導き星の子
月のない常闇のごとき夜、フェレは生まれた。
地平線にまで星が降り落ちる夜だった。きらきらと瞬く星々も口々に彼の誕生を祝福する。母親は浅い呼吸を繰り返しながら、腕の中に赤子を抱き寄せた。天の川のほとりから生まれた少し湿った風が、母の手から熱を奪い赤子の頬を撫でながら言う。
「じきに、心優しい旅の芸人たちが近くを通る。赤子の泣き声を聞きつけて、君たちを見つけてくれるさ。安心して眠ると良い」
風は母親の瞼を下ろしてやり、少しの間、生まれたばかりの赤子に子守唄を歌ってやった。
風の言葉の通り、フェレは気の良い旅の一座に拾われた。彼らは名も無き女の遺体を丁寧に弔ってくれた。へその緒も取れない赤子を代わる代わるに抱いてやり、産湯に浸からせ、山羊の乳をやり、辿り着いた街の名からフェレと名付けてやった。
子供の成長は早いものだと団長は言う。
フェレが七つになる頃には、もう一人前に舞台に立っていた。
時には無邪気な少年として。崇高たる天使として。無垢な少女として、観客の眼前に君臨する。
彼が石の台座に立つだけで、観客は息を呑んだ。仮面の下の輝く眼に飲まれる。瞳のなかに恒星を飼っているのだと誰かが言った。力強い光を放つその眼は、人を惹きつけ離さない。
芝居に長けた少年がいるという噂は、国から国へと広まっていった。
フェレが十二になった年のこと、一行はヴァルネシアに招かれた。
良い果実酒をつくると有名な地方というだけあって、行商人や旅人の姿も多く見受けられ、活気が溢れている。
宿に荷を預け、フェレはいちばん年の近いメロエトと共に劇場の下見帰りに街を見てまわることにした。
メロエトは十六で、褐色肌に金髪を短く刈り上げた、神秘的な声をもつ少年だ。合唱隊の一人で、その素直さで誰からも頼りにされている。
大人びた言動で勘違いされやすいフェレのお目付け役でもあった。
天上から降り注ぐ穏やかな陽射しは、白い石造りの街並みと、地平線のブドウ畑の青々とした葉のコントラストを鮮やかにする。大通りには露店が立ち並び、青果や花、占い師が客を引いている。
育ち盛りの二人はついつい肉の焼ける香ばしい匂いのする方へ足が向く。テラス席まで人でいっぱいの大衆食堂に行き当たったが、運良くカウンター席に空きを見つけ急いで陣取った。
店主おすすめというさっぱりとした白身魚のフライと焼いたチーズ、脂ののった羊肉の串焼きに舌鼓を打つ。
「随分と繁盛しているね」
昼間から乾杯しているテーブル客を横目にフェレが呟く。
「祭りかなにかあるのかい?」
揚げ物のジュワジュワと油の跳ねる音に負けないようメロエトが店主に尋ねれば、恰幅の良い店主は上機嫌に答えた。
「ヴァルネシア候ライニオ家の一人娘、ヘルヴィ様の御婚姻が決まったのさ! なんと、お相手はスランド家の第三王子だ」
「スランド家っていうと、カンヴァリア候か。今半島でいちばん勢力がある」
入店して三度目の乾杯の音頭に掻き消されたかと思ったフェレの声だが、店主にも聞こえたらしい。肉塊を豪快に盛りながら大きく頷いている。
「そうさァ。二十年ほど前は何度も攻め込まれてヴァルネシアもかなり落ち込んでいたが、ヘルヴィ様の母、侯爵夫人ヴェーラ様が嫁いで来られてから、なにもかもがうまくいっている。美しい上に聡明な方でなあ」
結局二人が料理を食べ終えるまでの間、店主はひたすらにライニオ家の英雄話を話してくれた。
「話を聞けたのはちょうどよかったけれどね。前の街で聞いていたより無駄と誇張が多かったかな」
店を出たフェレは冷静に感想を述べる。そうかな、とメロエトは小首を傾げた。
「よほど領民から好かれているのだと思ったけど」
「平和な街だとは思うよ」
宿に戻ると、思い思いに過ごしていた団員たちが集まって打ち合わせを始めるところだったので、二人もその輪に加わった。
劇の打ち合わせを終えると大人たちが酒盛りを始めてしまったので、フェレは一人、劇場までやってきた。メロエトはお酌をしたり料理を運んだりと忙しなくしていたので置いてきた。
侯爵夫人ヴェーラの采配でつくられたというこの劇場は、様式こそ一般的なそれだがステージの広さと客席の数は半島屈指のものだ。
屋外ステージだから、移ろいゆく空が見える。青空は東の空の端へと押し流され、紫とオレンジで染め上げた色面にせっかちな星たちが顔をのぞかせ始めていた。
どの街にいても、この空は変わらない。天空の神の統べる空。夜の女神の瞳も空に浮かぶ。
半円を描くせり出したステージの端から端まで歩数を数えながら歩く。広々としたステージに立つのも今はフェレのみ。階段状になったがらんどうの客席も、舞台から見れば圧巻だ。
そのうちの一段に人影があった。
フェレとそう年の変わらない少女だ。
身につけた服飾品は暗がりで見ても一目ですべて一級品とわかるもの。キトンやヒマティオンには汚れひとつなく、身につけた宝飾品が斜陽を受けてきらきらと光を反射する。銀めく金髪は頭頂部で編み込まれ、ウェーブを描きながら腰のあたりまで伸びている。彫刻のように均整の取れた顔に収まる気の強そうな瞳は、黄昏時の暗い色を包み込んでいた。
昼間話した食堂の店主が「母娘揃ってとんでもない別嬪さんでなあ」と言っていたのを思い出す。
名乗らずともわかる。領主の娘、ヘルヴィ・ライニオだ。
「あなたみたいな子供も、舞台に上がるの?」
大きな声ではなかったが、街の喧騒から離れたこの場では充分フェレのもとにも届いた。
「君みたいな子供が嫁入りするような世の中だからね」
「私が誰だかわかっていて嫌味な言い方をするのね。芸人風情のくせに」
「その芸人風情に随分食ってかかるじゃないか」
フェレが言い返したのが意外だったのか、ヘルヴィの目が丸くなる。すぐに口を開いたが言葉は出ず口を閉じ、また何か言おうとするのをさらに二度繰り返した。結局何も浮かばないのか目を泳がせ、諦めたように溜息をついた。
「ごめんなさい。喧嘩を売ろうと思ったのではないの」
と真正直に頭を下げた。今度はフェレが目を丸くする。
「意外と素直だね」
呆けた物言いに一瞬ヘルヴィは眉を顰めたが、ふ、と笑みをこぼした。
「あなた、友だちいないんじゃない?」
「本当に素直だね」
言い返しながらフェレも肩の力を抜き、舞台を降りる。
「嫁入り前の姫君が、こんな暗い時分にひとりで男に逢いに来るなんて、僕が怒られやしないかい」
「護衛兼証人がそこにいるから、大丈夫よ」
ヘルヴィが指さす方へ視線を向ければ、確かに少し離れた木の陰に人影が見えた。
「あなたの噂を聞いてからずっと、あなたと話してみたかったの」
「自分の才能に胡坐をかいたクソガキがいるって?」
「誰かに言われたことあるの?」
「冗談。何か僕に聞きたいことでもあったのかい」
ヘルヴィとは距離を置いたまま、フェレも客席に腰を下ろした。
ヘルヴィの護衛も、暗くて顔は見えないが、観客席に降りてきているのが視界の端に見える。もちろんフェレにはヘルヴィを傷付ける理由がないので護衛の存在はさほど気にならないが、大事な婚姻を控えている夜にどこの馬の骨とも知れない子供と会いたがる主人を持って気の毒だなと他人事ながらに同情した。
「別に、何か話したいことがあるわけではなかったけれど……。どうして役者になったの」
「実母は僕を生んですぐ死んだらしい。拾ってくれたのが今の劇団だったから。物心ついた頃には舞台に立っていただけだよ。幸い才能があったから続けているのさ」
何の参考にもならないだろう、と続ける。
ヘルヴィは両手で頬杖をつき、思案気な顔で空を睨んでいる。
「私、自分で言うのもなんだけど、何不自由なく暮らしているのよね。あなたみたいになにか才能があるわけではないかもしれないけど、顔はいいし、教養もあるし、愛敬だってある。玉の輿が確定したから、きっと今後もそうなんでしょう」
ヘルヴィの顔は曇ったままだ。
「与えられるだけの生活なんだろうね」
「そう……、そうなのよね。だから、違う世界を生きる人の話が聞きたかったんだわ」
ひとり納得したように頷いている。
「この街で生まれ育って、ここ以外の場所なんて知らないのに。まったく知らない土地の、会ったこともない、二十五も年上の王子様のところに行かなくてはならない」
「僕からしてみれば、ここだってまったく知らない土地だし、君のことなんて年齢すら知らないぜ。それでも、自分の目で見て、言葉を交わして、知ることができる。君だって現に今そうしているじゃないか。見知らぬ人間のもとに自ら尋ね来て、こうして会話している」
いつもと変わらぬ夜が迫っている。北の空にも導き星が出遅れながら淡い光を放ち始めた。
虫の音とヘルヴィの呼吸音が聞こえる。
「君には歩ける足と考えられる頭がある。悩める心はどうとでもなる。ものの見方を変えればいいんだ」
フェレは立ち上がる。
「君、演劇は見たことあるのかい」
「この街に劇団が来たのは、あなたたちが初めてよ」
「楽しみにしていると良いよ。きっといろいろな見方ができるから」
*☆*☆*
公演当日は雲の切れ間から太陽が覗く、穏やかな朝だった。ヴァレリア中から、演劇とはいかなるものかと観客がやってくる。
ヘルヴィは最前列の貴賓席で両親の隣に座っていた。父は興味なさげにぼんやりと、母は無表情に舞台を見つめている。
舞台奥の壁面は神殿にあるような柱が三本立ち、それぞれ凝った装飾が施されている。あの間から役者が出入りするのだろう。
おもむろに舞台の端に合唱隊が楽隊とともに現れた。全部で十人程度だ。白い服を着て、神妙な面持ちでなにかを待っている。観客が何事かと見守る中、厳かな旋律を奏で始めた。
合唱隊が詩を謳い始めれば、ヴァレリア人とカナイ人の戦争の唄であることはすぐに観客たちに察せられた。ヴァルネシアに伝承される昔話のひとつだ。六十年ほど前に勃発したこの戦いは、ヴァルネシア候の起源とも言われる。
すなわち、ヴァルネシア候ライニオ家のための物語。婚姻を控えたヘルヴィに向けた、ライニオ家の血の繁栄を祈願する祝福の儀式。
合唱隊が一節歌い終えると、武装し仮面をつけた二人の逞しい男が現れる。観客はどよめき、そして静まった。
衣装と仮面から、ヴァレリア人の英雄ライニオと蛮族カナイ人の首長ドラニリだろう。
槍を交わし、金属のぶつかり合う音が生々しく耳を突く。争う二人の気魄に目を奪われる。荒々しくも美しい。異国の舞いのようでもあった。
しばし膠着が続く。観客は思わずこぶしを握り、茫然と口を開ける。
合唱隊が不安定な音律で緊迫した空気を盛り上げる。
拮抗の末、英雄ライニオが倒れ、カナイの長がとどめと槍を振りかざす。
一切の音が止み、二人の動きが止まる。
ヘルヴィは、観客は、息を呑む。口の中が乾く。汗が引き、鳥肌が立った。
舞台の奥から現れた、黒いヴェールを被った女役――女性は舞台に上がれない――に全ての目が釘付けになる。
ちょうど雲間が切れ、舞台を照らし出した。手足の一部だけが素肌を晒している。召し物はすべて黒。
何をするでもなく、ただ立っている。どこからともなく漂う甘い花のような香りに頭の奥が麻痺していく。息をするのも忘れてしまう。
伝承では、英雄ライニオは一度蛮族により斃されたが、冥府の女神の導きによって再度立ち上がり、ついにはカナイ人たちを打ち破ったという。
冥府の女神は夜の女神とも同一化され、黒の装束を身に着けているとされる。
女神はゆっくりとライニオのもとへ歩み寄り、その傍らに膝をつく。
歌が再開すると女神はライニオを抱き起こした。立ち上がったライニオは女神に深々と頭を下げ、槍を握る。
カナイの長は後ずさる。そこへ女神はヒマティオンを靡かせ長の方へ駆け寄った。薄い黒衣が光を浴びて、その軽さとよりいっそうの黒さを見せる。
カナイ人は恐れ多くも女神に向けて槍を振るう。しかし槍は見えない力に阻まれたように弾き飛ばされた。丸腰になったカナイ人へライニオが槍を突き付けた。カナイ人は逃げるように舞台から退散し、女神も後を追うように捌ける。
祝福のコーラスと共に英雄が凱旋の行進をして、舞台は終わった。
観客たちは興奮冷めやらぬ様子でそれぞれの帰路についていた。フェレたちも撤収の準備をし始めたところだ。明日の朝にはまた、次の街へ旅立つことになっている。
「やっぱり、あなたが女神だったのね」
黒衣のままのフェレにヘルヴィが飛び跳ねるように駆けてきた。フェレの手を握り、素晴らしかったと声を漏らす。
「あの二人もすごかったけど、あなた、顔が見えなくとも美しかった。本当に女神様が現れたのかと」
「最大級の賛辞だ。ありがとう」
ヘルヴィと変わらぬ目線。華奢な腕や細い首にもうっすらと筋肉は見え、その声は掠れ低くなりつつある。今ヘルヴィの前にいるのは、やはり、大人の男になりつつある一人の少年であった。しかしあのとき、舞台に立っていたのはまごうことなき一柱の女神だった。そこにいるだけで人智を超えたものだと感じさせる、強い力があった。
「すべての絶望を焦がし尽くす強い光だった。あなたは私の希望の光」
頬を紅潮させるヘルヴィへ、フェレは少年の笑みと女神の身ごなしで応えた。
「君の行く手に光あらんことを」