見えない
お題小説が終わってから交換日記のやりとりのみでしか言葉を交わさなかった私たちですが、高校三年の春に一度だけ、Aに買い物に付き合ってほしいと頼まれたことがありました。私は相変わらず小説を書きながら勉強を続けていた上、誘われた当日が雨の日だったので外に出る気になれず、親と行けば、とか、他の友達でもいいんじゃない、とか適当なことを言って断ろうとしたのですが、そのとき初めてAと買い物に行ったことはなかったなと気付き、では行ってみるかと重い腰をあげました。
雨の降る中を、待ち合わせ場所の公園にAは長らく見たことなかったカーティガンを着てやってきました。高校に入って以来、ずっと制服を着ていたので、Aと休日に外で買い物にいくというシチュエーションがあまり想像できなかったのですが、その日のAの買いたいものは眼鏡だったので、そのカーティガンは普段つける眼鏡に合わせようとして持ってきたものなのだそうです。
「本当言うといつも着るものなら制服に合わせた方がいいんだけど、休日まで学校の服じゃ息が詰まるからね。今日はこれに合わせることにした」
羽織ってきたカーティガンを指さしてAは言いました。私たちは公園を出て、眼鏡屋へと歩き出しました。
「それにしても、A、そんなに目悪かったっけ」
受験勉強という大きなハードルがありましたが、私の知る限り、Aはあまり勉強をしているようには見えませんでした。中学の時同様、国語の授業中はずっと寝ていましたし、他の科目で良い点数を取っているという話を聞いたことがありません。本人よりも親が焦りを感じ始めているのか、最近では塾に通い始めているようでしたが、交換日記に書いてくることは大体塾の講師の愚痴ばかりでした。なのでてっきり、目が悪くなる要因は勉強ではないと思っていたのです。しかし、Aは頷いていました。
「うん、結構前から少しずつ見えなくなっていった感じ。もう三列目より後ろだと黒板の字、見えないよ」
「そうなんだ。何か、意外」
「じゃなきゃ一緒に眼鏡買いに行こうなんて言わないよ。この間の健康診断の視力検査でも、結構見えなくってさ。眼科で検査してもらったら、今0.3くらいしかないらしい」
「ええ、そんなに!」
私はもう0.1が見えないくらいの近視でしたが、それは私が読書と勉強ばかりしているからだと思っていたので、終始走り回っているAがそれだけ視力を落としていることに驚きました。Aの目が悪くなる原因など、私には何も心当たりがないのです。それとも人は年を取ると無条件に視力が衰えるものなのでしょうか。
他愛のない話をしている間に眼鏡屋に着きました。眼鏡をかけた人あたりの良さそうな店員が、いらっしゃいませ、と笑顔で私たちを迎えてくれました。Aがその店員に、眼鏡を作りたいんですが、と話かけ、受付で眼鏡のレンズを選ぶように指示されました。
Aがレンズを選んでいる間に、私は店内のフレームを見て回ることにしました。丸型、角型、縁なし型など様々な形のフレームが、電灯の淡い光を浴びて極彩色に輝いています。日用品にも関わらず千差万別な特徴を宿す姿はまるで宝石のようで、華やかでありながらも、どこか触れるのも躊躇われるような静謐さを持っているように見えました。これらを全部持ち帰ってディスプレイケースの中に並べ、今と同じようにオレンジの照明の下で飾っておいたらどれほど美しいことでしょうか。似たようなことを、昔お菓子売り場にいるときにも感じたことがありました。色とりどりのパッケージが丁寧に色彩ごとに棚に並べられ、小分けされた袋は先頭にあるお菓子の後ろにきちんと敷き詰められているのです。棚から離れて一望すれば、照明は通路を照らしている光だけなのに、見事にそれを反射して、大都会百万の夜景よりも美しく輝くのです。
並べておくことそれ自体に価値があるような、周りと一体になってこそそのうちの一つが美しく見えるような感覚は、見る人にどことなく、その中の一つを選ぶのを躊躇わせるような声で語りかけているようだ、と私には感じられました。整然と並ぶ集合の中の一つであることにこそ意味があり、選んでそこから切り離されてしまうと、途端に魅力が消えてしまう。百万の夜景よりも美しかったお菓子は、家に帰って包みを開けるとただの食品になってしまったのが、昔の私にはとても残念でした。あまりにがっかりしたため、せっかく買ったお菓子を食べずにそのまま腐らせてしまったことさえあります。
Aが受付から立ち上がり、商品を見ていた私の方へとやってきました。店員にフレームを見るように勧められたようで、並べられた眼鏡を一瞥し、手に取り、鏡の前でかけたり、フレームの硬さを確かめるように少したわませたりしています。私はAに近寄りました。
「レンズ、決まった?」
「うん。長く使いそうだから、一番丈夫なやつにした」
ガラスだけなのにやたら高かったよ、予算足りるかな、とフレームを見たまま言いました。迷っているらしいAの傍らで、宝石のように光るフレームを、私も一緒に眺めました。
「デザインとかは? 何色がいいとか決めてるの?」
「んー、それがまだ。初めての眼鏡だからあんまり目立たないのがいいかな、とも思ってるんだけど、ちょっと大穴狙ってかわいいのもありかなと思ってる」
まあ、お金次第だね、とAは持っていた黒縁眼鏡の値札をかなり顔を近づけて見ました。一瞬大きく目を見開いてから、フレームを畳み、その眼鏡を元あった場所に戻しました。
「これはない。金額的に、ない」
見ると確かにかなり高額でした。私の持っている眼鏡の約1.5倍の値段です。どうやらどこかのブランドもののようでした。Aはまた、フレームが半分だけの別の眼鏡を手に取りました。
「下縁なしは、結構壊れやすそうだけど、どうなんだろう」
「動きやすいって話もあるよね」
「はは。私もうそんなに運動しないんだけど」
「あれ? バスケ部じゃなかったっけ」
「もう引退じゃん。高3年の春だし。これからは受験、受験、受験、ってネコも杓子も勉強だしさあ、つまんないよねえ」
てか交換日記に書かなかったっけ、とAはまたフレームを持ったまま言いました。Aがバスケ部に所属していたことは一年生の頃に日記で読んだような気がしましたが、引退の話は聞いていませんでした。私は部活に入っていなかったので、部の引退時期がこのタイミングだった、というのも知らなかったのでした。
「いや、日記には書いてなかったな。そっか。今までお疲れ様。というか、0.3の視力でバスケしてたのね」
私もAの持っている眼鏡の隣にあったものを手に取って持ち上げました。つるの部分を伸ばして少し力を入れると、金属製の眼鏡よりも弱い力で大きな角度に撓みました。
「出来ないこともなかったよ。メンバーはゼッケン着てるからわかるし、別に小さい文字を読む機会もなかったしね」
Aは持っていた眼鏡を掛けて鏡を覗きこみました。顔を近づけて、自分の写り具合を確かめています。
「××ちゃんは、部活とかしてなかったけど、今までずっと勉強?」
振り返りざまに眼鏡を外してそっと畳み、元あった場所に戻しました。
「いや、勉強もそこそこしてたけど、小説書いてた」
「まだ書いてたの」
「何かさ、書かないと逆に集中できなくなっちゃって。やっぱりネタは吐き出す場所が必要なんだよ」
私も持っていた眼鏡を置いて、Aに向き直りました。
「でもお題小説の時はどうでもいい会話が邪魔して先が書けなくなったって言ってたよね。今はどうなの」
そういえばそんなこともあった、と二年前お題小説を終わらせたときの遠い記憶が蘇りました。あれから暫くして、自ずとネタの吐き出しのために小説を書かねばと思った時、先に構成をメモしてから書き始めると、不思議とお題小説を書いていた時のように、考えていた構成が妙な会話に邪魔されることはなくなりました。何故なのかはわかりません。ただ、その後小説を書き始めてからは勉強、読書、執筆のトリプルパンチを食らったせいか、急激に目が悪くなって、こことは違う眼鏡屋で自分の眼鏡を作りました。
「へえ、じゃあ今は元通り普通に書けるようになったんだ」
「うん。ネタを思いついたら、筋書きを先に書いて、書き始めてる。そうすると、途中で何か思いついても忘れないから」
私はそのことを交換日記には書いていませんでした。それらは誰にも見せないものと自分で決めていましたし、Aはもう私の小説をつまらないものと決め付けて、読んでくれないと思っていたからです。特に隠しているわけでもありませんでしたが、自分から進んで伝えたいと思うようなことでもありませんでした。それにAには例の作者の考えを文面から読みとる力があります。わざわざ日記の内容として書かなくても、文面から私の思考を読みとれるのだろうと思っていたのです。
Aは何個目かになる眼鏡を新しく手にとって私が先ほどしたように縁を弛ませて強度を計りました。眼鏡をかけて鏡を覗き、暫くして、ああ、これは可愛いかも、と頷きました。
「どう? こんなの」
振り返ったAはオレンジの半縁眼鏡をかけていました。顔の周りがすっきり見えて色も肌になじみ、明るい印象でした。
「いいね、カーティガンにも合ってるよ。顔色がよく見える」
「ん、××ちゃんがそういうなら、これにしよう。フレーム、上半分しかないけど」
「まあ、その代わり軽くていいといえば、そうだよ。こういうのは、硬さの代わりに柔らかくして衝撃を吸収してるらしいし」
「なるほど、確かに言われてみれば他のよりちょっと軽いような」
左右の人差し指と親指で眼鏡を摘んで、上下させながら重さを確かめています。納得したように二、三頷くと、Aは値段を見て受付の方へと向かい、会計を済ませて戻ってきました。
「はい、お待たせ。届くのは三日後だって」
一たび決めるとあっさりと会計を終わらせてきたAにやや拍子抜けしながらも、じゃあ、帰ろうかと眼鏡屋を後にしました。外では相変わらず雨が降っていて、駐車場のアスファルトの窪みに小さな水たまりが出来ています。店先に置いてあった傘立てから自分の傘を取り、静かに二人で歩きだしました。
「じゃあさ、今度何か書いたら、また読ませてよ」
降りしきる雨の中を小さな声で突然言われたので一瞬何のことか分からず、少し間が空いてしまいました。が、すぐに先ほどの小説の話だとわかりました。
「珍しいね、私の小説読みたがるなんて。最近は読書嫌い直ったの?」
「まあね、直ったというか、私はやっぱり××ちゃんの小説じゃないと読めないんだなあって思って。二年前だっけ、お題小説終わらせてからさ、私、結局あれ読むの好きだったんだって気付いて。今は多少、本読むのにも慣れたかなあ」
数年経つと人も変わるということでしょうか。それとも受験勉強のために通い始めたという塾で、必然的にものを読む機会が増えてきたためでしょうか。あれほど読書嫌いだったAが私の小説を読みたがるなどということは、全く想定の範囲外でした。あまりに驚いたのでその場で手を滑らせ、持っていた傘を落としそうになってしまいました。ですが、Aは確かに、私の小説をまた読みたいと言ってくれたのです。それは長い間書き続けてきた私にとって、どれほど幸福な言葉だったでしょうか。
「本当に? じゃあまた、私の小説、読んでくれるの?」
勢い込んでAに詰め寄ると、もちろん、と元気のいい頷きが返ってきました。
「××ちゃんが今までに書いてたって奴ももちろん読むから。あとで学校に持ってきて渡してよ。それが読み終わったら、今度は新しく書いたのも読んでいくからね。だから手を休めずに、新作も書き続けてね」
お題小説が終わってからネタの消化のためだけに作られ続けた読者不在の小説たちが、一斉に「やったあ」と声をあげて喜ぶのが聞こえてきました。もう私の中では溢れんばかりのアイデアの洪水が押し寄せるようで、先ほどAと行ってきた眼鏡屋でも、フレームを見ている時に感じた宝石の輝きも、今日の雨の天気でさえも、全部小説のネタとして使えそうな気がしてきました。
「わかった、わかったよ。私、書く。受験勉強中だけど、時間の許す限り、どんどん書くし、どんなジャンルでも書くよ。Aに見てもらうために、とことん面白くする。難しい語彙も勉強する。何だったら、小説をベースにして、漫画だって、朗読CDだって作ってもいい。今までの話が気に入らないっていうなら、違う結末の書き換えをしてもいいし、同じプロットで表現を変えて書いてみるのもいい。何でもする」
「いやいや、そこまでしなくても」
「とにかく頑張るよ、また読んでくれるって言うなら」
降っている雨が私の周りだけ蒸発してしまうのではないかと思うほどの熱気で、Aに必死で作者としての気持ちを伝えました。Aは、もう、大げさなんだから、と言ってくすくす笑っていましたが、たった一人の読者を失っていた作者がまたそれを取り戻すのがどれだけ嬉しいことか、これは書いている側の人間にしか分からない気持ちだと思います。何万字にも表現しがたいこの感動を、Aに伝えるためには態度と口調で示すしかないのです。
私とAはそのまま歩いて待ち合わせていた公園で別れました。じゃあね、とブランコの前で手を振ると、待ち合わせからここまで来るのにずっと降り続けていた雨が止んでいることに気付きました。
帰り際、今度はAのために、長編小説にでも挑戦してみようか、と思いました。丁度、あの眼鏡屋で体験した、複数の中から一つ選ぶのが躊躇われる感覚を、お菓子売り場のノスタルジーに絡めて、懐かしいけれども大人になっても通じる、温かいヒューマンドラマを紡ごう。枚数はどのくらいになるか分からないけれど、今まで作ったことのないような複雑な構成と、書きたい限りの描写を思いつくだけ詰め込んで、子供が大きなおもちゃ箱を覗きこむときのような胸躍る気持ちを、Aに届けよう。そうだ、今までの小説を学校でAに渡すのも、忘れないようにしないと。こんなに嬉しいのは久しぶりだ――私は畳んだ傘の雫を振り払い、スキップして自宅に戻りました。飛び越えた水たまりが、日の光を浴びてきらきらと輝いているように見えました。