【第十一話】
目が覚めたとき、半分の世界に映っていたのは灰色の老人だった。
身体は動かない。どうやら手足が縛られているようだ。だだっ広い倉庫か何かの隅っこに僕は転がされていた。
「やあ、目が覚めたかね」
「えっと……?」
自体が飲み込めない。数瞬して老人が怪訝な顔をするのを見て、ようやく僕はこの老人にさらわれて、縛られて、転がされているという事実に気づいた。
「ふむ……あまり要領はよくなさそうだ。所詮はあの女狐程度の弟子ということか」
「たぶん弟子じゃないですよ」
「そうなのかね? まぁ、それならそれで構わないんだがね」
「構わないんですか?」
「ああ、来週にはソビエトに亡命するのでね。その前にあの女狐に意趣返しが出来ればそれでいいのだよ。君はあの女狐の関係者なんだろ?」
「いちおう聞きますが、女狐って麗さんのことですよね?」
「ああ、そうだ。あの薄汚い盗っ人の女狐のことだ」
紳士然とした老人の肌から怒気が滲み出る。何をしたのか知らないが、麗さんはこの老人に余程のことをしたらしい。
「ふむ、そうだな。このままただ痛ぶるのも興が乗らないな。君はこれっぽっちも悪くないのだが、あの女狐をしっかり恨んでもらいながら死んでもらおうか」
穏やかな表情のまま狂気じみた提案をする。
「まずは自己紹介とするか。私は四道宗貴という者だ」
「しどう?」
最近聞いた名前だ。
「数字の4の四道ですか?」
「如何にも十家がひとつ四道の末である」
自身に満ちた声で灰色の老人は応える。しばらく前に一之宮から四道と六峰は潰えたと聞いていたのだが、それをこの老人の前で口にするのは危険な気がした。
「それで……その四道さんが、どうしてまた?」
「ふむ、そうだな。城や領地については知っているかね?」
老人は僕に尋ねる。城と領地。もちろん一般的な日本語としては知っているが、恐らくこの老人が聞いているのはそういう意味合いではないのだろう。僕の疑問を即座に感じ取ったのか、老人は幾分ガッカリした顔で僕に伝えた。
「ふむ、何も知らんか。まぁ、簡単に言うとあの女狐は私から財産を強奪したのだよ。君が先ほどいたあのビルはそもそも私の持ち物だったのだ」
「え!?」
これはには素直に驚いた。ビルをまるごとかっぱらうなんて如何にも麗さんらしいエピソードであるが完全に犯罪だ。
「いやはや、あのときは本当に参ったよ。まさかこの四道宗貴があんな10代の小娘に不覚を取るとはね。不意打ち、だまし討ち、搦め手、よくあれだけ卑怯な手を思いつくものだ」
「実に……麗さんらしいですね」
「ほう、君から見てもやはりあの女狐はそういう手合いか。ならば話は早いな」
だったらお前も死んで当たり前だ。そんな自然な表情で老人は僕ににじり寄る。
やばいな。ここ2年くらい感じていなかった、久方ぶりの命の危機だ。
「あの女狐には卑劣な手段でこっぴどい目に合わされたのでな、この国を経つ前に報復しておきたいのだよ。そのために餌になってもらう。君はあの女の弟子ではないが、それなりに気に入られているだろ。それにあの女狐は短絡的だ。自分が侮辱されたのだと知れば目くじらを立てて乗り込んでくる。手土産を持ってな」
「手土産?」
「そう。だから君を餌に選んだのだ」
これから行う麗さんへの復讐戦が余程愉快なのか四道宗貴は楽し気に唇を歪めた。
「君は虫は好きかな?」
「え?……ムシ、虫ですか?」
「如何にも」
「いえ、どちらかというと苦手な方ですかね」
「そうか。それは善哉だ」
ちっとも善いことなんてないんだけど、四道宗貴はまるで孫がお年玉を喜んでくれたみたいなおだやかな笑顔を僕に向ける。
まずいな。少しでも時間を稼ぎたくて話を合わせていただけど、この辺りが限界らしい。
「虫というと現代では現代では昆虫、もしくは蜘蛛や百足といった節足動物を指すことが多いのだが、昔の日本では獣や鳥や魚以外の小動物の総称として使われいた。ようは足が沢山ある、もしくは足のない生き物をとりあえず虫というカテゴリーに当てはめていたわけだ。もっとも更に古代まで遡れば生き物全てを虫と呼称していのだがね。人間からミノムシまで全て虫だ。面白いとは思わないかね?」
「さ、さぁ……どうでしょう」
「そうか。共感してくれなくて残念だ」
わざとらしく肩をすくめて見せる。その表情もちっとも残念そうなものではない。
「さて、虫の話の続きだが、古来人間の体の中には小さな虫がいて人間の心身に影響を与えるとされていた。鬼胎、脾ノ聚、頓死の肝虫、今でいうところの細菌やウィルスのようなものだ。これが身体の中で悪さを始めると熱や咳や悪寒に苦しめられる。これは現代人にもイメージがしやすいな。そして虫は人の感情にも影響を与える。疳の虫や腹の虫といった言葉は現代にも残っているだろう? この「虫」というのはまさしく体内に虫がいるためだと考えられていたのだよ」
「な、なるほど……」
「そしてこういった感情の虫というのは細菌やウィルスと違って、まだ現代でも見つかっていない。まぁ、見えないだけで居るのは自明の理なのだがね」
ぞわり……と、怖気の走るような声音で四道宗貴は僕を見る。
その視線に肌が粟だった。
その様を見て彼は笑う。
「ふむ、虫が蠢いたな」
「え?」
「慄蟹だよ」
「りつ……げ?」
多分、これ以上聞いてはいけなかったのだろう。だが僕はすっかり四道宗貴の術中にはまってしまっていた。
「腎冷の虫ともいう。怖いとコイツが悪さをするんだ。ほら、そこだ。足元にいるぞ」
「――――っ!」
言われるがままに足元を見れば、そこには蟹がいた。掌ほどの大きさの蟹だ。青黒い甲羅には茶色い斑点があり、左の鋏が嫌に大きい。ただそれが普通の蟹と違ったのは目だ。頭の先にある本来は黒いはずの目の部分がまるで人間の眼球のようにギョロリとこちらを睨んでいる。そいつと目が合って僕は思わず悲鳴を上げる。
ぞわぞわと気持ちの悪い音と感触が足を伝う。不気味な蟹が左右で八本の脚で僕の左足の先から脛にかけて登って来たのだ。その気味の悪さに思わず振り払おうと足を動かすのだが、縄で縛られた身体は満足に動かない。
「ああ、いかんな。怖がるとそいつは増えるぞ」
「え??」
見れば青黒い数は二匹に増えている。いや、それどころじゃない。気づけば3匹4匹と数を増している。その4匹の8つの目がギョロリと僕を見る。人間で言う白目の部分に網のような真っ赤な血管が浮き上がった生理的な気持ち悪さを呼び起こさせる視線だ。それに慄くと同時に蟹はさらに数を増やしていく。気づいたときには左足にびっしりと蟹が張りついていた。
そのうちに蟹はズボンの裾から拭くの内側に入り込む。
八本の足がザワザワと肌の上を這う。
「さて、次はうめき声でも上げてもらおうか」
「!?…………っ!!!!」
それが何かの合図だったのか、強烈な痛みが左足に走る。まるで鋏で肉を無理やりに抉られるような激痛だ。それも一か所ではない。脛や腿や足の指の先まで、同時にだ。
あまりの痛みに逃げ出そうとするのだが、縛られている身体は芋虫のように床の上を転がるのみだ。そうして四道宗貴は楽し気に嗤う。
「さて、あの女狐が来るまではもう少し時間がある。それまでしっかりと苦しんでもらおうか」