。

 演奏中の自分は誰かに操られていると錯覚する。今の僕には演奏をするという行為自体が苦痛になっているのだろう。

 うまくなりたいとか、そんな気持ちももうないのかもしれない。


 いっそ今回はコンクールの出場すら辞退しようかと思ったとき、窓の外から風と共に時報の音が舞い込んできた。

 少し割れた音は、このあたりに17時を知らせる。何を考えてもネガティブになってしまう今の僕にはちょうどよかったのかもしれない。


 と、今度は傍らからバイブ音が鳴る。音の主はスマートフォン。画面に映るのは同期からの着信画面だった。


「なに?」


 スマホを耳に当てて少しぶっきらぼうに応答した。

 そんなこちらの気分など考えていないだろう電話の主は、少しうるさいくらいの声で話しかける。


「合コン、今から、男3女3、来るよな?」


 結局僕は何を答えたのか定かではない。多分最初は断ったのだと思う。


 でも気が付くとベッドから降りて外出する準備をしていた。理由はわからない。


 ただ忘れたかったのかもしれない。先生のしっ責の声も。僕を取り巻く現状も。


 自分の選んだ道で何もうまくできない中途半場な人間だということも。


 部屋を出る前に窓を見た。風はもう、部屋に吹き込んでいなかった。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ