【第十四話】
病院で目が覚めた時、最初に顔を合わせたのは意外にも一之宮玄隹の兄、一之宮武臣だった。
「やぁ、午醉くん。今回は災難だったね」
端正な顔に優しげな笑みを浮かべ、篭に入ったお土産の高級な果物を机の上に置く。そこだけ見ると人の良いお兄さんなのだが、もちろん彼は見た目通りの人間ではない。定型通りの怪我人へのお見舞いの後、一之宮武臣は謝罪と、謝礼として今回の一件の始末を全て持ってくれることを宣言した。
なるほどそれは高級な果物なんかよりずっと有難い。以前と違って今回は見て判る。とても周囲に誤魔化しきれないだろう。
僕はどうやら交通事故に遭ったことになっていて、何故か轢かれたこともない車が準備されていて、会ったこともない加害者がいるらしい。高額な示談金もすでに用意されていて、治療費も全て相手持ち。今いる病室も大きな個室で、ここ数日は手厚い治療を受けている。しかし恐ろしいのは加害者を準備出来るという一之宮家の力だ。彼は場合によっては裁判を受け、国の記録として罪が記録されるらしい。あまりの厚遇……と言っていいのだろうか? お礼を言って良いのか、謝っていいのか、よく分らない。
「構わないよ。おかげで薄汚い売国奴を一匹始末することが出来た。この国を支配する者の一員として礼を言う」
その言葉がまるで不遜に聞こえない。それこそ支配者の趣だ。
「それに何より良いデータが取れた。千羽鶴、それに中司麗……あの突然変異の怪物達に一之宮の技術が一歩追いついたんだ。実に喜ばしい」
若き支配者は言う。彼らの悲願は麗さんのような、理由もなく、脈絡もなく、突然生まれる超越者を人工的に生み出すことなのだと。
確かに彼は以前、麗さんと一之宮を戦わせてみたいと言っていた。だけどその言い回しに僕は少し嫌な気分になる。
あの後、四道宗貴を斃した後、錯乱した一之宮は麗さんと戦った。
最初二人の攻防は互角だった。少なくとも門外漢の僕には互角の勝負のように見えた。だけどある瞬間からそれが入れ替わった。それは一之宮の手刀が麗さんを始めて捉えた瞬間だったかもしれないし、麗さんがずれた眼鏡をかけ直した時だったのかもしれない。ただ唐突に麗さんはこれまでとは違う何かに化けた。別に、角が生えたり、翼が生えたりした訳ではない。だがある瞬間から麗さんは変わった。
そこからはもう一方的だった。本気を出した麗さんは怪獣映画の怪獣みたいに強くって、僕は一之宮が殺されてしまうのかもしれないと不安になった。
「ああ、大丈夫。中司はちゃんと配慮してくれていたようだからね。それも恐らく君のおかげだ」
そう言った視線の先にはソファの上で横になる一之宮の姿があった。あれだけの凶行を受けたというのに、その身体には傷ひとつない。いつもの白いワンピースで身を包んだ彼女は猫のように眠っている。
今日は木曜日ではない。にも関わらず彼女がここにいることが、一之宮武臣の僕に対する評価なのかもしれない。
一之宮武臣が去った後、しばらくして現れたのは麗さんだった。
「よお、アシビ。ちゃんと生きてるな」
いつもと変わらぬ様子に僕は苦笑する。こんな感じでもいちおうは……いや、紛れもなく僕の命の恩人なのだ。とはいえ病床で伏せる今の僕の姿を見て笑えるのだから、やはり普通の感性でないことは確かだ。
僕がまだ歩いていないが一生杖が手放せないことを話しても、痛みを感じるのが不思議だと話していても、麗さんは他人事みたいに笑っていた。
「そいつはファントムペインだな」
ファントムペイン……何だろう? よく分らないけど格好いい単語だ。聞いたことがない言葉を口にすると、麗さんは「後でスマホで調べろよ」とおざなりに言うだけだ。
その後、先ほど一之宮武臣が来たことや、事件を片付けてくれた顛末を伝える。
「さすがは一之宮だ。金があるな。いや……そもそも経済を作っているのが一之宮みたいなものなのだから、この言い方も変か?」
シニカルに笑う。そうしてソファで横たわる一之宮を見て僕に尋ねた。
「しかしこれで今後の進路も決まったようなものだな。復学はしないんだろ?」
僕は麗さんに「さぁ、どうでしょう?」と答える。大怪我をしてしまったので大学など当分無理だ。とはいえ、これまで単位は真面目に取っていたので取り返しがつかないという訳ではない。僕が曖昧に答えるのを聞くと麗さんはここで初めて不満そうに笑みを崩して「まぁ、いい」と口にした。
そうして僕の、右目と、左足と、最後に一之宮の姿を見て魔女の笑みを浮かべて言った。
「それにしても“眠れる森の美女”かと思っていたら“幸福な王子”だったか」
幸福な王子……また知らない言葉が出て来る。僕がまた「何ですか、それ?」と訊くと、麗さんは先ほどと同じく「スマホで調べろ」と意地悪く唇を歪めて答えてくれた。そうして最後に――
「まぁ、心臓だけは最後に拾ってやるから安心しろ」
なんてちっとも安心出来ない言葉を残し、一之宮武臣が持って来たお見舞いの果物を勝手に持って病室を出て行ってしまった。
部屋に残されたのは一之宮と僕の二人だけ。
その後、何かする訳でもなくぼんやりと病室の壁を眺めていると一之宮が目を覚ました。
「午醉くん、おはようございます」
「うん、おはよう、一之宮。もう夕方だけどね」
「ああ、もうそんなに時間が経ったのですね」
そうして猫のように伸びをする。
その後、一之宮とお兄さんが来たことや、その後に麗さんがお見舞いに来たことを告げる。
「そういえば二人の気配を感じたような気がします」
「よく寝ていたからね」
「はい、よく寝れました」
無邪気に笑う。
「ああ、そうだ。一之宮」
「何ですか?」
「そこの棚にスマホが置いてるから取ってくれないかい?」
「はい」
この身体じゃ、棚のスマートフォンを取るのにも一苦労だ。お手伝いを頼まれたのが楽しかったのか、一之宮は跳ねるように棚に向かう。充電しているスマートフォンのコードをどうやって抜けばいいのか迷っているようだったので「そのまま引き抜けばいいよ」と教えてあげた。
「何を調べているのですか?」
「ああ、さっき麗さんが変な言葉を言い残して言ってね」
そう言って、まずは「ファントムペイン」を検索する……なるほどこういうことか。これはしばらく苦労するようになりそうだ。
そうして次に「幸福な王子」を検索する。それを見て僕は絶句する。
「…………っ」
まったく何て物語。ああ、なるほど。この童話は知っている。こんなタイトルだったのか。あんな魔女めいた笑みでこんな話を言い残していくなんて、とんだ天使様だ。
乾いた笑いを浮かべる。
そして納得する。
それはまさしく僕らの末路を示した物語だった。
「どうしたのですか?」
「ああ、うん。麗さんから教えてもらった童話を調べていたんだ」
「どんなお話なのですか?」
「ああ、そうだね……王子様と玄い小鳥が幸せになるお話だよ」
「それはとても素敵なお話ですね」
「うん、そうだね。とても素敵だ」
そうしてスマートフォンの画面を消して一之宮に向き合い告げた。
「ねぇ、一之宮」
「何ですか?」
「結婚しよう」
狂った言葉が唇から零れ出た。
そして彼女から返って来た言葉もやはり狂った言葉だ。
「それはとても素敵ですね」
「うん、そうだね。とても素敵だ」
そうして僕らは唇を重ねた。
狂婚 -lunatic fairy tale-【完】