卒業
月日はめぐり大学二年生の十月。木の葉も色めき出しそろそろ二度目の学園祭の準備で忙しくなった頃、自宅に一本の電話が舞い込んで来ました。全く心当たりのない番号だったので無視しようかとも思ったのですが、留守電に切り替える前にしつこく何度もベルが鳴ったので重要な用事がある人からかな、と考え直して受話器を取りました。どこかで聞き覚えのある柔和な声が、電話口からもしもし、とこちらに呼び掛けて来ました。Aの母親でした。
「××ちゃん、申し訳ないんだけれども、近いうちにこの間教えてもらった、例の病院に来てくれないかしら」
何やら切羽詰まっている様子を悟り、私はすぐに何も知らないまま了解の返事をしました。Aの母親はそれを聞くと安心したようで、電話口に安堵の息がかかるのが聞こえましたが、私が理由を尋ねると再度緊張したように、少し間を置きました。
「Aがね、あなたに会いたがっているの」
「Aが」
驚きました。大学に入ってからというものAと私は一度も会っていないのに、突然会いたいと言われたのです。驚くなという方が無理といえるでしょう。その名が出た時、私の心臓は一瞬大きく撥ね、無意識のうちに封じ込めていたこれまでのAとの長い、長い日々が、走馬灯のように蘇ってきました。
「お母さん、Aは今どこにいるんですか。どこでどうしてるんですか。どうしてAが私に直接ではなく、お母さんを介して連絡してくるんですか」
私は勢い込んで尋ねましたが、電話先のAの母は迷っているのか、言いたくないのか、黙り込んで答えてくれません。興奮しきってしまった声を落ち着かせるように深呼吸して、お願いです、教えて下さい、と語りかけるように言うと、受話器からゆっくりと、それはあの子から直接聞いた方がいい、Aもそうしたがってるの、とどっちつかずな答えが返ってきました。言いようのない胸騒ぎがしましたが、わかりましたと一先ず答え、病院に向かう日にちをAの母に伝え、受話器を置きました。
数日後、大学の講義が午前中で終わった日に指定されていた病院に直接向かいました。受付フロアでは既にAの母親がソファに腰掛けて待っていて、私が来たことに気付くとすぐに、いらっしゃい、といって病院の廊下へと歩き出しました。Aの母に着いていっている間、私は電話で伝えられなかったAの話に嫌な想像ばかりをしてしまい、Aの母と何も喋ることができませんでした。
ここです、と言ってAの母親が立ち止ったのは入院患者の一室でした。貼られている患者の名札入れには、あろうことかAの氏名が入っていました。恐れていた事実をまざまざと付きつけられ、背中から冷たい血液が駆けあがってくるかのようでした。思わずその場から逃げだしたくなりましたが、足が震えて動くことすら叶いません。落ち込んでいる子供にするときのようにAの母が私の肩に手を置き、「中で、あの子とお話してやって頂戴」と促されてようやく動けるようになり、意を決して病室の中へと入って行きました。
病室内はベッドが一つだけ置かれていました。開けた扉の音で気付いたのか、ベッドの上で窓の外の方を向いていた人物がこちらに向き直りました。
「誰? お母さん? ……じゃあ、なさそうだけど」
こちらを向いたその人物は頭の上半分に包帯を巻きつけて、私の入ってきた病室のドアの方を向いてじっとしています。体型からすれば二十代前後の女性で、その母と同じく柔らかく心地よい声の持ち主です。私はこの人を知っています。しかし目を覆い隠すようにして巻いてある包帯は、それまでの彼女の顔を想起させるのを邪魔して、私の側からも、彼女の側からも、お互いの姿を見るのを阻んでいました。
私と彼女の数年ぶりの再会でした。しかし、包帯を通してお互いの姿が見れない状態の再会は、果して意味あるものなのでしょうか。
「あ、もしかして、××ちゃん?」
旧知の友人の半分覆われた顔に咽喉が絡み声も出せずにその場に立ちすくむ私に、ベッドの上の人物はいたずらっぽく言ってのけました。私はどきりとして肩を震わせ、その人の方へと近づいて行きました。
「××ちゃん、××ちゃんなんだね。ああ、来てくれたんだ、そうだよね、ああ、お母さんに頼んでおいてよかった」
まだ返事もしないうちから、Aは私のことをすっかり私だと見破っているようでした。どうしてわかったのでしょうか。
「A……お久しぶり」
「ん、お久しぶり、元気だった? 本当はね、もっと前に愛に行こうと思ったんだけどさ、何か、ごたごたしちゃってて」
恐る恐る呼んだ名前にあっけらかんとした返事。こちらが怯えているのが馬鹿馬鹿しくなるくらい、Aは以前の通りの声音で、少しも変るところがありません。呼びかけてしまってから何を言えばいいのか分からなくなって、言葉を詰まらせていると、逆にAが遮るようにして、あのね、と私に語りかけました。
「あのね、××ちゃんの書いたあの長編小説、この間読んだよ。目が悪くなる直前。私が最後に読んだの、××ちゃんのあの小説なの」
何を言っているのでしょう、こんなときに。あのあと何度も修正した小説の感想なんかよりも、もっと私に、説明すべきことがあるのではないでしょうか。どうして今私がここにいるのかとか、どうしてお母さんを介してしか連絡してこなかったのか、とか、高校卒業してから今までどうしていたのかとか、その包帯は何のためにあるのか、とか。私が知りたくてたまらないことが、他に幾らでもあるのに、なぜかAはここにきて小説の話をするのです。いつもそうです、彼女は訳がわからないことばかり言います。
「凄くよかったよ。今まで読んだ中で一番面白かった」
思い出に浸るように、ゆっくりと話し、ああいう気分はどことなく懐かしい、今の私にも、××ちゃんにも必ずあった気持ちだもの、と付け加えました。その後暫くAはその長編の感想を事細かに述べたのですが、私は気が動転してそれどころではなく、いつ何を切りだせばいいのかおろおろと惑うばかりで、ちっともAの感想が頭に入ってきませんでした。
「あの小説ね、いつ完成するのか楽しみだったから、××ちゃんにちゃんと感想が言えるように、今までのも全部読み返してたんだよ。そしたらさ、思った以上に目が悪くなっちゃって。馬鹿だよねえ、私。せっかく大学に入ったのにさ、せっかく××ちゃんと一緒に眼鏡まで買いに行ったのにさ」
「ねえ、A」
くすくす笑うAにリラックスしたのか、私はようやく声を絞り出すことができました。
「その目、一体」
「ねえ、××ちゃん」
私の質問を遮り、Aは自分の顔の包帯に触れました。自分の眼球の大きさを確かめるように、指を動かしてそっと顔のくぼんだ部分をなぞります。目尻を人差し指で押し、睫毛に沿って爪の先で線を引き、鼻緒に近づいた所で手を止めました。
「私ね、××ちゃんの小説が最後に読めてよかった」
「最後……?」
「こんなに素敵な話、ちゃんと自分で読まないともったいないもの。人に聞かせてもらうよりもさ、自分の目で字を追って、××ちゃんが何考えてたのか、自分で考えて、登場人物に心酔して、ああ懐かしいなあって思いながら読むんだよ。きっと××ちゃんもそう読んでほしくて、こんな話を書いたんだろうって思った。読んでる間、ずっとそんなことを考えていたんだよ」
「ちょっと待って、最後って何」
半ば叫ぶような形で捻りだされた声にも関わらず、Aは肩一つ振るわせずにじっとしていました。お互いの間を沈黙が制し、顔を合わせているのに全くすれ違ったまま、混乱している私にAは何かを言うわけでもなく、ベッドの上でただこちらに顔を向けているだけでした。
「だからね、もう卒業しよう」
「卒業って何から? ねえ、私の話聞いてよ」
「××ちゃん、あのね――」
その途端、病院の一室のベッドも、Aの顔も、病室の窓の外で葉を落としていた銀杏の木も、面会のために開かれていたカーテンも、眼鏡のレンズよりもずっと歪みの強い温かい膜で覆われてぼんやりとしか見えなくなり、同時に全ての音が水の中に入ったときのように消えてなくなりました。自然と瞳から溢れだす雫に胸がカッと熱くなり、聞こえているはずのAの声が遠くなっていって、頭がその言葉を理解するのを拒みました。どうして、そんなことを言うのでしょうか。せっかく久々に会えたというのに、どうして表情を隠すほどの包帯を巻いているのに分かるほどの落ち着いた笑顔で、そんな重要なことを、平然と言ってのけるのでしょうか。私はAからその説明を受けることを望んではいてももっと順序立てて聞きたかったのです。いきなり事実を突き付けられてぼんやり霞んでいく視界の中で、私はさらにベッドに近づいて、Aの傍らに立ちました。いい加減なことをいう彼女に何か言ってやろう、と思いましたが、やはりまた咽喉に溜まった熱がそれを邪魔してしまいます。飲みこんだ息はそのまま嗚咽となって荒く吐き出され、私が何かを言おうとする度に、醜い雑音にかき消されるばかりなのです。
滔々と、まるで卒業式の祝辞のように穏やかな言葉を語り続けるAに、私はただただ立ちつくして涙を流す以外にありませんでした。一通り話し終えたAに、一言、わかった、今までありがとうね、と絡む咽喉を押し切って言って、病室を後にしました。扉の外ではまだAの母が待っていて、泣いてぐしゃぐしゃになった私の顔を見て、大丈夫? と声を掛けてくれました。泣き疲れていまって、上手く言葉が出せず、私はAの母に一礼して、病院を去りました。
涙で霞んでいく視界を抱えて街路樹が色づいた町へ足を向けると、忘れていた秋の冷たい風が火照った私の額を撫でました。外に出てしまうと、年のためか泣き続けることも躊躇われ、眼鏡を外して一度袖で顔を拭い、前を向いて歩きました。が、もう私の知っている、過去を共にしたAの姿をこの目に収めることはないのだと思うと、また先ほど頭に包帯を巻きつけて滔々と自分のことを語っていたAの姿が思い出され、混乱した意識が何度もその内容を否定しにかかり、暗澹たる気持ちが胸のうちから溢れてきそうでした。もう何もかも忘れた方がいいのかもしれない。これまでのことも、Aのことも、全部ないものと考えて、いっそのこと小説を書き続けるのも辞めてしまえば、何もかも楽になれるのではないだろうか、と考えました。そうです、これまでのことをなかったことにしてしまえば、いっそ私もAも楽になれるのです。彼女は最後に「だからもう、卒業しよう」と言いました。おそらくあの言葉は、私との関係を終わりにしようと望んだ彼女が、あえて遠まわしに言うことで私の気を少しでも鎮めようとしたのではないでしょうか。唐突に突き付けられた事実に私が驚くのも全部彼女はお見通しで、あえてあんな明るい態度で私を呼んで話をしたのではないでしょうか。そう考えると、私がその提案を受け入れない理由はなく、同時にAのためにもそうするのが最善であるように思えてきました。きっと内心では、本人以上にいつまでもめそめそ泣いてるんじゃない、と渇を入れたかったのを押さえこんでいたに違いありません。やっぱり彼女は最後まで私に優しかったのです。
そう自分に言い聞かせながら、街路樹の続く道で、涙を拭い終えた私は、呆けた頭でひたすら家路を進んでいきました。気分転換に途中で見つけたコンビニに立ちより、いつもならば真っ先に向かってしまう雑誌・本売り場を横目に見ながら、今日だけはここには寄らないと固く心に決め、お菓子売り場の棚で特に買う気もない商品を眺めました。色とりどりのパッケージに包まれた、ポテトチップスやチョコレートやスナック菓子やグミや煎餅やマシュマロやアメやガムや自分を選んでくれとばかりに煌びやかに主張をしてきますが、何も買わないと決めている私はそれらを手にとって眺めるだけで、レジに持っていくことは決してありません。これらは私が眺めるだけでも一向に文句を言わない静かな存在で、集合であることに意味のある存在で、どれか一つを選んで持ちかえってしまえば、たちまちその魅力を失ってしまうものなのでしょう。眺めている間は美しく、大都会百万の夜景に匹敵するこれらは、周りと同化して並んでいることに価値がある。その選ばれる前の荘厳な様子は、コンビニに行っても、スーパーに行っても、眼鏡屋に行っても普遍的なものでした。あの長い小説に私が書いたことは、こんなところでもやはり同じ感情を私にこみ上げさせるのでした。
バッグに入れた携帯電話の突然のバイブレーションが、お菓子売り場に魅惑されていた私の意識を呼び戻しました。メール着信時の二回の振動を過ぎてようやく電話の呼び出しだと気付き、慌てて鞄から最近買ったばかりのスマートフォンを取りだしました。見慣れない電話番号からでしたが、通話ボタンを押して応答すると、やはり全く聞き覚えのないハキハキした男性の声が電話口から、もしもし、××さんですか、と尋ねて来ました。沈んだ気分にはい、と返事をすると、わたくし、○○出版のものですが、と忘れていた知らせを随分遠くから私に呼びこんだのでした。
瞬間、瞳に先ほど滔々と何かを語り続けていたAの姿が蘇ってきました。包帯を頭に巻きつけてこちらを向いて卒業しようと告げる彼女の姿が見え、電話口で喋る男の声よりももっと近くで、まるで囁くようにして、Aの声ははっきりと、私の耳元で何事かを喋っているのです。あの病室でのAの言葉をほとんど覚えていませんが、Aは確かにこう言いました。その言葉だけはしっかりと、私の耳に届き、脳に焼きつき、内側から熱い慟哭を呼びさまし、咽喉を閉鎖し、そして静かな涙をあふれさせたのです。忘れるはずもないのです。聞こえなかったはずの、見えなかったはずのそれが、なぜこの時になって見えたのか、それすらも私には分かりませんが、Aがこう言ったのは確かに事実なのです。
「××ちゃん、あのね。もう、この目、治らないんだってさ」