【第十二話】
慶兄さんに電話をしたのは駄目でもともとだった。まさに藁にもすがる思いだ。思い出したのはほんの三カ月ほど前、親戚同士の酒の席で言った一言。
霊能力者だの幽霊だのはもう沢山だ。
それはつまり慶兄さんには一之宮と同じ力を持った知り合いがいる。家には時おり訪れるものの、普段電話がかかってくることのない親戚からの急な電話に慶兄さんは驚いていた。きっと僕の電話の内容も支離滅裂で、何も知らない人間が聞けばきっと気がふれていると思われる内容だっただろう。だけど僕の声を聞いている内に慶兄さんは静かになり、最後に一言「分かった」とだけ言い、僕にしばらく電話を切って待つように伝えた。
電話が再び鳴ったのは10分後。知らない番号からだった。電話の声の主は女性。名をナカツカサウルハと名乗った。どうやらこの人が慶兄さんの知り合いらしい。どこからが苗字でどこからが名前なのか迷ったのが電話越しにも判ったのか、彼女は笑いながら「麗と呼べばいい」と言ってくる。
そうして指定された住所にすぐに向かう。そこは僕の住んでいる町からわりと近い場所で実際に近くを何度も通ったことがあるような所だった。4階建ての雑居ビル。ただし看板らしきものは何もかかっていない。だけど前に来たときに違和感を感じた。「ここにこんな建物があっただろうか?」もちろん見た目はただの雑居ビルなので記憶に残っていなくともおかしくはない。ただ漠然とした違和感を感じながらもビルに足を踏み込んだ。
ガラス戸を超えて中に入ると女性が一人立っていた。ビルの外から見た時は明らかにいなかったはずが唐突に現れる。だけどそれくらいではもう驚かない。何しろこの人――中司麗は一之宮と同類なのだ。パンツスーツに腰まで伸びた黒髪を飾り気なく後ろで一本に束ねた眼鏡の女性。ゆっくりと歩く仕草はどこか猫科の大型肉食獣を思わせた。
僕は必死にこれまでの経緯を説明する。見たままのあまり上手な説明ではなかったが、そんな話を聞き中司麗は楽し気に頷き相槌を打つ。そして一言「そうか」と頷き、一之宮を助けることを了承してくれた。報酬もなく、それにかかるコストを支払うこともなく、ただ「面白そうだ」という理由で了承してくれた。そんな都合の良い展開に僕は何の疑問もなく安堵する。そんな僕を見て中司麗はメガネのレンズ越しに厭らしく目を細めて告げた。
今回の件で対価はいらない。
ただし一之宮を助けるには当時の状況があまりにも不明だ。
なるべく詳しい情報がいる。
僕の見た限り一之宮は忽然と消えた。
だからそれ以上、説明のしようがない。
それこそスマホのカメラで撮影していれば別だが、あいにく録画などしていない。
そんな僕に中司麗は楽し気に囁いた。
カメラならある。
お前は見たのだろ。
ならそれがカメラだ。
情報はそこに蓄積されてある。
ああ、なるほどそういうことか。
対価は要らない。
ただし手段は必要だ。
まったくもってその通り。
そしてその手段はたまたま僕が所有していた。
それを提供するのだ。
良かった。
そんなことでいいのなら、そうしよう。
まるで何も問題ない。
そんな僕の言葉を聞くと中司麗はきょとんとした顔で僕を見て、そしてゲラゲラと声を上げて笑い出した。先ほどまでの厭らしい笑みではない。腹の底からの爆笑だ。そうしてひと仕切り笑った後「お前のことが気に入ったよ」と言い、初めて僕の名前を呼んだ。
そう言って中司麗は手を伸ばす。
その指先は白く嫋やかでありながら、どこか鋭利な刃物を思わせた。
彼女は僕の右の眼窩に指を伸ばして―――