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おねーちゃんが好き  作者: ヤケ酒あずき
プロローグ
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瑞木由花 20歳 夏1 / 瑞木恵里佳 22歳 夏1

 アパートの床に座り込み、ホテルで一泊するだけの荷物をもう一度バッグに詰め直す。最後に、ライブのチケットを入れたクリアファイルを、折れないように隙間に差し込む。


 朝からもう四回目。自分に嫌気がさしてくる。


 わたしはまだ迷っている。ずっと前から悩み続けてて、もう明日なのに。でもまだ決められない。本当に行くつもりなのか。行って、どうするつもりなのか。


 いや、どうにもならないのは、最初からわかってるんだ。だからわたしは諦めなくちゃいけなくて、でもあの約束が、わたしの背中を押そうとする。


 覚えているのは、わたしだけかもしれないのに。


 顔を上げる。エリカのポスター。エリカのCD。エリカの写真。エリカだらけ。アパートを彩るエリカの姿。部屋の隅っこに吊られた古いボクシンググローブが浮いている。


 ポスターの中で歌うエリカは、長いこと貼り続けているせいで日焼けしていて、でも、全然美しさを失ってない。長くて艶やかな黒髪も、ハッとするような容姿も、抜群のプロポーションも、日焼け程度じゃ問題にならない。見ているうち、胸が高鳴る。ちょっとだけ甘くて、あとはもう、とにかく苦いだけ。


 この高鳴りが、甘くて切なくて、ちょっぴりほろ苦い時があった。あれから二年。一年浪人し、大学一年生になったわたしは、山口大学の傍のアパートで一人暮らしをしている。


 ――由花。


 最後にエリカにそう呼ばれたのは、いつだっただろう。


 エリカの声が聞きたくなって、CDをかける。特典欲しさに買い集めたから、同じものが何枚も本棚に並んでいた。目をつむっても思い出せるほど聞き込んだ歌が流れ出す。男性でも女性でもあり、そのどちらでもない、性別を超越したエリカだけの歌声。天使の歌声。世界で最も豊かな色彩の歌声。何度だって聞き惚れる。


 でも、やっぱり本物にはかないやしない。


 もう一度だけ、本物のエリカの歌を聞きたい。


 もう一度だけ、エリカに会いたい。


 ああ、これがわたしの本心だ。昔の約束を口実に、エリカのデビュー五周年記念ライブに行きたいだけ。何てワガママ。自己中女。二年前から何も変わってない。


 でも、でもね。


 わたしはあなたとの約束を破ることだけは、絶対にしたくないのも、本当なんだよ。


 だって、わたしはあなたのことが好きだから。


 愛してるから。


 誰になんて言われようが、それだけは絶対に変わらないから。


 わかってるよ。おかしいのはわたし。狂ってるのはわたし。病気なのはわたし。本気にされなくても、嫌われても仕方がない。でもね、この想いを嘘にすることだけはできないんだ。


 あなたを守りたくて始めたボクシングは、もうできなくなってしまったけど。


 神様にだって負けやしないと思っていた私は、もういないけど。


 たとえ、わたしがどんなに変わっても、この気持ちだけは、絶対に変わらないんだよ。


 胸を締め付ける高音のビブラート共に、メロディーが途切れる。次の曲が流れ出す。


 スマホが鳴る。高速バスが出発するまであと一時間。まだ迷いは消えないけれど、それでもタイムリミットに背中を押されるように、化粧をしなきゃと鏡の前へ向かう。


 ……本当に行くの?


 鏡の向こうから、エリカの面影があるわたしの顔が、無言で問いかけてくる。




***********************************************




 背後でドラムが合図を刻んだ直後、音楽が爆発した。バラードなのにそう形容するしかないくらい表現力がケタ違いで、観客のいない幕張メッセ第一ホールが、一瞬のうちに夏の夜明けの空気に変わる。歌手としてステージの真ん中に立っていなかったら、ついうっとりと耳を傾けたくなる繊細なメロディー。


 明日行われる、五周年記念ライブの最後のリハ。単なる合わせだと聞いていたのに、こんなにすごいものを聞けるなんて。本番は一体どうなってしまうんだろう。


 この人たちに依頼して正解だったと思うのは、もう何度目かな。早桜さんには無理をさせてしまったけど、譲らなくて本当に良かった。そう思っているとすぐ、ワタシの出番がやってくる。息を吸い込む。マイクを口元に。


 歌う。


 これは、将来に悩む少年が、夢に向かって進む歌。


 今のワタシは、この男の子だ。想像する。思春期の苦悩。将来への不安。


 心を、込める。


 ワタシの体が変化する。身長が伸び、骨格ががっしりとして、胸が平らになる。女の体から男の体へ。ぶかぶかだったシャツがぴったりになり、のどぼとけが膨らみ、声が低くなる。けど、成人男性じゃあダメだ。線の細さを残す程度にとどめ、十代の少年の瑞々しさを感じさせる歌声を生み出す。


 女性らしさを残した男性の体。

 変化は止まらない。


 悩み。妬み。苦しみ。羨み。思春期の繊細な感情を表現するため、ワタシの体は都度姿を変え続ける。声帯を直接作り替え、ワタシだけに許された歌声を紡ぎ続ける。


 ふと、ステージのすぐ下に、早桜さんが立っていることに気づく。三十を超えたばかりの、いかにも仕事ができますといった風な彼女が、今はうっとりと聞き惚れているようだった。いけない、素晴らしいメロディーに触発されて、つい本気を出し過ぎてしまった。本番は明日なんだから、あまり喉を使いすぎないようにしないと。ただでさえ、肉体が変化する分、他の歌手より疲れやすいのに。


 リハで予定していたいくつかの曲を続けて歌う。歌うたび、ワタシの体は変化し、声が変わり、歌に色を重ねていく。ある時は瑞々しい女性の声で少女の恋を歌い、ある時は分厚い男性の声で正義に燃える心を叫ぶ(ワタシが担当した戦隊ヒーローものの主題歌だ)。そしてどちらでもない声で、なにものにもなれないものたちの生きづらさを説く。ワタシの体は流動的に性別を行き来していく。


 リハを終えると、興奮気味のベースの女性に声を掛けられた。


「お疲れ様です、エリカさん。噂どおりの、いえ、噂以上の素晴らしい歌声でした。性別を越えた天使の歌声。世界で最も色彩豊かな歌声。マイノリティの希望の星。以前からファンでしたが、こうして生で聞くと、そう呼ばれる理由がよくわかりました」

「ありがとうございます。でも皆さんだって、素晴らしい演奏でしたよ。二年前もそうでしたが、さらにレベルアップされてますよね。ボクの方が引っ張られて、つい本気を出してしまいました」


 そう言って微笑むと、ベースの女性はさっと頬を赤くして視線を逸らした。そう言えば、今のボクの性別は男だ。自慢ではないが容姿はいい方だし、自分の微笑みの威力がどういうものかはよく知っている。


「あ、いやそんな……。あのわたし、Xジェンダーだってことに負けず、努力して、成功して、幕張メッセでワンマンライブをできるまでになったエリカさんのこと、本気で尊敬してるんです。だから、あんなことがあったのに、もう一度一緒のステージに立てるの、感激です!!」


 あんなこと。みんなにとっては言葉にするのも嫌なことで、ボクにとっては心のように大切なこと。チクリと胸が痛む。強くなったボクは、笑顔の仮面で誤魔化すことができた。


 ドラムの男性がやってきて、こら、とドラムの女性を窘める。


「Xジェンダーは多様性の一つで、個性なんだ。ハンディキャップみたいに言うのはおかしいだろ。まあ、俺もエリカさんの影響で知ったクチだけど」


 ハッとした顔をして謝る女性に、ボクは気にしないでと笑顔を向ける。


 Xジェンダーとは、性的マイノリティの一つで、LGBTのT……トランスジェンダーの中に含まれる。トランスジェンダーとは、性自認……自分の性別と、肉体の性別が異なる人のことだ。《《人の心の性別が体の性別と異なる場合、本人が自覚した時点から、心の性別に合わせて肉体が変化し、性自認と同じ性別になることは、近年よく知られるようになった。》》


 Xジェンダーとは、トランスジェンダーの中で、男女のどちらかに限定しない性別の立場を取る人のことだ。ボクはその中でも不定性と呼ばれる立場で、その時々で性自認が変わる。ボクのような人たちは、日常生活の中の些細なきっかけで性自認が変化し、合わせて体の性別も変わる。トイレに入るときは男性で、出る時は女性、なんてよくあることだ。例えばボクなら、歌の題材に感情移入すると、性別が変わるように。


 Xジェンダーの中には、不定性以外にも、男女両方を選択している両性、男女の中間を選択している中性、男女のどちらかに加え両性、中性どちらも選択しない無性などが存在する。また、性別そのものを拒否するアジェンダー、複数の微妙に異なる性自認を持つバイジェンダーなどもいる。


 シスジェンダー……普通の人たちにはなかなか知られていないことで、ボクがきっかけで知ったと言ってくれる人は意外と多い。


 謝罪を受け入れた後、SNS用の写真をバンドの方々と撮影し、和やかな雰囲気で別れた。


 控室に戻る途中、早桜さんと合流する。視線が合うと、隙なく仕上げられたメイクの奥で、目元が緩んだ。


「調子、良さそうだったわね」

「明日は大事な日ですから。ところで、頼んでいたことは」


 早桜さんの眉根がきゅっと寄る。


「大丈夫。ちゃんと確認済みよ。……本当にあの人に渡していいのね?」

「はい。ボクがこうしてここにいられるのは、あの子のおかげですから」


 あの子がいなければ、ボクは五周年記念ライブを開催してもらえるどころか、歌を歌ってすらいなかっただろうから。


 何者かになりたくて、でも何もしようとしなかったボクの背中を押してくれて。時には守り、時には励まし、時には一緒に傷ついて、それでも、ずっと一緒にいてくれた子。


 世界中の誰よりも、ボクと一緒に喜びと悲しみを分かち合った子。


 あの子がいたから、ボクはボクらしく生きる勇気を持てたから。


「あまり感心はできないけど」

「それでも、です。もしも明日のライブに一人しか招待できないって言われたら、あの子を選ぶくらい、本気です」


 早桜さんは観念したと言いたげにため息をついた。


「大切なのね……まあ、当然かしら」

「ええ、だってあの子は、ボクの――」

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