Aの不思議な力について
私には、Aという友人がいました。Aは私のご近所に住んでいる、同い年の女の子です。普段は明るく活発な子なのですが、実は彼女は他の子にはない不思議な力がありました。それは人が書いたものを読むと、それを書いた作者の行動や気持ちが分かると言うものでした。
私が中学の時にそのAの不思議な力のことを聞かされたのは、Aと行動を共にしてから暫くのことでした。最初Aからその話を聞いた時に、私は、絶対嘘だ、そんなことあるはずない、と言って全く信じようとしなかったのですが、Aは、嘘じゃあないよ、本当だって証明してあげるよ、と言って、鞄から一冊のノートを取り出し、私に差し出しました。それは交換ノートでした。薄い水色の縦じまの模様が入っていて、鍵がかけられるような仕組みになった、A5サイズのものでした。Aは言いました。
「今日、学校から帰ったら、そのノートの一ページめに、あったことを書いてきて。明日、私がそれを読んで、××(私の名前)ちゃんがそのとき考えていたこと、当てるから」
私は学校から帰るとすぐにその交換ノートを開き、一ページめの記入欄にその日あったことを書こうとしました。一度でも交換ノートをやったことがある方はご存知かと思いますが、そのページには色とりどりの飾り枠で、その日の日付、通信欄(いわゆる記事のことです)、しりとりコーナー、注目のテレビ、今日のご飯、恋話など、様々な話題を記入する場所があります。私はまず左ページの一番上にある、日付欄に数字を入れ、今日の担当の所に名前を書きました。忘れもしません、この日は確か、平成二十年の五月二十九日です。それから隣のページに、その日見た『宇宙忍者スペース・タイタン』というアニメについての感想を書きました。これは当時、私のクラスで大人気だった、空想ヒーローアニメです。その日は、スペースタイタンが長年の宿敵であるゼブラ伯爵を倒す回だったので、タイタンの勝利で興奮しきった私は事細かに戦いの様子を交換ノートに記したものです。
しかし三十分くらいした頃でしょうか、タイタンの熱き勝利に筆を躍らせ注目のテレビ欄にびっしりと文字を書き切った私は、ふと、他の欄にまだ何も書いていないことに気が付いたのでした。注目のテレビ欄は、自由記述通信欄の四分の一の大きさもありません。そこにずらずらと文字が書いてあるものですから、他のまだ書いていない部分の余白が、とても大きく見えました。この部分に、タイタンと同じ文量の話を書かなくてはならないことに、私は少し目眩がしてきたのでした。しかも、私のその日の一番のニュースはタイタンの勝利でしたから、他に何か書こうにも、話のネタがありません。
私はどうしよう、と少し焦りました。机に向かって頭を抱えて、おそらく十分くらい、時計の秒針がカチカチいうのが聞こえるほど静かな部屋で、沈黙していました。次第に話題を探す集中力が切れて来て、机の前でぼうっとしているだけになりました。それから急にはっと我に返って、突然「いや、こんな日記、どうでもいいじゃないか」という気になりました。何だか、机の前で交換日記に書く話題を探している自分が、馬鹿馬鹿しく思えてきたのです。Aの不思議な力の話なんて、どうせ嘘に決まっている、証明してあげる、と彼女は言ったけれども、明日交換日記を彼女に見せたら、「あんなの冗談だよ、本気にしたの?」なんて笑われないとも限らない。あるいは、単にこの交換日記を始める口実に、そんなキャッチーな言い分を考えただけで、特別な力なんてただの出まかせではないのか、とそういう考えに至ったのです。
私はその考えが根拠もないのに何だか妙に正しい気がして、それ以上、何も書かずに交換日記を閉じました。筆圧の高い私の字はシャーペンの芯の色がかなり濃くページに残っていて、一旦表紙を閉じてからもう一度記入したページを見返すと、所々に黒い煤が移って余白ばかりの隣のページを汚していました。私は一度ため息をついて、交換日記に鍵をかけ、鞄の中にそれを放り投げて、その日出されていた宿題に手をつけ始めました。結局、私は交換ノートを書き終えずに寝てしまいました。
翌日、私はAに課された交換ノートを持たずに学校に行きました。書きかけのノートを持って行ってAに見せても、Aはきっと文句を垂れるだけであろうし、例の不思議な力の証明にもきっとならないであろうし、何より私はAが昨日言っていたその話を、完全に嘘や出まかせだと決めつけていたのでした。ならばいっそ、交換ノートを家に忘れたことにして、まだ書き終わっていなかった欄を埋めてから、後日ちゃんとした形でAに渡せばいいではないか、とも考えていました。ただ、Aの昨日の態度からすると、交換ノートのことは、必ず聞かれるだろう、とは思っていました。交換ノートを家に置いてきたのは、そのための言い訳だったのです。
予想していた通り、Aは最初の休み時間に私のところにやってきました。宿題の答え合わせが終わったプリントをそのままにした机で、私は何となく、眠たそうに目を擦っていました。Aはやってくるなり、また予想していた通り、交換ノートの返却を要求したのでした。私は瞼を擦りながら、机の横にかけておいた手提げ袋を引き寄せて、その中から交換日記を探す素振りをして見せました。
「あれ」
私はAの前でいかにも、そんな馬鹿な、という風に眉根を寄せて手提げ袋を漁りました。Aは私が手提げを引っくり返すのをじっと見ていましたが、ただならぬ緊張を放つ私にやがて、「どうしたの」と尋ねてきました。占めた、という気分で、私は表情をそのままに、Aに訴えました。
「ん、持ってきたはずだったんだけど、交換ノートがないや」
少し残念そうに、声を落として言いました。Aもこうすれば諦めてくれるだろう、と思っていたのでした。Aは私の顔を、じっと見ています。
「忘れてきたの?」
「そうみたい」
私は頷いて、Aにごめん、と謝りました。Aは無表情に、そう、と俯きました。残念だったのかな、と思いましたが、私はAがその時落胆する理由が分かりませんでした。私に不思議な力の証明が出来なかったから、というわけでもないし、単純に交換ノートが受け取れなかったから、というわけでもないような気がしました。不可解に思いましたが、いずれにしても私は交換ノートを彼女に差し出すことはできない、今日帰ったら昨日の続きを書かなくてはな、と既に心は下校後のことを考えていました。
「ねえ」
ですからその時のAの呼びかけに私はワンテンポ遅れてしまいました。変に彼女の声が冷たい感じがして、ドキリとしたのも良く覚えています。私は、何、と一瞬の後に声を出しました。彼女は私の目を見てはおらず、机の上に置かれたプリントの方を見ていました。
「本当は、忘れてきたんじゃなくて、おいてきたんだよね、交換日記」
私は彼女のその言葉に硬直して、息をすることすらかないませんでした。
「ずっと考えてたんでしょ。宿題をしている間、交換日記が埋まらなかったけど、どうしよう、って。日付と、テレビの欄だけは埋めたんだけど、他の場所がどうしても書けなかった。それで、結局昨日埋められなかったから、持ってくるのを諦めたんだよね。で、忘れたことにしちゃおうって。それで今日帰って書きなおせばいいやって思ってた。違う?」
図星でした。まさしく彼女の言うとおり、私は交換ノートが書き終わらずに、家に忘れた振りをして、それを置いてきたのでした。彼女の指摘に、暫し何も言い返せずにぽかん、としていました。昨日の、一部だけが黒くて、残りが真っ白なノートが私の頭に浮かびました。私は彼女を見るのを止めて、視線を手元に移しました。机の上にある宿題のプリントには、最後の方にたった一行、「並べられた漢字を使って、文章を書こう」という問題がありました。それ以外は、ただの漢字練習のためのプリントでした。
「これで証明できたかな」
Aはプリントから顔を上げると、今度は私の方を見ていました。少し意地悪そうな笑みを浮かべて、まあそんなに焦って書かなくてもいいけど、嘘をついたらいけないよね、と言って机にあった私の宿題を、つ、と指でなぞりました。そのとき丁度チャイムが鳴り、私が恥かしさと罪悪感とで何も言い返せないうちに、Aは自分の机に戻ってしまいました。
どうして分かったのか、など、考えるまでもありませんでした。Aが前日に言っていた、「文章から書いている人の気持ちを読み取ることが出来る」という力は、本物だったのです。Aは宿題のプリントに書いたたった一行の文章から、私が交換ノートを書き切れなかったことも、ノートを家に置いてきたのが嘘だったということも、全て分かってしまったのです。宿題をしながら、次の日Aに何と謝ろうか、とずっと考えていた、私の頭の中を、彼女はいとも簡単に読み取ってしまったのです。そんなことがあるものか、とお思いの方もいるかもしれませんが、私もその日Aに思考を見破られるまでそのように思っていたのですから、実際あなたがAの前で文章を書けば、私の気持ちが分かると思います。
ともあれ、私はその日からAの不思議な力を認めざるを得なくなりました。まだ半信半疑ではありましたが、Aの力は本物であると仮定しておいた方が無難だと思い、以後私は文章を書くたびに彼女に考えを読みとられることを前提にしておきました。私はそれから交換ノートを彼女と続けていましたが、どんなに言葉を雑に連ねても、Aは私の思っているところをずばりと当てることが出来ました。最初のうちこそ、少し怖いな、と思っていましたが、彼女はそういう思いすらも文章から読みとってしまいますし、何度もノートを書いて彼女に見せるたびに「昨日は、こういうことを考えていたんだね」と彼女に言われることが、私自身次第に気持ち良くなってさえいくのでした。その頃よくお母さんに、建前と本音を使い分けられるようにならなくては駄目よ、と言われていたので、Aの前でその使い分けをしないで済むのは、本当に楽なことだったのです。