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【第五話】


(うるは)さんの事務所でパソコンの画面を眺めながらため息を吐く。画面には数字を打ち込むための表が表示されているのだが、さっきから一文字も入力はされていない。頭の中は一之宮(いちのみや)武臣(たけおみ)の蠱惑的な提案と、麗さんの冷笑的な指摘と、慶兄さんの現実的な助言でいっぱいだった。

一之宮(いちのみや)玄隹(しずり)は僕の理想の女性で、ただ彼女には色々と問題があって、その女の子と結婚出来るかもしれないんだけど、それがどう考えてもまともな人間のすることじゃない。そんな事実を改めて頭の中で並べてから応接用のソファに視線を向ける。するとそこにはいつものように一之宮が横になって眠っていた。今日は木曜日なのだ。

麗さんは「眠り姫」だなんて揶揄しているが。ここにいる間、彼女はよく眠る。本人の言葉を借りると夜でもないのに眠れるなんていうのは、とてつもなく贅沢なことらしい。思い出せば高校時代、授業には全くついていけなかったのに居眠りはしていなかった。あれはあれで彼女は学校生活と言うものを楽しんでいたのだろう。

僕はゆっくりとした足取りでソファの傍らに立つ。一之宮が着ているのは白いワンピースだ。彼女はこの服を好んでよく着ている。その裾がソファの端から垂れて、明けの三日月に咲く月下美人を思い起こさせた。


午醉(あしび)くん……何ですか?」


長い睫毛が揺れると、双眸が眠たげに開いた。足音を消そうが、心音を沈めようが、気配を殺そうが、僕が近づくと彼女は必ず目を覚ます。


「ねぇ、一之宮」

「はい?」

「変なことを聞くんだけどさ。一之宮は結婚について考えたことがある?」


我ながら本当に変な質問だ。

今時「女性は結婚して家庭に入るべき」なんてのは時代錯誤もいいところだが、それでも結婚したいと考える女性は概ね多数派だろう。だとしても、まだ二十歳そこそこの女性で具体的に結婚について考えている女性は少数派だ。


「結婚ですか?……私は誰と結婚すればいいのでしょう?」

「それは……」

「お兄様やお姉さまと違って、私には許嫁がいないのです」


一之宮は名家で一般人には縁のない許嫁なんてものが幼い頃から決められている。現にお兄さんの一之宮武臣なんて、18才で結婚して、その時点で子どもがいたらしい。

そんなことを考えながら、僕は右の瞼に手を触れてから訊く。


「もし……さ」

「はい?」

「もし一之宮が僕と結婚出来たら、どうする?」

「?……私が午醉くんの子どもを産むのですか?」

「ま、まぁ、そういうことかな」


声が上ずった。きっと本人は何とも思っていないんだろうけど、生々しい言い方にドキリとする。

そんな僕に一之宮は透明感のある笑顔で応えた。


「それはとても楽しそうですね」

「そ、そう?」

「はい、何だか素敵な気分です」


そう言って子どものように笑う。きっと一之宮と僕の結婚の認識はずれているのだろう。

僕は卑怯者だ。

外の空気を吸いたくなった。このまま一之宮と同じ部屋にいると、何だか(よこしま)な気持ちで心がいっぱいになってしまいそうだったからだ。


「お買い物ですか?」

「あ、うん……ちょっとコンビニまで行ってくるよ」


逃げるようにして踵を返す。すると一之宮はそれにつられるようにして立ち上がった。


「私もお買い物に行きます」


宣言した。


「一之宮も?」

「はい。アイスクリームが食べたいです。一緒に買い物に行きましょう」


こうなると、もう僕も一之宮について行くしかない。何しろ彼女が買い物をする場合、僕がお金を払うのだ。もちろん経費で。そのお金の出どころが何処かなど、もはや語る間でもない。

僕が観念して「行こうか」と言うと、一之宮は子どものような笑顔で「はい」と答えた。


麗さんの事務所は繁華街の外れにある四階建てのエレベーターのない雑居ビルだ。もっとも雑居と言っても、今は麗さんの事務所以外にテナントも住居も入っていない。このビルのオーナーは麗さんで、自分で使うために入手したから誰にも貸すつもりはないらしい。各階にある部屋は麗さんの仕事と趣味で収集した珍しいものから、グロテスクなものまで、ぎっしりと詰まっており。それの整理と掃除も僕の仕事のひとつだった。

僕は一之宮と一緒に階段を降りる。隣から聞こえる足音はいつもよりも楽し気だ。蛍光灯を一本ずつ抜いた薄暗い廊下を抜け入口まで来たときのことだった。


「一之宮?」


彼女の足取りがピタリと止まる。その視線は入口のガラス戸の向こう。向かいの通りにいる人影に向けられていた。まるで映画の世界から出て来たような上品な身なりをした老紳士だ。ただその配色が少しばかり変わっていた。

老齢を迎えた口ひげは綺麗な薄灰色に染まっており、身に着けた背広の上下も濃い灰色。丸いフォルムが特徴的な山高帽も薄めた墨のような灰色。背広の下に身に着けたシャツまでもが灰白色なのだから徹底している。身に着けているもの全てが灰色。その所為か地面に伸びた影までもが灰色に見えた。

彼女がそんな老人を怪訝な目で見てるものだから、僕は「どうかしたのか?」と、そう問おうとした。

その時だ。灰色の紳士は丁寧に帽子を取りペコリと僕らに頭を下げた。そうして一礼すると、まるで映画のワンシーンのように立ち去っていった。





コンビニに行った一之宮はアイスの陳列した冷凍庫を見て楽し気にはしゃいでいた。


「午醉くん、すごいです。コンビニにかき氷が売っています」

「そういえば、コンビニにも置いてるよね」

「むぅ……知っていたのですか?」


不満気に頬を膨らます。まるで拾った宝石がガラス玉だったと知らされた子どもみたいだ。


「うん、でも食べたことはないんだ」

「そうなんですか?」

「そもそもあんまりアイスを買って食べることもないし、買ってもだいたいシンプルなバニラアイスを買っちゃうからね。だから見たことはあっても、食べたことはないんだ」


奇しくもしばらく前に一之宮武臣が言っていた「よほど好きならともかく、かき氷なんて頻繁に食べるものでもない」という言葉を思い出す。そういう意味では彼女はかき氷という食べ物がいたく気に入ったようだった。


「せっかくだから二つ買って帰ろうか」

「はい。一緒に食べましょう」


多分イチゴ味なのだろう。袋に「氷」と印字されたかき氷を二つ掴んでカゴに入れる。その時、そう言えばと思い出した。


「そう言えば、一之宮」

「はい、何ですか?」

「さっきのおじいさんだけど……ほら事務所から出るときに通りの向かいにいた、グレーの背広の」

「ああ、あの方ですか」

「うん、何か気になっていたみたいだけど、知り合いだったの?」

「いえ、知らない方です」

「そうなんだ」


あまり他人に興味を示さない一之宮が反応するから、僕が知らないだけで麗さんの事務所に出入りしている人なのかと思ったのだが違うようだ。

そして次の彼女の言葉にギョッとする。


「ただ、殺してしまうかどうか、ちょっと悩みました」

「えっ!?」


物騒な発言に思わず周囲を見る。

大丈夫だ。

店内には立ち読みしている客が一人とレジに店員がいるだけで、今の発言は聞こえていない。

だけど空気が読めない一之宮は周囲なんて気にした風もなく続けた。


「麗さんの事務所には人払いの結界が張っています。ガラス戸越しに私たちの姿が見えていたとしても、中の様子は認識出来ない筈です。でも、あのお爺さんはまだ建物の中にいる私達を見て挨拶をしました。多分、私達……というより、麗さんに喧嘩を売りに来たのではないのでしょうか?」

「麗さんに?」

「はい。だから放っておきました。どうせ殺されるでしょうから。それよりも午醉くん。早くレジに行きましょう。かき氷が溶けてしまいます」


人の命よりもかき氷が大事。そう言わんばかりに……というより、実際に大事なのだろう。一之宮はニコニコとした笑顔でレジへと向かう。

一瞬だけカゴの中の赤いカキ氷が不気味なものに思えたが、一之宮の急かす声でそれもすぐに(すす)がれてしまった。

戻ったとき、血塗れになった老人の死体がなかったことにほっとしたのは、僕の中だけの秘密だ。



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