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見えない  作者: 岩尾葵
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時のプリズム

 Aは、国語の授業と本を読むことが殊更嫌いでした。交換日記をしてはいましたが、私は彼女がそのノートに目を通しているとき以外に、文字を読んでいる姿を見たことがありません。私たちの学校には、登校時間から教室で朝礼が始まるまでの三十分ほどの間、読書タイムが設けられていたのですが、Aはその時間いつも、ハードカバーの本を立てて陰になるところで目をつぶって、居眠りをしていました。国語の時間も同様です。本を読もうとする時間になるとAがいつも机に伏せるので、先生やクラスメイト達は彼女のことを眠れる森のAとか、眠り姫、などと物語の名前を取ったあだ名で呼んでいました。

 ある時私は頑なに本を読もうとしないAを不思議に思って、なぜそんなに読むのを拒むのか、と尋ねました。Aは言いました。

「だって、本に書かれたことを読んでいるのか、作者の気持ちを読んでいるのか、わからなくなるんだもん」

 Aは片手で国語の教科書の背を持って、ばたばたと仰ぎながら、ね、と言いました。A曰く、同じ本を読むにしても、物語文は特にストーリー性が強く、作者の考えと乖離した世界が展開されるのでさらに分かりにくいとのことでした。

「何それ」

「言ってみれば、世界が二重写しになるような感じだよ。物語の登場人物が動くと、誰それはこう考えて、なんて字の文が入るでしょ。それがね、作者が考えていることも一緒に頭の中に流れ込んでくるから、話を読んでいても作者の考えに邪魔されて、登場人物の動きが良く見えないの」

 不思議な力を持っている、Aならではの悩みでした。私にはAのような物語の読み方はやろうと思ってもできませんから、彼女のその話には想像が及ばず、ただ、そうなんだ、と頷くことしかできませんでした。

 私が納得行っていなさそうだと分かってしまったのでしょう、Aは説明を続けました。

「簡単に言うと、カレーを食べながらラーメンの味がわかるか、ってこと。ラーメンって、スープの深みとか、麺との合わせ具合とかを味わいながら食べるものでしょ。けど、カレーをそこに無理やり混ぜたら、どんなにおいしいラーメンだったとしても、カレー独特の匂いが邪魔して、本来のおいしさが味わえない。私の感覚もこれと同じで、小説を読む時って、普通登場人物の動きを想像して読むんだけど、そこに作者の意図っていう強烈なスパイスが加わっちゃうの。だからどんなにスリリングな展開を持って来られたとしても、作者がそれをどういう意図のもとに書いてるのか、っていうのが丸分かりで、全然感情移入できなくなっちゃう。あと、さっき言ったとおり、物語とは別に、作者の意図が声になって聞こえてくるから」

 彼女の言っていることは分からなくもなかったのですが、それを自分ではっきりと表わすのは、何だか煙の中から霞を探すように難しい気がしました。読書をしている最中に雑念が混ざってなかなかページが先に進まないという経験は私にもありましたが、どうやら彼女の感覚というのはそれを酷くしたもののようなのです。

 共有しがたい感覚に終始、頷き返すばかりの私でしたが、おそらく彼女はその適当な返事を見破っていたことでしょう、何度も別の表現を当てながら、自身の難しい感覚についてあれこれと説明をしてくれました。文章を読んでいる時は、小説よりも説明文の方が楽だということ。広告やパンフレット、町中にあふれるキャッチフレーズなどからも、文章にさえなっていれば、作者の意図は読めるということ。そしてそれらが読みとれてしまうと、活字を読むこと、それ自体に興味が失せてしまうのだということ。

 私は読書が大好きでしたので、作者の意図が読み取れる彼女を羨ましく思う面もありましたが、彼女にその意を伝えると、酷く顔をしかめられました。

「読者は、作者の気持ちなんか知らない方がいいよ。作品自体に感動しても、作者が暗い気持ちで書いてることを知ると、その時の感動が台無しになるし。表面上は面白く見せるために笑わせる部分も、作者がすごく苦労しながら作ってるって知ると、何だか笑えなくなっちゃうし」

 団扇代わりにしていた国語の教科書が、はたと動きを止めました。Aがそれをぱらり、とめくって、教科書の丁度真ん中あたりにあるとある話の先頭を開き、題名を読みあげました。

「……『時のプリズム』」

 聞き覚えがあります。それは私たちが受けた国語の授業で最も人気の高かった話でした。授業中は、先生が朗読をしている間、クラスメイト達は熱心に耳を傾けてその話を聞いていました。

Aは、続いて数ページ先にある作品末の部分を開きました。

「この話。最後の一行、『輝きを増した太陽の光を反射するプリズムが、静かに僕の見つめる先を照らしていた』ってあるでしょう。もやもやして先の見えなかった自分の心を照らすみたいな表現で、読み手はこれを見て、きっと主人公の将来は明るいんだろうな、めでたしめでたし、って思うわけ」

これは私のお気に入りの話でもあったので、特にAが指摘した最後の一文は、絶望の中から主人公に一筋の光が見える象徴として、七色に光を反射するプリズムが何とも印象的で、美しいと想像していました。

 授業中の先生が言っていましたが、この作者は将来性のある子供たちに、苦悩しもがき、それでもしっかり自分の道を踏みしめていくことを伝えようとしているのだそうです。私はそれにも感銘を受けてわくわくしていたのでした。おそらく作者は、私たちに輝かしい未来と希望を持つように、こんなカラフルで美しい描写を残してくれたのだと思っていたのでした。

「けど実際は違うの」

 Aは言いました。

「本当は、この作者は病気だったのよ。二十を過ぎた息子が仕事中の事故で足をなくして、親だった作者はその子の介護をしなくてはならなくなった。でも息子は足を失くしたことでとても傷ついてしまって、懸命に介護をする作者に辛く当たり散らすようになった。周りに頼れる人がいなかった作者は、息子とどう接すればいいか分からずに途方に暮れ、息子と距離をおくことも、息子を励ますこともできないまま、ただ悩み、眠ることすらできなくなって、遂には精神を病んで自身の仕事を辞めてしまった」

 働くことが出来なくなった作者はますます気分を曇らせ、貧困と介護の二重苦に喘ぎながら、少しでも希望が欲しいと、この話を書いたのだそうです。言ってみればそれはどん底から見えた世間の眩しさのようなものでした。それを、運良く出版社に勤める知人に拾い上げられ、作品が公開されるといった経緯に至ったのだ、とAは語りました。

「この話にそういった背景が語られていないのはね、作者が自分の素性を嗅ぎまわられるのを良しとしなかったから。世間からとやかく言われることを恐れて、ひたすらに経歴を隠して、表にもほとんど出て来ない。そりゃあまあ、作者がそう思うのも不思議じゃないわ。こんな現実じゃあ、サクセスストーリーにもならないもの」

 Aは何とも言えない表情で、持っていた教科書を閉じて机の中に仕舞いました。哀愁とも憐れみとも退屈とも違う、ただ目の前にある事実を淡々と説明していくような口調でした。事実、作者に共感や同情を寄せる心があったなら、彼女はそんなことを私に話したりしなかったでしょう。心の中に留めて、ただ何となく自分でその作者の経歴を了解して、それで終わりだったはずです。私は今しがた告げられた作者の事実に少なからず衝撃を受けながら、彼女をぼんやりと見つめていました。自分が信じていたものが彼女によって簡単に覆されてしまった――おそらく彼女にそんなつもりはなかったのでしょうが――まるで期待を裏切られたときに近い気持ちでした。ですが私は彼女を慮ればこそ、その事実に対して素直に感想を吐けませんでした。彼女には、彼女にしか見えないその話が、見えていたに違いなかったからです。誰もが知りえない話を知っているAに、私のようなただの人間が反論をしようものなら、それこそ無知無謀も甚だしいと言えるでしょう。ですから私は何も言えず、次の時間の準備をしている彼女の机の隣で突っ立っているだけした。それはまるで、おいしい料理の原材料が見慣れないグロテスクな虫であるのを知ってしまっても、まずいということもできず、おいしいということもできず、ただ静かに苦笑いを浮かべざるを得ないときと同じような、苦く複雑で気持ちの悪い時間でした。

 暫くしてから次の時間の始まりを告げるチャイムが鳴って、私はようやく自分の席に戻る気が起きたのでした。

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