未来
Aが私の小説を読みたいと言い出し、再びお題小説をしていたときのように書いたものをAに届ける日々が始まってから、Aの読書量は飛躍的に上がっていたようでした。それというのもこれまで書いてきた読者不在の小説は特に時間制限も制約も設けず気の赴くままに書いたものでしたから、枚数もお題小説の時とは比較にならないくらいあったのです。最初の小説だけでも原稿用紙換算で七十枚はあったでしょうか。そこから段々と量が増えていって、一番新しいものは既にその倍近くの量になっていました。おかげでAは国語の問題を読むのがとても速くなったと喜んでいて、そんなところにも自分の書いたものが影響していくことに、私は少なからず驚きました。
秋風が肌を冷たく撫ぜるようになり、志望校が大体固まってきた頃、私は休日に頻繁に模試を受けるようになりました。思うように執筆時間が取れなくなりましたが、例の長編小説の構想を練りながら、思いついた話を書くことは相変わらずしていましたし、それをAに見せるのも続けていました。あるときAに交換日記を届けに行った際に、読み終わったという書き溜めた小説の感想を聞くことができました。
「これはまた、何だか野蛮な話だね」
第一声で手厳しい意見でした。結末が暗い話だったので、そう思うのも無理はないかな、と予想してはいましたが。
「うん、ちょっとやりすぎたかな?」
小首を傾げて問うとAは、やりすぎってほどでもないけど、と言葉を足しました。
「何だろう。読んでも何が言いたいのかさっぱり伝わってこない」
「はは。ずいぶんばっさり言ってくれるなー」
「話の筋としてはわかるんだけど、何がウリなのか見えてこないんだよなあ。ストーリーが今までと大体同じで、ちょっとワンパターンだし、純文学みたいな不思議さとか言葉の面白さで魅せるにはぶっ飛び方が足りないし、全体的に中途半端だよ。今まで読んだ中ではお題小説後半といい勝負」
「おお、そこまで行っちゃうんだ。割とまともに考えて構成しただけにちょっと残念」
小説に対して褒められることはあまりありませんでしたが、ここまで手厳しく言われたのは初めてだったので内心では相当に傷つきながら苦笑いを浮かべました。が、Aはなおも食い下がりました。
「これ結局何が書きたかったの? 主人公の死? 周りの登場人物たちのドロドロ?」
「どっちもというか、最初にやりたかったのは周りの登場人物のカオスな関係かな。そこから主人公を作り上げていったら、最後はこいつ殺しておかないと何も役に立たないなって思っちゃって」
「それなら主人公を周りの人物を奮い立たせるような性格の人物造形しておいた方がよかった気がする。やっぱ主役は回りと違って抜きんでる何かがないと、物語を見ている方としては面白くない。××ちゃんが主題に何を持って来たいのかはがっつり書けばいいと思うし、否定もしないけど全体的なまとまりを考えると主役は主役として立てる形にしておいた方がいいよ」
「なるほど、ありがとう。じゃあ今度はそれを意識してみる」
Aに手渡された原稿を受け取り、鞄の中に仕舞いました。酷評を受けながらも次回へのアドバイスを受けられたような気になりましたが、Aは私のことなど特に気にした様子もなく、眼鏡を取ってハンカチでレンズを拭き始めました。ぼんやりと焦点の合わない目に手元を近づけて、熱心に指を動かしています。眼鏡の汚れが気になるでしょうか。口でレンズに息をはあと吹きかけて、眼鏡ケース付属の柔らかい布越しに指を滑らせています。それにしても拭き過ぎな気もしました。
「そんなに拭かなくても大丈夫だよ」
「ん」
私は笑って言いましたがAは水晶玉を磨くような手つきで丁寧に拭き続けています。
「何かね、最近、またいろいろなものが見えなくなってきてて」
言いながら、レンズに息をはあ、とかけてまた布越しにこすりました。
「よく拭いてるんだけど」
「それ、眼鏡のせいじゃなくて、視力が落ちたんじゃない? 勉強してるんだし。最近私も度が上がったよ」
さすがのAでもそんなことに気付かないことはないだろうと思いましたが、気の抜けた返事がくるばかりでした。
「まあ、もちろんそれもあるんだろうけど、他にも」
「他って?」
眼鏡を拭いていた手を止めて、ハンカチをポケットに仕舞いました。かけなおすと遠くを見るように目を細め、少し息を吐き、思い切ったように口を真一文字に結んでいます。何となく、訊いてはいけないことを訊いてしまったような気分になりました。しかし今更、引き返す道はありません。
「前にさ、私には作者の考えが読める、って話をしたじゃない」
「うん」
「あれね、実はもう、見えないんだ」
「……」
「いや、見えないと言うと少し嘘になるかな。ほとんど見えない。だからさっきの小説も、何が言いたかったのかわからなかった。もう、前みたいに世界が二重写しになるような感覚はなくて、今はただ文字通りの物語しか見えないんだよ」
どういうことでしょうか。淡々と言ってのけるAに対して、混乱しているのは私の方でした。確かにAは自分の能力のことを、邪魔だとしか思っていなかったかもしれません。本を読むときには必要ない能力なのだと言って、ずっと前に、読者は作者の気持ちなど、知らなくてもいいのだと話していました。ですが私からすればAの不思議な力は今の私を作るきっかけとなったものであり、これまで私を支えてくれていたありがたい力でした。あの能力がなければAではない、などと冷たいことをいうつもりはありませんが、空を見上げてふと月が雲に隠れているのに気付いたときのように、当たり前にあるものがないことへの不安な陰りがその時の私を満たしました。
「……そっか。よかったじゃない」
しかし、私の口をついて出たのは全く逆の歓迎の言葉でした。
「だってさ、前に、その力があると大変だって、話してたでしょ。受験の時期に国語の問題で、作者の気持ちを答えなさい、って問題に答えにくくなるのは残念だろうけど。これで普通の人と同じように、ううん、それ以上にたくさん本が読めるなら、悪い話ってわけでもない」
Aは表情を崩さずに私の話を聞いていました。真剣な目は何を語ってくれるわけでもなく、腑に落ちていないようにも見えましたし、納得しているようにも見えました。
「まあそうなんだよね。目はすごく悪くなったんだけど、読むスピードも速くなったし、言うとおり大して悪い話じゃない。とはいえ、今まで見えていたものが見えなくなると、それはそれで違和感がね」
「まあそうだろうけど」
何気なく破頑したAに安心しました。気に掛けてはいるけれども、日常生活に支障がなければよい、ということでしょうか。陰りを抱えつつも、私も緊張が解けました。
「いつからなの? それ」
あー、と思い出すように瞳を逸らして考えて、もう一度こちらを見ました。
「明確には覚えてないんだけど、段々見えなくなっていった感じ。多分、××ちゃんが結末よく書き変えてたころが最初かな」
それから最近急に酷くなった、と付け加え、Aは椅子から立ち上がりました。もう最終下校時刻になっていました。Aが今日は一緒に帰ろうと誘ったので、私たちは並んで教室を出て、下駄箱へと続く階段を降りていきました。
「ところでさ、勉強の方はどうなの××ちゃん。もう行きたいところ決めた?」
玄関に着いて下足入れから落とした靴が着地してモルタルに反射する音を立てるとき、Aが思い出したように言いました。私は頷いて、同じように下駄箱から自分の靴を取りだしました。
「うん、とりあえず、どこの大学とかは決めないで、文学部を受けようかと」
Aは大きな声でほおう、といい、ふんふん首を縦に動かしていました。本好きで小説を書いていて、文章に対して一際熱心な普段の態度からすれば、そのチョイスは当然だよね、というような反応でした。
「偉いねえ、××ちゃんは」
「どして?」
「私は、そういうのないから。とりあえず先生に勧められたところ受けてみようかなって。塾の先生に聞かれてもいっつもどうしようかなあ、で逃げてるし」
行きたいところとか言われてもねえ、と言って踏み潰した踵を指で起こし、つま先で床を叩きます。
「ちゃんと決めた方がいいよ、将来のことなんだから」
「や、それは分かってる。分かってるんだけどさ、見えないんだって」
「何が」
「将来」
何を言い出すのかと思えば、またさっきの話の続きでしょうか。しかしなぜか、Aがにこにこして言ったこの一言に、私の胸は少し高鳴りました。現実にはそぐわない、思いがけない返答だったからでしょう。
「そんなの、私だって見えないよ」
靴を履くときに少しずれてしまった眼鏡を指で押し上げて、当たり前のことに当たり前のように答えました。
「そりゃあそうだね。眼鏡をよく拭いても。目を一生懸命細めてみても。全然、将来は見えないね。見えない。けど、目標が見えてる人と、見えてない人は、随分と違うものだとは思わない?」
靴を履き終えて鞄を小脇に抱え、私と同じように眼鏡を押し上げました。
「で、私にはそれも見えない」
同じような行動をしているにもかかわらず、そんなことを言いながらとそうでないのとでは、並んでいても違って見えるものなのでしょうか。先ほど心に落とされた不穏な影が、私の中で再度頭をもたげてきたのを感じて、振り切るように、ははは、と声を出してみました。
「何ですか。文章から作者の考えを読みとる力の次はまさか千里眼ですか。もう私より、Aが書き手になった方がよくない? そういう妄想も、小説の中だったら全部叶うよ。自分を主人公に据えてもいいし、好きなだけ暴れても現実には誰も困らないし。あ、何だったら試しにやってみようか、Aが書き手で私が読み手。立場を入れ替えてみれば……」
「はは、それはだめだ。私が全然面白くない」
切って捨てられてしまいました。名案だと思ったのですが。
「そういえば例の長編小説の方はどんな感じ? 気合入れてるって話だから、凄い楽しみなんだけど」
校門を出て通学路に指定されている道を、二人で駅に向かって歩いていきます。私は例の長編を書こうと考えていることを、Aとの交換日記に書いていました。自分に書きあげるためのプレッシャーを掛けるためです。そうすることで、完結させずに逃げるという退路を自ら断つことにしたのです。構想としては二百ページを超える大長編になる予定でした。
右手には田んぼ、左手には住宅街が広がる道に一つだけある自動販売機の前まで来たときに、あ、ちょっと喉乾いたから何か買ってく、といってAが立ち止まりました。硬化を入れ、何を選ぼうか迷っているようで、上から下へと目を動かしています。
私はAの後ろからひょいと顔を出してコーラのボタンを押しました。取り出し口に落下した缶が、ガコンと音を立てました。
「あ、ちょっと」
落ちた缶を拾って、プルタブを起こすと、今にも呪いをかけそうな目でAがこちらを見ていました。構わず口を付けようとしましたが缶をひったくられ、買主の手に戻ったコーラはAの喉奥へと消えていきました。一息に飲み終えると、炭酸で喉を傷めたのか、一つ咳払いをしたあと、渋い顔でAが睨んできました。
「これ! 私の一二〇円! なんで勝手に飲もうとするの」
「だって、迷ってそうだったから」
「や、理由になってないし。おかげで大して飲みたくないもの飲むことになっちゃったじゃない」
「そんなことないでしょ。結局飲んだんだし」
空いた缶を自販機隣にあったゴミ箱に投げ入れて、また歩き始めました。そりゃあそうだよ、もったいないもん、と唇をとがらせてすねています。
「じゃあそんな感じでいいじゃん」
「何が」
「志望校選びだよ。悩み過ぎても仕方ないんだって。将来が見えないとかなんだとかいっても、出たとこ勝負である程度乗り切っていかないと、時間もお金ももったいない」
「何それ。缶ジュース一本選ぶのと大学選ぶのとじゃ全然重みが違うよ」
「缶ジュース一本選ぶのに迷う人が人生で大事なこと決められるのかって話さ」
膨らませた頬をさらに大きくして、不機嫌ここに極まれりといった顔でAは隣を歩いていました。納得できそうにないAに、何かを話しても無駄だろうかとも考えましたが、私は決して間違ったことを言ってないという自信があったので、謝りはしませんでした。
「まあさ、何かを選ぶのは難しいけど、最後に頼れるのは直観だよ。よくお菓子を選ぶときにそうしてた。だから今回も妥当な道を直観で決めたんだ」
嘘ではありませんでした。小さいころ、輝かしいばかりのお菓子の棚から一つだけ選ばなくてはならないと言われたとき、最後の最後に持ち帰れるものを、私は直観で決めていたのです。値段もパッケージも何も共通点がないのでおそらくそれがそのとき一番欲しいものということなのでしょうが、それを渇望するというわけではなく、欲しいなと思うこともなく、ただ自然に手が伸びるものを、なんとなく欲しいものだと思い込んで買うことにしていました。志望校を選ぶときは、今まで自分が積み重ねてきた読書歴や執筆歴が判断材料となったのでしょうが、それも後から理由付けが簡単だったからそうなったように思えました。第一、文学部に行って何ができるのかもわからない現状では、大学に入って本当にしたいことができるのかどうかすらわからないのです。本当はやはり直観で選んで、後から理由を付け足したように、私には思えてなりませんでした。
「は? お菓子って何の話?」
「うん、今書いている小説の話」
自分でも会話の整合性が取れてないなと思い、適当にごまかしました。これもほとんど感覚的・直観的に出た言葉でした。Aは、ますますわけがわからないという顔をして、最後は興味なさそうに、ああそう、と言い捨てました。
「で、それはいつ完成するの?」
「わからないけど、大学生になってからかな」
まだ書き始めてすらいないし、とは言いませんでしたが、長くなりそうだねー、頑張って、とAが笑ってくれたので、いいかな、と思いました。