【第七話】
夏がそろそろ終わろうかという季節。僕は相変わらず悩んでいた。実際のところ答えなんてもう決まっているんだけど、悩むことを楽しむようにして、僕は悩んでいた。
僕は駄目なヤツだ。
あと二年近くある期間、僕は悩む振りをしながら、この状況を楽しみ続けるんだろう。そんな僕を見て、麗さんはニヤニヤ笑いを浮かべながら訊いてきた。
「楽しそうだな、アシビ」
「そ……そうですか?」
「ああ、そう見えるね」
「差し詰め愛しの姫君のことでも妄想していたんだろ?」
「ま、まぁ……そんなとこです」
誤魔化すことなく認める。この人は人でなしのくせに人の心理を読むのに長けている。いわば女怪の類だ。
「若さだね。悪くない」
「ははっ……それはどうも」
乾いた笑いで応える。麗さんは慶兄さんと同い年だから30才くらいのはずなんだけど、一之宮以上に年齢不詳だ。この得体の知れない雰囲気のせいで10代にも40代にも見える。もちろん本人の前では言えないけど本当に魔女みたいな人だ。
「何だ、私の顔に何かついているのか?」
「いえ、別に」
「そうか、じゃあ、今日はそっちのデータを入力しておいてくれ」
「いいですけど……これ何の数字ですか?」
「ん? ああ、知り合いに頼まれて饕餮を一匹捕まえたんだ。色々とぶっ刺したり、注入したりで実験したんだけどね、そいつが準備してくれた道具のおかげで自動的に数値化されたんだけど、結局最後はそれを見ながら手入力なんだ。最後まで自動でやってくれたらいいのに……まったく面倒くさい」
「はぁ……」
いや、その入力は結局僕がするんだけど。そして“とうてつ”って何だろう?
気になって尋ねると「牛の化け物だよ」とザックリ答えられた。まぁ、詳しく聞いても解らないし、多分覚えないからいいんだけど。
そんなことを考えながら、僕は色と数字と謎の模様を番号に置き換えたものを表に入力し続ける。確かに麗さんの言葉じゃないが、これ自動でやってくれたら凄く楽だ。まぁ、麗さんがやっていた“実験”が如何なるもので、どういう原理で数値化されているのかが謎なので、そんな謎テクノロジーまで計算ソフトはカバーしてくれないだろうけど。
カタカタカタ……カタカタッ……カタ
使い込まれた音を立てながらキーボードが歌う。こういう地味な作業は嫌いじゃない。二時間ほど作業してひと段落するとお茶が飲みたくなって席を立つ。
「おい、アシビ。私のぶんも淹れてくれ」
「分かりました。緑茶でいいですか?」
「コーヒーにしてくれ。この前もらったヤツが戸棚の右上にあるから」
「分かりました」
ソファに寝っ転がりながらスマートフォンを片手に麗さんは言う。やってるのは擬人化した妖怪娘を捕まえてバトルしていくソーシャルゲームだ。リアルで妖怪退治しているんだから、ゲームの中でまで妖怪とバトルする必要なないと思うけどそれとこれとは別腹らしい。この前聞くとヤバいくらい課金していて、ちょっと引いた。
給湯室に辿り着くとまず電気ケトルに水を入れる。お湯が沸く間に戸棚を物色。
なるほど、右上の棚に見覚えのない箱がある。中に入っていたのはいつも飲んでいるインスタントコーヒーじゃない。お湯を注ぐだけで簡単にドリップしたコーヒーが飲めるドリップパックのコーヒーだ。
「ふぅん……こういう感じか」
箱の中に入っていた「コーヒーの美味しい淹れ方」の紙を読む。こういうのがあるのは知っていたけど飲むのは初めてだ。基本的にはお湯を注ぐだけなのだが、お湯の分量と、沸騰したてのお湯を入れないのがコツらしい。
「へぇ、熱すぎると駄目なんだ」
何となく知ってはいたが、実際に説明書で書かれているとやってみたくなる。
「お湯の温度は90度……いや、これは判んないよね」
お湯はすでに沸騰している。とりあえず蓋を開けてちょっと放っておいたら下がるだろう。
冷める間にカップと皿を準備し、ドリップバックをセットしする。ボクのカップの脇には砂糖とミルク。麗さんのカップの脇にはミルクだけ。その後に戸棚をもう少し物色する。
「あっ、これ、美味しそう」
如何にも高級そうなバームクーヘンが置いてある。切って個包装されているヤツだ。これがもしも丸ごとの切ってないヤツだったら、きっと麗さんは手づかみでもしゃもしゃ食べて、途中で飽きてそのままゴミ箱に捨てているだろう。それも皿に移して準備する。
よし、そろそろ温度が下がった頃だろうか?
インスタントコーヒーのときは大きめのマグカップに雑に匙で入れてお湯を注ぐのだが、今日はティーカップ。このカップに八分目くらいまで注げば分量はだいたい合っているだろう。
「あっ、これ……いいかも」
香ばしい湯気が立ち上り鼻孔をくすぐる。インスタントコーヒーとは明らかに薫りが違う。二つのカップを盆に載せて麗さんの元へと運ぶ。
「へぇ、いい薫りじゃないか」
「ですね」
僕は砂糖とミルクを、麗さんはミルクだけを入れて匙でかき混ぜる。一口飲むと互いに「旨い」と口にした。
そして一息ついたときだった。「ああ、そうだ」と麗さんが思いついたように訊いてきた。
「明日から三日間空いているか? ちょっと面白い所につれて行ってやるよ」
「え? 明日からですか?」
ちょっと戸惑った。何しろ今日は日曜日だ。明日からは月曜日。つまるところ平日で、大学生である僕は当然授業の予定が入っている。だけどそんなことなんてどうでも良いよう麗さんは続ける。
「どうせ大学に行くだけだろ」
「いや……僕、そもそも学生ですから。いちおうそれが本分と言うか……」
「別にいいじゃないか。就職先も決まってるんだから最悪卒業出来なくてもさ。それよりも役に立つ場所を教えてやるよ。お前も近々、一之宮の人間になるんだ。鉄火場のひとつくらいは経験しておかないとな」
「いや、僕は……」
「へぇ、ならないんだ? 一之宮に」
「それは……」
「まぁ、いいさ。悩むのもアシビの権利だ。幸いにも時間はまだあるしな。その間はたっぷり悩める、実に楽しい……なぁ?」
嘲るような……いや、違う。明確に嘲っている。そして僕は嘲られて当然の人間だ。
そうして麗さんは僕の言葉なんて待たなくて魔女の笑みでニヤリと笑って言った。
「明日の8時に車を回してといてくれ」
「……………………」
結局、僕は次の日、大学には行かなかった。麗さんの言いつけ通り朝から事務所の近くに借りてる駐車場から車を持ってきて、3日間麗さんの運転手としてついて回った。長時間の車の運転は得意じゃないんだが……まぁ、文句をいう資格はない。
次の木曜日、事務所にやって来た一之宮は僕のそんな土産話を聞きながら驚いた顔で言った。
「それはとても大変だったのですね」
「うん、なかなか刺激的な三日間だったよ」
初日は本当に鉄火場だった。
鉄火場。
つまり賭博場だ。都心の海岸エリアの一角。地図の上では工業区画になっている一部分でそれは行われていた。外から見れば倉庫か何かに見える大きな建物は丸々駐車場になっていて、そこから車を降りて地下に降りればそこは賭博場だった。見るからに身なりの良い紳士淑女がルーレットにポーカーやバカラを楽しんでいる。スロットマシーンはない。どちらかと言うと賭け事ではなく、そこで行われる人間同士のやり取りを楽しんでいるように見えた。そういった雰囲気のせいか、賭博場だというのに非合法な香りがしない。
強いて言うなら僕らが一番無法者な恰好をしていた。麗さんはジャケットこそ羽織っているがその下はラフなシャツとジーンズにスニーカーといういで立ちで、周囲からは明らかに浮いている。ちなみに僕だが……まぁ、ただでさえスーツなど大学の入学式用に一着買ったものしかないわけで、その服装は推して知るべし。完全に鶴の中の鴉だ。
「まさか、あんな場所で賭博場があるとかね」
「海岸近くの賭博場……ひょっとして中央に大きな舞台がありませんでしたか?」
「舞台……ああ、あったよ」
確かにそこには舞台があった。変な構造の部屋だったのでよく覚えている。
「なら、そこは多分、九重家が仕切っている賭博場だと思います」
「ここのえ?」
「はい。十家のうちのひとつです」
十家。この国が近代化するに当たり台頭してきた十の家。一から十の数字を冠した俗に言う十家。有名なのは一之宮、三条、七枷だ。これはよく大きな会社の名前とかについているから日常でもよく聞く名前だ。逆にあまり覚えられていないのが政治家や官僚を裏から差配しているという五輪、警察や軍部に強い影響力のある八衡、まったく覚えられていない、というか普段は耳にする機会がないのが神事を司るという十冠だ。
あとは……何だったかな。江戸幕府の将軍みたいなもので、十家の名前は調べればすぐに出て来るが即座に全部言える人がいたらちょっとした雑学博士だ。
「えっと……双群は一之宮に吸収されて、あと……四と六と九はなくなったんだよね?」
「いえ、四道と六峰は潰えましたが、九重は残っていますよ。俗に言うヤクザの元締めです」
「ああ、それで賭博場」
「はい、九重は戦前の時点でほとんど地下に潜っていたらしいです」
「へぇ」
さすがによく識っている。
「そうか、十家か。それで麗さんが……」
だったら説明してくれも良さそうなものだが、あの人はそういう分りやすいことは口にはしてくれない。どちらかというとこれは僕の責任だ。例えば麗さんに「ここの賭場の仕切りは誰ですか?」と訊けば良かった。だったら多分答えたんだろう。ただあまりの非日常に目が眩んで、連れていかれた場所がどういう所なのか全く頭が回っていなかった。
「十家がどうかしたのですか?」
「え? いや、その……」
「はい?」
一之宮は首を傾げるが、まさか「一之宮家の人間になるから」なんてことはさすがに言い難い。そのやり取りが楽しかったのか麗さんがくつくつと笑っていた。
「じゃあ、ひょっとして二日目以降に行った場所も?」
「二日目はどこに行かれたんですか?」
「ああ、いきなり東北まで運転しろって言われてね――」