【第十三話】
ジョギ、ジョギッ……と鋏が肉を挟む音が聞こえる。1か所だけでない。複数だ。具体的には何カ所が分からないのだが、とにかくあの不気味な蟹が僕の足の肉を削り取っていく。左足から伝わる激痛に悶えながら僕は床の上でうめき声を上げた。
痛い。
とにかく痛い。
以前にも経験したが本当の激痛を味わっていると間は叫んだり出来ない。人間が本来持つ防衛本能に従うままに身体を丸め、痙攣するように身体を震わせ、息が漏れるついでにうめき声を上げるのだ。
全身からだけでなく、脳味噌からも脂汗を流しながら僕はうめき声を上げる。
「まだ殺しはしないから安心するといい。君が死ぬのはあの女狐の目の前だ」
僕が転がされているこの倉庫は四道宗貴の陣地であり、僕を餌にして麗さんをおびき出すのが彼の狙いらしい。よく分らないが幾重にも罠が仕掛けられているのだろう。麗さんんへの恨みからか、それとも承認欲求からか四道宗貴は得意げに説明する。僕は痛みに悶えながら「本当に冥途の土産にペラペラと喋る人がいるのだ」と妙な感想を抱いていた。同時にこの灰色の老人が僕を生かして返すつもりはないのだと改めて認識した。
「そろそろ右足の方も始めようか」
「……………………」
四道宗貴は言う。本当に見計らったかのようなタイミングだった。何時間も経ったのか、それともせいぜい10分程度の出来事だったのか、もう途中から痛すぎて時間の感覚がなくなっていたのだが左足の感覚が完全に麻痺していた。
――――そんなとき声が聞こえた。
「よぉ、四道。楽しそうだな」
聞こえて来た声は言葉同様に楽し気な響きを孕んでいた。パンツスーツに腰まで伸びた黒髪を飾り気なく後ろで一本に束ねた眼鏡の女性。ゆっくりと歩く仕草はどこか猫科の大型肉食獣を思わせた。
「来たか。女狐」
「芝居がかって言うなよ。気づいてたんだろ? 粗末な城だが、いちおう仕掛けは施していたようだしな」
「あいにく本来の城はどこかの薄汚い女狐が居座っていてな。もっともそれについてはもういい。近々引っ越しをする予定でな。ただ持ち主としては汚い獣を放置したままこの国を去るのは忍びない。きちんと駆除してから去ろうと思ったのだ」
「そうかそうか。日本に居場所がなくなったか。まぁ、しょうがないよな。十家落ちのお前にはこの国はさぞかし居心地が悪かろう」
十家落ち
知らない言葉が麗さんの口から出る。だがそれを聞いた途端、これまで余裕を持って対峙していた四道宗貴の表情が憤怒に彩られた。
「その名称を儂に使うか……」
「ああ、すまない。気に入らなかったか? だけど私が言っているんじゃないんだ。皆が言っている。四道家は時代の流れについて行けずに落ちぶれた元名家、かつてこの国を差配していた十の家の座から滑り落ちた十家落ちだとな」
「二の文字を捨てて一之宮に下った双群よりは誇り高いつもりだがな……」
「誇り高いんだったら、この国を捨てるなよ。大方、ソビエトか中華民国にでも亡命するつもりなんだろ。なぁ?」
ギリッ、と歯軋りの音が聞こえた。
麗さんの煽りが余程効いたのだろう。すごく嫌な言い方だけど、多分麗さんの指摘は半分くらい当たっているんだろう。まったくの出鱈目ならば笑って流すことも出来るが、真実を言い当てられると人間は腹が立つ。
激昂した四道宗貴が麗さんに向かって何か叫ぼうとした、瞬間――
ゴンッ、と四道宗貴の背後で大きな音がした。
一之宮だ。
白いワンピースの裾を翼のようにはためかせ、怒りで隙を見せた四道宗貴の首を容赦なく手刀で刈る。一之宮の膂力は細い外見からは想像も出来ないほど強力で、僕はこれまで彼女の手刀が敵を屠るのを何度も目にしている。
「ここで来ると思ったぞ」
だけど四道宗貴は後頭部で何事もないように一之宮の手刀を受け止めて言った。
「あの時も背後からの不意打ちだったな。進歩のない奴だ」
嘲る顔には先ほどの憤怒の表情はない。演技だったのだ。
灰色のシャツの襟元から後頭部にかけて、節のある虫の脚のようなものが伸びていてそれが一之宮の手刀を受け止めている。それが、ぞろり、と無数に伸びると一之宮の腕に絡みつくと瞬く間に一之宮の動きを封じてしまう。
四道宗貴は背後で止まった一之宮の腕を掴むと、そのまま彼女の身体を振り回し頭から床に叩きつけた。
一之宮の身体が空を切る音。
床にぶつかる衝撃音。
関節が破壊される音。
肉が力任せに千切られる音。
人体が奏でるには不釣り合いな音が一之宮から聞こえてくる。見れば灰色の背広の袖からも虫の足は伸びており、その効果なのだろう。老人とは思えぬ桁違いの腕力だった。右肩から先が不自然に曲がり、頭から血を流した彼女は動かない。
「一之宮家の飼っている実験動物が一緒に来るのは織り込み済みだ。そもそも、そうでなければそこの少年を餌になどせん」
勝ち誇るように言う。
だが麗さんは今の言葉に違和感を持ったのか四道宗貴に問いただした。
「妙なことを言うな。まるで私でなくシズリが狙いだったように聞こえるが?」
「なに、先方への手土産だよ。儂が貴様への報復を知ったソビエトがこの実験動物の捕獲を依頼してね。利害の一致というヤツだ」
四道宗貴は皺の入った妙な質感の革靴の踵で二度地面を叩く。すると足元で伸びる灰色の影の中から無数の百足が現れた。鎧のような甲殻を持つ大百足。小さい物でも人間の腕ほどの太さで、大きいものは電柱ほどの太さと長さがある。それらの半分は倒れた一之宮に群がり、残りの半分は虹彩のない無機質な目で一斉に麗さんを見る。
「とはいえ、こちらはあくまでもついでに過ぎん。これからが本番だ」
「なるほど、そういうことか」
「解ってくれたかな」
「ああ、理解したよ。お前、ソビエトの連中に担がれたな」
「何?」
「連中はお前に期待なんてしていないよ」
「ふむ、そうか」
眼鏡の奥で麗さんの瞳が厭らしく嗤う。だが四道宗貴は取り合わない。麗さんは舌戦で自分のペースに巻き込もうとしている。そう考えたのだろう。しかし彼女がどこからか取り出した紙の束を見た途端、その余裕の態度に翳が射した。
「貴様、それは!」
「ああ、お前の工房から拝借してきたよ。いかんな。大事なものはもっとしっかり鍵をかけて保管しておかないとな」
そう言ってゴミのようにばら撒いて捨てる。
「お前さ。これが認められてソビエトにスカウトされたと思っただろ。違うぞ。連中はこんなもの欲しくない。本当に欲しかったのはシズリの身柄か、私の命だったんだろうな。普通に考えたら判るだろ? 龍脈を利用して爆発させる大量殺戮兵器なんて、どこで使うつもりなんだ?」
「貴様には分からんだろうな。そもそも使いどころを考えるのは政治家の仕事だ。儂らの関与するところではない」
「それなら余計に要らんだろ。ソビエトは。都市ごと吹っ飛ばす爆弾なんて龍脈を使わない方が、安いし、確実だし、安全だろうが。そもそも都市ごと吹っ飛ばす爆弾なら既にある。科学的に理論が確立していて、技術的にも安定していて、量産が可能なヤツが70年以上前からな。もうある物の代替品なんて金を使ってまで作らんさ」
「何だと?」
麗さんの言葉の意味が理解出来なかったのだろう。四道宗貴の眉が怪訝に寄る。そしてそれは僕も同様だ。
かつて戦争があった。今では禁忌とされている侵略戦争だ。当時の日本は仕掛けた側でアジアを中心にあちこちの国に喧嘩を売って回った。そうして戦線が拡大する内にアメリカとも戦争になった。そのときには戦線が伸び切って日本も疲弊していたらしく、次第に負けが込み始め、そうして――
大日本帝国は禁じ手を使った。
これまで歴史の裏側でしか動いていなかった、一之宮や八衡といった異能者を議会中のホワイトハウスに送り込み、大統領を除く434人の下院議員全員を白昼堂々と皆殺しにしたのだ。
そうして戦争は日本の勝利で幕を閉じた。
科学的に理論が確立していて、技術的に安定していて、量産が可能な、都市ごと吹き飛ばす爆弾。70年以上前にそんなものがあるなら恐らくはもっと効果的な場面で使っていたはずだ。だけどそんなものが存在するなんて聞いたことがない。
「ふむ、まぁ、いい。事の真偽は今は関係ない」
「関係あるとは思うがな。お前の進退に関わる問題だ。亡命先でいい暮らしが出来るとも思えんし、そもそもお前のような無知で無能な老人を受け入れてくれること自体が怪しいと思うがね?」
「黙れ!」
麗さんの言葉をブラフと判断したのか、四道宗貴の足元から伸びた百足の群れが一斉に麗さんに向く。
「おいおい、せっかく親切にも騙された馬鹿の目を覚まさせてやろうとしたのに恩知らずな男だな」
言葉にも声にも親切心の欠片も見せずに麗さんは嗤う。
「まぁ、いいさ。わざわざ相手にするのも煩わしい。お前はそこにいるソレにでも、さっさと殺されてしまえ」
そうして麗さんは四道宗貴の背後を指さした。その先にいるのは、先ほど床に叩きつけられ重傷を負って横たわる一之宮だ。四道宗貴の呼び出した百足が全身に巻き付いている。その身体がムクリと起き上がった。まるで天井から吊るした糸で引っ張られたかのような不自然な起き上がり方だった。
「ふむ、たっぷりと呪毒を流し込んだはずだが大したものだ。実験用に作られただけあって毒への耐性が高かったか?」
予想外の事態にも慌てず、灰色の影からさらに百足を呼び出して一之宮に殺到させる。群がる地虫は一之宮の身体に巻き付き、白いワンピースが完全に隠れるほど全身を覆い尽くした。
「それで、そこいるソレに儂がどうされると?」
平然と言う。
しかし麗さんは余裕を崩さずに伝えた。
「殺されるのさ」
「ほう、興味深いな」
「興味を持つことは善いことだ。探求心を失くした人生なんてつまらないもんだ。もっともお前はこれから死ぬわけだがね。ほら、よそ見をするなよ。そろそろ化けるぞ」
「なに?」
麗さんに言われる間でもなく異様な気配を察したのか、四道宗貴は弾かれたように百足の山に視線を移す。虫の山の中にいるのはもちろん一之宮だ。
そうして変化が現れた。
幾重にも巻き付いていた大百足。その一番外にいた一匹がぽろりと剥がれて床に落ちる。虫ゆえに表情は計り知れないが、落ちた百足は無数の足を苦し気に動かし、痛みに悶えるように胴をくねらせた。
「何だ?」
一之宮に群がっていた百足の塊はボロボロと剥がれ足元に落ちて行く。そのどれもが苦し気にもがき、キィキィと鳴き声のような音をたてて無数の足を蠢かせている。先ほどまで一之宮の姿が見えなくなるほど覆っていた百足の群れはそのほとんどが地に堕ちていた。
白いワンピースが現れる。先ほど捻じれておかしな方向に曲がっていた右腕は元に戻っていた。額に血が付着しているが、すでに血は止まっているようだ。しかし回復したのかと言われれば、そういう訳でもなさそうで、表情は虚ろで瞳は茫洋としいる。唇は細かく動き、声は聞こえないが、何か譫言を口にしているようにも見えた。
目の前で起こった現象が理解出来なかったのか、四道宗貴の表情固まった。それを見て麗さんは嗤う。
「どうした? 早く対応しろよ。手遅れになるぞ」
「クッ――」
それが合図だったかのように四道宗貴は両掌を叩くと印を結ぶ。踊るように指が絡み合うと灰色の陰から更なる怪異が現れた。
身の丈は3メートル近くある。大きな顎と多足を持つ甲殻の生き物。両椀は鎌のように湾曲している。蝲蛄にも蟷螂にも見える怪物だ。それが一之宮に襲い掛かる。
人間の首など簡単に刈り取れるであろう巨大な鎌。それが勢いよく振り下ろされる。
一之宮の表情は相変わらず虚ろで視線は定まっていない。ブツブツと独り言を呟く様は夢遊病者のそれだ。だが怪物の両腕の凶器が一之宮の肌に触れた途端、その動きを止めた。
白く細い一之宮の首筋。その柔らかな肌の表面で怪物の鎌が止まっている。
「馬鹿な!」
四道宗貴の目が驚愕に開かれる。だがそれは一之宮の防御力に対してではない。
「何故――」
彼は自らが呼び出した怪物を目に叫ぶ。
「何故苦しんでいる!?」
一之宮に触れた途端、苦しみもがき始めた怪物を見て四道宗貴は困惑する。
「そんな機能はないはずだ」
異能を持たぬ身には理解出来ないが、それは異常な事態なのだろう。腹を見せて倒れた怪物は10本ほどある足を蠢かせながら苦しみもがく。そんな虫達の中央で呆けたように棒立ちになっている一之宮がゆっくりと首を巡らせ四道宗貴を見る。
先ほどから何かブツブツと呟いていた彼女の声が少しだけ大きくなり、無感情だった声音に色が滲み出た。
その色は嚇怒だ。
「アシビくんを傷つけたこのひとが傷つけた私の大事な人なのにこの人が傷つけたゆるさないゆるさないゆるさない絶対に仕返しシてやる仕返シシテやる仕返シシてヤルあしびくんあしびくんあしびくん殺してやる踏みにじってやるぐちゃぐちゃにしてつぶしてくずしてぐちゃぐちゃにしてたたきつけてスりつブシてきりきザんデコロシテヤルコ■シTEヤルコロSHイ■ヤル――――」
呪詛のように呟き、ヌルリとした足運びで身体が前に沈み込む。同時に四道宗貴までの距離がゼロになった。
「なっ!?」
「…………コろ■てヤる」
白い指先が老人に迫る。四道宗貴は「舐めるな」吐き捨てると、その腕を捉え手首を捻る。如何なる技巧か、一之宮を捉えた彼の右手が翻ると一之宮の体がベクトルを無視して宙を舞う。
彼女の手首は捉えられたままだ。四道宗貴はその手首の関節を逆向きにへし折って彼女を頭から地面に叩きつけた。
「まったく――」
恐らくは「無駄なことを」と言いたかったのか、それとも「妙な技を使う」とでも言いたかったのかもしれない。だがそれ以上の言葉が紡がれることはなかった。代わりに漏れたのは苦痛による絶叫だ。
先ほどまで余裕の笑みを見せていた灰色の老人が恥も外聞もなく右手を抑えて苦しみもがき始めた。それは通常の痛みとは明らかに違うものだったのだろう。先ほどまで一之宮の足元でもがいていた百足や蟷螂と同様に苦鳴を漏らす。その様子を見て麗さんは「迂闊なヤツだ」と嘲笑うと、脂汗を流して苦しむ四道宗貴に教えてやった。
「ほら、早く対処しろ。解ってるだろ?」
「…………っ」
一瞬の逡巡の後、四道宗貴は左手で手刀を形作り、それをそのまま自身の右腕に叩きつけた。遅れて聞こえて来た重い音は、彼の右手が切断された証左だ。
自らの腕を落とす。普通ならば正気を疑う行動だ。だがそれで激痛が収まったのか四道宗貴は先ほどよりも苦痛の和らいだ顔で一之宮を睨む。それが元々の性能なのか、それとも術か何かで呼び出したのか、切断された腕の断面からは蛆のような生き物が湧き出てその傷口を塞いでいた。
麗さんはそれを見て「よく出来ました」と嘲笑する。だがあとはもう一方的だった。
四道宗貴は次々と蝦蛄のような怪異を、天牛のような魔物を、蛭のような化物を呼び出すのだが、それら怪物達は一之宮に触れた途端、狂ったように苦しみだし、そのまま絶命してしまう。
次第に追いつめられていった老人は苦し紛れに何かの術を使おうとしたようだが、印は空を切るだけで何も起こらない。そのすぐ後に麗さんを睨みつけて罵声を上げていたから、きっとこの人が何かをしたのだろう。
そうして彼はついに一之宮に捕まってしまう。
彼女は先ほど自分が宣言した行いを彼に適用した。
叩きつけて、切り刻んで、すり潰したのだ。
ぐちゃぐちゃに、潰して、崩して、踏みにじられた四道宗貴の残骸を見て一之宮は満足したのか、彼女は蕩けるような笑顔を僕に向けて言った。
「あしびくん。わたしやっつけました。あしびくんをいじめたわるいひとをやっつけました。つぶしてくずしてふみにじってやりました」
白いワンピースを赤黒いもので染めた彼女は童女のような無邪気な顔で僕に言う。
「ほめてほしいです。あたまをなでてほしいです」
「うん、ありがとう」
縛られていた身体を開放された僕はお礼の言葉を口にする。
そうだな。彼女が望むように頭を撫でてあげよう。黒髪を梳くようにゆっくりと頭を撫でるんだ。ほとんど消えかかっているんだけど、一之宮の頭部には正中線上にまっすぐの傷があって、それに沿って指を這わせると喜ぶんだ。
左足に力が入らないのだが、何とか立ち上がろうとして――
「やめとけ」
間に割って入ったのは麗さんだ。
「今、アイツに触られたら死ぬぞ」
言われて僕はハッとする。確かにその通りだ。今の一之宮は明らかに正気を失っている。きっと彼女に触れた途端に四道宗貴と同じ目に会うことだろう。
「うるはさんじゃまするのですか?」
「邪魔というか……まぁ、そういう結末も、それはそれでお前たちは満足なのかもしれないが、別に今じゃなくてもいいだろ?」
僕と一之宮の顔を見比べて魔女のように嗤う。皮肉と嘲りと、ほんの僅かに憐憫の混じった笑みだった。
「特に今回は私の不始末と言えないこともないからな」
そうして僕を見下ろすと「特別にタダで仕事をしてやる」と嘯いた。
「どうしてじゃまするのですかあしびくんにほめてほしいのにじゃMAするのデすKAホメテ■シ□□NIヒト□□なRI□□ノ■ドウシTエジYYYャマスRRRウので■ヒ■TTUU□□□タI□□■■――」
「やれやれ、欲望丸出しでまるで餌を強請る燕の雛じゃないか。みっともないお姫様だな……なぁ、王子様?」
魔女は笑う。
そうして幽鬼のような虚ろな瞳で睨む一之宮を前にして楽し気に言った。
「来いよ。堪能してやる」