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僕の竜神伝説

作者: 山藤 陽由

今日から夏休みが始まる。

いつものように眠い目をこすりながら、先生の話を聞くともなく聞いていた。

窓の外には真っ青な空に白い雲がふかふか浮いていて、夏真っ盛りといった太陽が照っていた。

教室の中は、クーラーをつけているので、窓が閉まっているが、窓を開けたら蝉の声がうるさいんだろうな、なんて考えていた。

明日からの夏休み、僕は、これから何して遊ぼうかなって考えていた。

「おい、正孝、ちゃんと聞いているのか? 宿題忘れるなよ」

「はい、ばっちり遊びます」

「やっぱり聞いてないじゃないか。しっかりしなさい」

先生が、ちょっと怒っているというよりも、少し困ったような顔をして言った。 

周りからドッと笑い声が聞こえてくるが、そんな事を気にする僕じゃない。

こんな事で、気にしているようじゃ、僕の夢である大物の社長になれないからね。


学校の帰り道、途中の一本木公園に、なにやら人だかりが出来ている。終業式帰りだから、上履きとか、置きっぱなしにしておいた絵具とか持ち帰るので、両手がふさがっている小学生ばかりだ。

「なんで、みんな集まっているの?」と、一番後ろにいた自分より低学年らしい小学生の男の子に聞いた。

「語り部のお兄ちゃんの話を聞いているんだ」と、教えてくれた。

語り部って何だろう?と思いながら、僕も近くにいってみた。

クラスでも小さい方から数えた方が早い僕には、皆の後ろからだと、お兄さんの姿が良く見えなかったのだ。

周りの子供の荷物にも当たらず、自分の荷物を他の子供にも当てないで前の方にいくのは、至難の業だったが、僕は何とかお兄さんの近くまで行くことが出来た。

すると、そこには26歳ぐらいの男の人がいた。

あまり見かけないような竜の刺繍が施されている野球帽をかぶって、女の人のように長い髪を後ろで束ねていた。黒いTシャツにジーンズとスニーカーで、折り畳み式の小さな椅子に腰をかけていた。

声を聴かなければ、女の人に間違えられるのではないかと思うような、綺麗な顔立ちの人だった。

座っているので分からないが、手の長さから推測すると、お父さんよりも背が高そうだった。もしかしたら、180センチ近くあるかもしれない。


お兄さんの話は竜神の話だった。これから僕が覚えているかぎりを語ろうと思う。


―少しだけ昔、ある村に春採湖という美しい湖があった。村の人たちは、その湖で釣りをしたり、散歩のついでに立ち寄ったりしていた。ある時、その村に工場ができた。村の人たちは美しい自然に慣れていて、それがあって当たり前だと思っていたので、湖の近くにできた工場のことを気にも留めていなかった。しかし、工場がそこに工業用排水を流してしまったのだ。湖はどんどん汚くなり、多くの魚や生き物が死んでしまった。

異変に気が付いた村人たちは、どうしていいか分からない。それでも心配で湖を見にやって来ると、皆の見ている前で竜が湖から姿を現し、そのまま天へと昇って行ってしまった。 

それから間もなく、工業廃水を流していた会社は、突然倒産してしまった。村人の中には竜神様の怒りだという人もいた。

その後、人々もそこには住まなくなってしまい、村も廃れてしまい、誰も湖と竜のことを覚えている人は、いなくなったとのことだった。


一通り話し終わると、お兄さんは言った。・

「自然を大切にしようね、人間は、自然や目に見えない力によって生かされているんだ。

このことを理解してね。では、話はこれでお仕舞だよ」

お兄さんの声は、すごく優しくて、聞いていて、とても心地よかった。


皆、地面に置いていたランドセルや上履きの入った袋や絵具やらを担ぎなおして、ぞろぞろと公園から出て行った。

僕はランドセルを背負う前にバックを両手で持ってしまい、ランドセルを担げないことに気づいて、また、荷物を置きなおしていたりして、すっかり出遅れてしまった。やっと荷物をまとめて持ち直すと、公園の出口の方で声が聞こえた。

「冗談じゃないよ。俺たち人間は、えらいんだよ」

声の方を見ると、悪態をつきながら公園の垣根の葉っぱをむしり取っているクラスメートの姿が見えた。

阿久津浩一くんだ。

嫌な奴に会ったな。阿久津くんは、体が大きくて声が大きいという典型的ないじめっ子なわけではないが、何かにつけて人の揚げ足を取るので、僕はあまり好きではなかった。

幸い、僕には気がついていない。そっとこの場を去ろうとしていたとき、阿久津くんが叫んだ。

「おい、俺に文句があるのか?」

ドキッとして、阿久津くんの方へ顔を向けた。

僕に言ったのかと思ったら、そうではなくて、なんと白色の猫とにらみ合いになっていた。

「薄汚い野良猫め」

阿久津くんがそう言いながら、石を拾って投げつけようとした。

僕は思わず駆け寄り、阿久津くんに向かって叫んだ。

「やめなよ、可哀そうじゃないか」

僕は白猫の前に立ちはだかった。

「なんだよ、やる気かよ」と言って、阿久津くんは手にしていた荷物を全部放り出した。

僕もつられて、せっかく持ち直した荷物を地面に落とした。

阿久津くんが僕に殴りかかってきた時、不思議なことが起こった。

僕と阿久津くんの間にいた白猫が、一瞬大きくなったように見えたと思ったら、阿久津くんに向かって体当たりをしたんだ。

阿久津くんは三メートルほど吹っ飛んだ。

ずでんと尻餅をついたようだ。

背中に背負っていたランドセルが背中をかばってくれていたのと、幸い公園の芝生のあるところだったので、怪我はないようだった。

それでも、打ちつけたお尻が痛かったらしく、阿久津くんは、「いててて」と言いながら、お尻をさすっていた。


「意外と強いな、正孝」

突然後ろから声をかけてきたのは、仲良しの遠藤くんだった。

「いや、僕じゃないよ。猫がさ…」と、言いながら白猫を目で探した。

「猫なんて、どこにもいないじゃん」

「あれ?」

あれだけの大きな猫なら、すぐ見つかりそうなのに、気のせいだったのかなと思っていると、遠藤くんがニヤニヤしながら、僕が投げ捨てたカバンを渡してくれた。

運悪く、芝生のない所においた鞄は、土で汚れて、下の方が水色から灰色に変わっていた。

あちゃー、お母さんに怒られそうだなと思いながら、できる限り土汚れを手ではたいて落とした。

「強がっている割に、大したことないな、阿久津の奴」と、一緒に泥をはたきながら遠藤くんが言った。

気が付くと、公園には僕と遠藤くんだけで、阿久津くんもいなくなっていた。

遠藤くんは僕が帰る準備が出来るのを待ってくれていたが、公園からの道は別々なので、公園を出て右と左に別れた。


家へ向かって公園の外周沿いを歩いていると、あの語り部のお兄さんに出会った。

お兄さんは、さっきの白猫を胸に抱いていた。

白猫は元の大きさに戻っていて、心地よさそうに目を閉じていた。

「さっきは、ありがとう」

お兄さんは、白猫を撫でながら僕に話しかけてきた。

「え?」

「白竜を助けてくれて、ありがとう。君はやさしいね」

お兄さんは僕の目をじっと見つめながらニッコリとほほ笑んだ。

「いいえ、僕はなにもしていないですよ。むしろ、助けてもらったのは、僕のほうです」

僕は照れながら笑った。

お礼を言われて照れたというよりも、お兄さんの心の底を見るような深い眼差しで見つめられて、なんだか恥ずかしくなったのだ。

「君の優しさが、白竜の人間への怒りを抑えてくれたんだよ。これで、なんとかなるかもしれない」と言うと、どこか遠い空を見つめた。

どうやら白猫の名前が白竜という名前なのは分かったが、その後に続けて言ったことが、何を意味しているのか分からなかった。

それでも質問した方がいいのか、しない方がいいのか分からず、無言で僕は立っていた。

お兄さんの腕の中で、白猫つまり白竜が小さく鳴いた。

お兄さんは、我に返ったように、空から目線を僕に戻した。そして、ちょっと女の人のように小首を傾けた。

「君がもし竜に会いたければ、今夜9時にこの公園で会わせてあげよう」

そう言うと、お兄さんは、目の前からふっと消えてしまったんだ。

僕はびっくりして辺りを見渡したが、目に入るのは、公園の垣根と道路だけ。暑さを増した空に、朝よりも大きくなった白い雲があるだけだった。


今日はずいぶんと不思議な事ばかり起こる。

本当に竜に会えるんだろうか?公園で夜9時に何が起こるんだろう。

考えることがいっぱいで、歩いているだけでダラダラと流れてくる汗も気にならず、もくもくと家まで歩いた。

家に着いても考えがまとまらないので、「ただいまー」と言うと、僕は直ぐに自分の部屋に入った。

「正孝、遅かったじゃない、今日は終業式じゃなかったの?」

部屋のドアを開けながら、お母さんが、ちょっと怒ったような心配したような声で訊いてきた。

「そうだよ、ちょっと寄り道しちゃってさ」

「学校からは真っすぐ帰らないと駄目じゃないの。まあいいわ、ごはんにしましょう」と言うと、先に部屋を出ていった。

「うん」と返事をした。

ごはんと言われてお腹が空いていることに気づき、ダッシュで部屋を出た。

しかし、ごはんを食べている最中、僕はずっと、さっきのお兄さんの事が気になっていた。

竜神は本当にいるのだろうか?

さつきの白猫は何者なのか?

お兄さんは、どうやって僕の目の前から消えたのか?

考えれば考えるほど、謎は深まるばかりだ。

「正孝!正孝!正孝!ちょっと、どうしたの。ずっと上ばかり見て。ご飯が冷めるわよ」と、お母さんが、本気の心配顔で訊いてきた。

「ごめんなさい」と言いながら、あわてて焼鮭を口に突っ込んだ。

「ねーお母さん、竜神って本当にいると思う」

「どうしたの、急にそんなこと言いだして」と、ますます心配そうな顔で、まじまじと僕の顔を見る。

「いや、なんでもない」と、あわててご飯を口にかきこんだ。

「変な子ね、明日から夏休みだけど、宿題の計画を立ててから遊びなさいよ」

まだ、怪訝そうな顔だが、いつも通りガツガツ食べる僕を見て、ちょっと安心したのか、いつもの命令口調に戻っている。

「それに、最近は火事が多いみたいだから、あまり日が長いからって、遅くまで外で遊んだりしないでよ」

「火事って、誰かが火遊びしたってこと?それとも放火ってこと?」

「うーん。放火かどうか分からないみたいだけど、ここ立て続けに近くで四件も火事があったのよ。特別風が強い日でもなかったのに、急に火が出て、あっという間に家が一軒焼けたみたいなの。不思議なのは、家は跡形もないくらい丸焼けになったのに、隣家は一切影響なかったこと。消防車が家に着いた時には、もう焼け終わっていたんですって。同じような事件が立て続けに起こっているから、近所の人たちも気味悪がっているのよ」

「ふーん」

「それに、今年は夏休みの終わりに『宿題がまだ終わらない。お母さん手伝って』って、お願いされても手伝わないからね。お父さんにも甘やかし過ぎって言われちゃったし」

最後はちょっと声が小さくなっている。

「はーい」と僕は気のない返事をして、食べ終わったお皿を台所に下げると、自分の部屋に戻った。


時計を見ると、昼の二時だった。約束の時間まで、あと六時間。

どうやって夜に抜け出そうか? 幸いなことに、お父さんは、今日は出張で泊まってくる予定だから、帰って来ない。

でも、お母さんの目を誤魔化さなきゃならない。どうしよう。

僕の家は坂道の途中にある3階建ての家で、1階は物置部屋で、2階に僕の部屋と両親の寝室がある。3階はダイニングとリビングだ。

僕は他の小学生に比べて寝る時間が早い。

いつも9時ころには瞼が重くなってくるので、とっとと部屋に行って、電気を消して寝てしまう。だから、9時少し前に寝ると言っても怪しまれないだろう。

お母さんが寝るのは遅いので、9時ころだとリビングのある3階から下の階に降りてくることもない。

静かに下の物置部屋の窓から抜け出せば、何とかなりそうだ。

今のうちに靴を玄関から取ってこよう。

玄関から靴を取ってきて、ベランダの外に置いておく。

こうすれば、お母さんが、部屋に入っても、カーテンに隠れて見つけられないだろう。

抜け出す算段を一通りして、ベッドに横になる。

でも、本当にお兄さんは待っていてくれるのかな…。

夜に一人で歩いているのを誰かに見つかったら、通報されちゃうのかなと、また新たに心配事が浮いてきた。

色々と考えている間に、そのまま眠ってしまった。


「晩御飯よ~」と、部屋の外からお母さんの声がした。

僕は「は~い」と返事をした。

昼食を食べてから何もせずに寝ていたのに、僕のお腹は空いていた。

ダッシュで食卓に行き、椅子に座った。

今日の晩御飯は僕の大好物の豚肉のカレーだった。

いつも通りおかわりを3杯して、お母さんに「食べ過ぎよ」と言われた。

そう言いながら、お母さんも、お父さんがいないのにカレーを作りすぎたようで、珍しくおかわりをしていた。


お風呂に入ったりして、自分の部屋に戻ると、約束の時間まであと20分だった。

公園までは5分もかからないが、そろそろ行かなくちゃと思うと、緊張してきて手が汗で濡れてきた。


コツコツとガラスの窓を叩く音がした。

カーテンを開けて窓の外をみると、今日出会った白猫だった。

窓を開けると、当然のように僕の部屋にスルリと入ってきた。

そして、いきなり喋り始めた。

「公園に行きたいなら、手を貸してあげるよ」

まるで、大人の人のような声だった。

「あ、お願いします」

思わず頼んじゃったけど、これって変だよねと、どこか頭の別なところで思っている自分がいる。

「あれ、俺が喋っても、驚かないなんて変わっているな?」

白猫は小首をかしげながら、可笑しそうに言ってくる。

「僕もそう思うけど、昼から不思議な事ばかりだからね」

「では、俺の背中に乗ってくれ」と言うと、白猫は僕に背中を向けた。

「え?僕は確かにクラスでも背が低い方だけど、さすがに猫には乗れないよ」

「まあ、見てなって」と言うが早いが、白猫は見る見るうちに大きくなり、白い竜にと姿を変えた。

空いた窓から上半身が出ていて、僕の部屋に残っているのは、下半身だけ。

かなり大きくなって、びっくり。

大きな声を出さずにいられたのは、奇跡でしかない。

それとも、驚きすぎて声が出せなかったのだろうか。

「さあ、早く」白竜に急かされて、我に返った僕は、白竜にまたがろうとした。白い月明かりに照らされた白竜のうろこは、尖った水晶のようだ。

乗ったらお尻が痛いんじゃないかと思って、ためらっていると、白竜は僕の考えていることが分かったかのように、少しだけ片方の口の端を上げるように笑った。

「見た目と違って痛くはないよ。がっつりまたがって、掴まりやすい鱗をつかむといい」と、言ったので、僕は意を決して、飛び乗った。

すると、白竜の言う通り、お尻に鱗が突き刺さりはしなかった。

それどころか、フカフカのクッションに座っているみたいに、とても乗り心地が良かった。

白竜はスーッと音もたてずに空へと上昇した。

少し身をくねらせるような動きに合わせて、鱗がキラキラした。

綺麗だなーと見とれている間に公園に着いた。

公園では、語り部のお兄さんが待っていた。


「正孝くん、よく来たね」と、見ているだけで吸い込まれそうな目を、真っすぐに僕にむけてくる。

なんだかよく分からないが、恥ずかしくなって、「はい」と小さな声で返事をしてしまった。

こんな夜に公園に来たのは初めてだ。

一人でいたら怖かったかもしれないけど、今はお兄さんと白猫に戻った白竜がいて、明るい月の光に照らされている。

お兄さんに促されて、僕はベンチに座った。

夏とはいえ、夜9時過ぎなので、風が吹くと涼しく感じた。

公園の木々たちが、風に合わせて、さわさわと音を立てている。


お兄さんは僕の隣に腰を掛けると、今この町で起こっていることを話し始めた。

「正孝君、町の再開発って知っているかい」

「うーん、お父さんに聞いたことあるけど、忘れちゃったな」

「再開発っていうのは、今あるものをより良くするために、もう一度整備しなおすことなんだ。この町は江戸時代に城下町だったから、道路も細いところが多いし、曲がりくねっている。だから、道をきれいに整理したりしているんだ。それに合わせて、今まで田んぼや畑だった所を埋め立てて、マンションや家を建てているんだ。駅前に新しいビルを建てているのは知っているだろう」

お兄さんは、僕が話についてきているかどうか確かめるように、僕の方を見た。

僕はコクコクとうなずいた。

お兄さんは話を進めた。

「その再開発に合わせて森を削り、川も人の都合でコースを変えられてしまっている。そして君もよく知っている竜ヶ沼を埋め立てる計画があるんだ。ここを埋め立てて、公園にする。

実は、竜ヶ沼は竜神界と人間界を繋ぐ大切な場所なんだ。もしもここを埋め立ててしまうと、竜達は、人間界には来られなくなってしまうんだよ。実は、竜はこの人間界で水をコントロールするという重要な役目を担っているんだ。もし竜が人間界に来られなくなると、この土地の湧水は枯れてしまうだろう。その水を頼って生きている生物は、住めなくなってしまう」

聞きながら僕は、竜ケ沼のことを考えていた。

竜ケ沼には鮒がいて、僕も友達とちょくちょく釣りに行っていた。

それでも最近は皆、塾に行ったり、遊ぶとしてもゲームばかりで、外に遊びに行くことも減っていた。

あの沼、無くなっちゃうのか…と、自分の空想に行きそうになったところで、またまた、お兄さんに目を覗き込まれる。

あわててお兄さんの話に集中した。

「開発を進めている人たちは、水中昆虫や魚がいなくなっても人間には関係ないと思っているんだろう。でも、自然の生態系というのは微妙なバランスの上に成り立っているんだ。巡り巡って人間にも影響がでる。ただし、直接的な影響じゃないのと、影響が出るまで時間がかかるから、自然がすっかりなくなってから分かっても後戻りできないってことだ」

気づくと白猫に戻った白竜が、お兄さんの隣でお座りをして一緒にうなずいていた。

「それに…水というのは、人の精神にも影響を与えているんだ。美しい水の流れている川や湖にいると、心の中に抱えていたイライラや怒りが清められるんだ。お風呂に入るとスッキリするのは、体が温まるだけでなくて、水が心の不純物を流してくれるからなんだ。でも、水が澱んでしまうと、精神を清める力もなくなってしまうんだ」

僕は駅前のビルと竜が沼との繋がりなんて思いもつかなかった。

駅前にビルができたら、おもちゃ屋さんと美味しいレストランが入っていたらいいなって考えていただけだった。

ましてや、水と精神との繋がりなんて、頭をかすりもしなかった。

お兄さんは月をちらっと見上げた。

「もっとゆっくり説明したいんだけど、時間がない」

お兄さんは、立ち上がると僕に向き直った。

「この話を聞いただけでも、君は今までとは違うように再開発を見るようになるだろう。同じように、これから先、僕たちについてくると、真実を知って、もっと世界を違うように見ることになってしまうだろう。それでも君は後悔しないかい」

僕は「え、何がですか」と答えた。

「普通の人が見ることの出来ない事を見ることになれば、考えることが変わるかもしれない。考えることが変われば、生き方が変わってしまうかもしれないんだ。さっきだって、再開発による自然破壊のことを知らなければ、駅前がきれいになることを楽しみに待っていられただろう。でも、今はどうだい?」

確かに、話を聞く前と聞いた後では、違ってしまっている。僕が考え込んで下を向いて、だまっていると、お兄さんは穏やかな声で言った。

「今、君は、真実を見るか、見ないかの選択をしなければならない。しかし、君が真実を見ない選択をしても、僕は君をせめはしない。今ならまだ白竜に君を家まで送らせる時間もある」

僕の心が騒めきはじめた。

どうしよう。生き方が変わるということは、夢も変わってしまうのだろうか。

僕の夢は会社の社長になることで、社長になったらお金持ちになって、お父さんやお母さんに好きなものを買ってあげたいって思っている。

でも、お金持ちになるために自然を破壊したり、他の皆を不幸にしたくない。

そのためには、これから何を見るのか怖いし、もしかしたら、後で行かなきゃ良かったって思うかもしれないけど、でも、知ることは大事なんだって思うから、僕は行くことを決心した。

顔をあげてお兄さんの目を見て大きな声で言った。

「お兄さん、僕を連れてってください」

お兄さんは、真面目な顔で大きく頷いた。

さっきまでと違って、僕はお兄さんの顔を恥ずかしい気持ちを持たずに見ることができるようになっていた。

「これを、着て」

お兄さんは、僕に金色の竜が刺繍してあるジャンパーと手袋を渡してくれた。

どうしてサイズが分かったのか不思議だったけど、ジャンパーも手袋も僕にぴったりだった。

それに、真夏にジャンパーと手袋なんて暑いはずなのに、それどころか、春や秋の暑くもなく寒くもないちょうどよい気候の時みたいに感じられた。

しかし、それと同時に、この町の空気が澱んでいることに気が付き始めた。

なんだこれは。頭が痛くなる。

すると、お兄さんが叫んだ。

「手袋に書いている五方星に集中してごらん」

僕は、なんとか五方星に集中し始めた。

すると頭が痛いのが止まった。

「このジャンパーと手袋をつけると、竜神の加護を受けることができるんだ」

「加護って何ですか」と、僕は聞きなれない言葉の意味を尋ねた。

「加護っていうのは、守ってくれるってことだよ。それと、竜の能力の一部も使えるようになるんだ。だから、普通の人が見えないものを、見ることが出来るようになる。また白竜だけじゃなく、他の竜神とも話をすることができるんだ」

「これを着たら頭が痛くなったよ。それはどうして?」

「これが、今人間界に起こっていることなんだ。このまま、自然破壊を続けていけば、人の精神はどんどんおかしくなっていく、やがて、人間は滅ぶだろう」

「止められるの?」

「止められるよ。そのために僕らは竜神界からやってきたんだ」

「どうやって?」

「説明する時間はなさそうだ。まずは、行って止めなければ。いくぞ!正孝くん」

僕らは白竜に乗った。

白竜はスーッと身を少しくねらせながら大空へと急上昇した。

お兄さんが後ろから支えてくれるので、安心感があったが、僕の家から公園に来た時よりも早いスピードで飛んでいるらしく、耳元でゴーッと風の音がした。

夜の街は明かりが灯っていて綺麗だった。

僕は自分の住んでいる町にもかかわらず、どっちに向かっているのか分からなかった。


ふと、白竜が減速したと思ったら、ある家の上空で止まった。

そこは、なんと阿久津くんの家だった。

阿久津くんの家は、この近所では大きくて有名だったので、上空からでもすぐに分かった。

阿久津くんのお父さんは、建設会社の社長さんで、とてもえらいらしい。

去年の授業参観の時に市長も見学に来たんだけど、僕のクラスに来た時、阿久津くんのお父さんを見かけたとたん、ペコペコとひたすら頭を下げているのを見たことがある。


「そろそろ、来る」

お兄さんの言葉の直後、炎を身にまとった竜が凄いスピードで真っすぐ近づいてきて、阿久津くんの家に向かって口から火を吐いた。

僕は「あっ」と声をあげた。

焼かれる!火が屋根についただろうか。

思わず閉じてしまった目を開けると、いつの間にか白竜から降りたお兄さんが、空に浮いたままで、右手から水を出していた。

炎は消えていた。

更に家に近づいた赤い竜が、屋根めがけて火を吐き出す。ゴォォォォと炎の音がする。

白竜と僕は、少し離れた上空にいたけれども、それでも赤い竜の吐き出す炎の熱さを感じた。

お兄さんは、今度は両手を前に出すと、ドォォォと音がして、大量の水が八角形の形の壁をつくって炎を食い止めた。

また、無事、阿久津くんの家の屋根には火がついていないようだった。


炎を吐いていた竜は、お兄さんの方へ向き直った。

「水竜の王よ、なぜ邪魔だてする。こいつらを始末することが皆のためだと思わんのか?」「火竜よ、私はそうは思わない。むしろ、こんなことをしても、次から次へと第二の阿久津のような輩は出てくるだろう。私は、人間の中にも自然を大切にして共生できるもの達を増やしていくことが、大切だと思う」

「ふん!そんな甘いことを言っていたら、人族のせいで全ての生き物が滅びてしまうぞ。やつらは、自分の事しか考えない!!お前は、春採湖のことを忘れたわけじゃないだろう」

すると、お兄さん・・・どうやら水竜の王というらしいお兄さんは言った。

「人間にも知恵はある。彼らは知らないだけなのだ。我々のように寿命が長くないから、目の前の利益のことしか考えられない。でも、自然を長い目で見ること。変化は次の変化を生み、それがまた別の変化を生んで、最初からは思いもよらないところで結果がでてくることも、学ぶことができるだろう」

「本当か?お前さんも知っているだろう。人族の世界で頭が良いってことになっている奴の言うことが一番あてにならないのを。絶滅した動植物に人族が、からんでいることを知っているんだろう!」

「分かっている。でも、自然を大切にしたい人間が沢山いるんだ。汚れた川をきれいにしたいって掃除をしたり、樹を植えたりする人間も多いんだ。彼らがいる限り、私は人間を信じる。そしてもっともっと自然の大切さを知ってもらって、自然との共存を目指してもらいたいんだ」

「どうやら、話し合っても無駄なようだ。竜族の決闘で決着をつけよう」

「あまり望ましくないが、致し方あるまい」


お兄さんは竜の姿になった。

水竜と言われるだけあって、青い鱗をキラキラとさせている。

白竜や火竜よりも一回り大きい。

二匹の竜が僕らの近くを高速で上空へと飛んで行った。

続いて僕を乗せた白竜も舞い上がろうとした時、「正孝君を守ってくれ、頼んだぞ」と、水竜の王の声が聞こえた。

「ちぇ、俺だけ除け者かよ。しょうがない。ここから観戦といくか。負けるなよ」

僕は上空でこれから何がおこるのか不安になった。

もし、水竜が負けたら、やはり阿久津くんの家は燃えてしまうのだろうか?

二匹の竜はかなり上空に行ってしまったらしく、どんなに目を凝らしても、ここからでは何も見えない。

やきもきしていると、白竜が僕に話しかけてきた。

「正孝お前も観戦するか?」

「はぁ?あんな高いところでの戦いなんて、見られるわけないじゃん」

あまり心配している様子のない白竜の態度に、ちょっとむっとしながら答えた。

「正孝は竜のジャンバーを着ているから、集中して見れば、どんな遠いところでも見ることができるぞ」

本当かな?と思いながらも、お兄さんが気になって、集中して見たいと願った。

すると二匹が戦っているのが見えてきた。


火竜が水竜に向かって火を吐いた。

先ほどの阿久津くんの家の上空で吐いたのとは比べ物にならない威力だ。

あれだけの炎を出されたら、阿久津くんの家だけでなく、周りの家全てが、一瞬で燃え尽きてしまいそうだ。

一方、水竜の方は、先ほどと同じ水の壁を作って防いだ。

火竜が更に大きく息を吸い込み、もう一度水竜に向かって炎を吐いた。

同じ攻撃かと思ったが、今回の炎は水竜の出した八角形の水の壁を回りこむように動いた。

「あっ!危ない!」

僕は大声を出してしまった。

水竜は回り込んだ炎を防ぐように、もっと多くの八角形の水の壁を出し、そこに当たった炎が消えた。

次々と防がれることにイラついたのか、火竜は身をくねらせながら、再度攻撃をしかけてきた。

口から吐いた炎が、一瞬の内に炎の形の手裏剣のようになり、一斉に水竜に襲い掛かる。八角形の水壁を突き抜けて、水竜に火のつぶてとなって向かっていく。

「がんばれ~! お兄さ~ん!」

僕は、声を限りに叫んだ。

水竜は、すんでのところで身をひるがえして逃げた。

火竜は、もう一度同じ攻撃をしかけようとしたところ、水竜の身体を覆う鱗が、一瞬全て外れたかのように見えた。

それは、鱗ではなく、鱗の形をした氷のような塊らしかった。

火竜の吐いた火の手裏剣に対して、水竜の氷が迎え撃ち、炎はまた二匹の間で消えた。

僕はハラハラしすぎてお腹が痛くなりそうだった。

でも、一生懸命応援しなければいけない気がして、二匹の戦いに集中し続けた。


火竜は更にやけくそになったようだった。また、同じ攻撃かと思ったら、炎を吐く前に、何か手に持っていた玉のようなものを水竜に投げつけた。

すると、水竜の作り出した水の壁や氷が消えてしまった。

その隙に火竜が炎を吐いた。

「ああああああああ!」

僕は今度こそ水竜がやられるんじゃないかと思った。

「火竜のやつ、ずるい手を使いやがって」と今まで冷静だった白竜が、いまいましそうに言った。

ぎりぎりのところで水竜が身をかわして炎を防ぐと、先ほどと違って、水竜の目が金色に光った。

「あ~あ。怒らせちゃったみたいだな~」

白竜がどっちの味方かわからないようなことを言う。

水竜は火竜の顔の前に自分の顔を近づけると、口を大きく開いた。

火竜の炎以上の迫力で、水と氷の手裏剣が吐き出された。

火竜は身をくねらせて避けようとするが、全部は避けきれず氷の手裏剣が当たったようだ。

「決闘に他の竜の玉を使うとは…。それとも、土竜がお前に託したのか?」

水竜が動きを止めた火竜に尋ねた。

「いや、これは俺の一存だ」と、痛みに顔をしかめながら火竜が答えた。

今の攻撃でかなり傷ついたと思われたが、火竜はまだ戦う気らしく、息を吸い込んで、炎を口から吐き出した。

しかし、炎に勢いはなかった。

水竜は、すました顔で水の壁を軽々とつくって防いだ。


「やっぱり、王族には勝てそうもないみたいだな」白竜は言った。

「王族だと何が違うの?」

僕は、二匹への集中を解きながら尋ねた。

「竜の王は生まれながらにして決まるわけじゃない。何千年も修行して、やっと王になるんだ」白竜は説明し始めた。

「竜っていうのは、生まれた時はそんなに力のあるものじゃない。子供の竜は竜神界で過ごしているから、人間が見ることもない。人間界の学校みたいなところも、あるんだぜ。そこで、ある程度勉強して、霊力が付いた竜だけが、人間界に来ることができるんだ。だから、お前たち人間が見たことがある竜は、そういう力のある竜だけなんだ。竜の本当の仕事は、人間界の自然を守ること。天候とかも含めてな。それで、人間界と龍神界を行ったり来たりしながら仕事するってわけだ。竜族は五つに分かれていて、樹と火と土と鉱物と水に分かれている。最初から分かれているわけじゃなくて、仕事をしているうちに、自分の属性が明らかにされるんだ。竜の色もそれぞれ樹は緑、火は赤、土は茶色、鉱物は金色、水は青だ。でも、俺みたいに白いのや黒いのもいる。これらはちょっと特殊で、何でも屋みたいなもんだ。何でもできるけど、パワーはそれに特化した竜には負けちまう。まあ、それでも修行すれば、上には行けるんだ。昔は白い竜が王だった時もあるしな」

「ふーん」初めて知る竜の世界は興味深かった。

「それで、どうやって王になるの」

「ある程度霊力がついたものの中には、もっと強大な力が欲しいと思うものもいるんだ。その方が人間界の天候を大規模に操れるからな。それで、過酷な修行に入るのさ。修行に入るようにと特に誰かから勧められることもない。修行が大変なのは皆が知っていることだから、修行をやるって決意するのは何百年に一匹しか出ない。そして、その修行を終えた竜たちは王族と呼ばれるようになる。その修行は才能のあるものでも1000年以上の時間がかかるんだ。そして王族の中の王になるには、修行の中でも特別な修行を行ったものだけがなれるんだ」

「すごいんだね」

何百年とか何千年とか僕には実感がわかなかった。

「ああ。実は俺もあいつに負けた。それでも水竜に隠れて人間の悪い奴は消そうとしてはいたんだが、正孝に会って考えを変えたってわけだ」と、白竜はちょっと照れくさそうにニッコリした。

「ありがとう」僕はなんだか嬉しくなった。


上空からドーンと激しい雷の音のような音が聞こえてきた。

「決着がついたな」と白竜が言った。

上空を見ていると、何かが落ちてくる。きっと負けたほうの竜だ。

とっさのことで二匹の戦いに集中できない。

落ちてくるのは水竜のお兄さんか?それとも火竜なのか?

目視できるぐらい近づいた竜は、赤かった。

やられたのは火竜だと分かってほっとしたのもつかの間、僕たちにぶつかると思った瞬間、水竜が火竜の身体の下に回り込んで火竜を受け止めた。

「ちょっと、やり過ぎたかもしれないな…」

水竜の目は悲しそうだった。

近くにいた火竜の子分らしい竜に、火竜を渡すと、水竜は再び人間の姿で僕の前に現れた。


「これで、人間に危害を加えようとする強硬派は抑えることが出来た。あとは、人間を説得するだけだ」

お兄さんが言うには、今日は阿久津くんの家を火事から守ることができたが、すでに竜ケ沼埋め立て関係者の家を何軒か燃やされている。

ただ、竜たちも今は警告のつもりらしく、人間がいない時に放火しているので、その火事で命を落とした人間はいないそうだ。

「もしかして、お母さんが言っていた火事のことだろうか」

僕が考えていると、お兄さんが僕の考えを読んだように、「そうだ。本当は阿久津くんの家を真っ先に狙いたかったらしいが、たまたま不在にならなかったので、他の家から狙ったのだろう」

「今日は阿久津君の家は不在だったの?」

「そうだ。おばあちゃんの家に阿久津君と阿久津君のお母さんはでかけていて、9時には家政婦さんが仕事を終えて帰る予定だった。家のあるじは仕事で遅いから、今日がチャンスだったんだ」公園で今日の九時と約束してくれたところを見ると、竜たちには人間の未来がある程度分かるらしい。

「ふーっ」僕は胸をなでおろした。

「もう時間も遅い。白竜が送ってくれるから、帰って眠るといい。今日はお疲れ様」

お兄さんは先ほど激しい戦いをしたはずなのに、全く疲れたそぶりを見せなかった。

僕の方は、たくさんの新しい知識と竜の戦いの興奮で、すっかり疲れていた。


白竜に家に送ってもらったあと、ベッドの上に寝転がって寝ようとしたが、なかなか眠れなかった。

疲れているけど、今日あったことを思い出してしまう。

次から次へと疑問が湧いて来る。

どうしよう。眠れないと思っている内に、ようやく、まぶたが重くなってきて、眠ってしまった。


「正孝、正孝、いくら夏休みだからって、寝すぎよ」

お母さんが、ベッドの隣で仁王立ちしていた。

「え!」

「今何時だと思っているの? もうお昼の時間よ」

僕はベッドから出ると、二階の食卓へ行き、母さんの作ってくれたそうめんを食べ始めた。「正孝、どこか体の具合でも悪いの?」

心配そうにお母さんが僕の顔を覗き込む。

「いや、どこも」

僕は、箸で取れるだけのそうめんをすくって、つけ汁に入れた。

「いつも、夏休みになると、早起きして、クワガタやカブト虫を捕りに出かけるのに。こんな時間まで寝ているなんて…」

「大丈夫、大丈夫。ちょっと昨日考え事をしていただけだから」

「ますます、おかしいわね」

「僕だって5年生だよ。考え事くらいするよ」

ちょっと頬を膨らませて抗議する。

お母さんは、日ごろは僕の話をしっかり聞いていなくて、翌日、同じ話をするはめになることが多いのに、僕が何かを企んでいる時は勘がいいのだ。

僕は食べるのに熱中するふりをした。


玄関のチャイムが鳴った。

お母さんが出ると、遠藤くんが来ていた。

「こんにちは 正孝くんいますか」と、玄関のほうから声がする。

最後の一口を食べて、食べ終わった食器を流しに片付けた。

ガシャとちょっと派手な音がしたけど、気にせず部屋まで走って帽子を取ると玄関に行った。

「行ってきます」と靴を履きながらすでに3階に上がってしまったお母さんに向かって叫んだ。

「行ってらっしゃい、夕ご飯までには戻るんですよ」と、上の方から声がした。


僕は遠藤くんと一緒に家をでた。

そして、一本木公園に行った。

遠藤くんの名前は、利彦と言った。

だから、僕はいつもトシちゃんと呼んでいた。


「トシちゃん、竜ケ沼が無くなりそうなの知ってる?」と、僕は訊いてみた。

「うん。ばぁちゃんが教えてくれた」

トシちゃんは、キョロキョロと周りを見回して、誰も話を聞いていないと確認すると、小声になった。

「ばぁちゃんがさ、あの沼を埋め立てたらいけないって言うんだよ。呪いがあるかもしれないって」

「呪い!」

僕は大きな声を出してしまった。

「シー! バカ!変に思われるだろ!」

僕以上の大きな声でトシちゃんが注意する。

「ああ、ごめんごめん」

「ばぁちゃんの話だと、今までも竜ケ沼を埋め立てる話が出たことがあったみたいなんだけど、毎回その埋め立て関係者が病気になったりして中止になったんだって」

「そうなんだ」

今度は怒られないように、小さな声で答えた。

心の中で、昨日の水竜の話がよみがえってきた。

「まあ、年寄の話だから当てにならないかもしれないけどな。でも、ばぁちゃんは、その…色々見えるほうだからな…」と、ますます声を落として、トシちゃんは続けた。


そこへ、クラスメートの前川くんが公園に入ってくるのが見えた。

彼は阿久津くんの仲良しだ。

友達というよりも、どちらかと言えば、取り巻きのような感じだ。

僕は前川くんが、あまり好きではないので、日ごろ遊ばないようにしている。

前川くんは僕たちに気づくと近づいてきた。

「よお。今日は阿久津と一緒じゃないのかよ」と、トシちゃんが訊いた。

「うん。阿久津くんのお父さんが病気になっちゃったみたいで、邪魔しないようにって、おばあちゃんの家に行く予定なんだって。昨日から、おばあちゃん家に行く予定で、出かけたらしいけど、お父さんの病気で一度、自分の家に戻らせられたのに、また出かけなきゃいけないんだって、ぼやいていたよ」

友達のお父さんが病気と知って心配らしく、ちょっと浮かない顔で前川くんは答えた。

「ずいぶん詳しく知っているね。阿久津が言っていたのか」

「いや、俺んち阿久津くんの家の斜め前だろ。昨日の夜中、救急車が来て、俺は出ていかなかったけど、お父さんが出てったら、阿久津くんのお父さんが救急車で運ばれるところだったんだよ」

「えっ! じゃあ、入院しているの」と、思わず話に割って入ってしまった。

「いや、病室が空いてなかったらしいよ。それに、今は安定しているってことで、先ほど戻ってきていたみたいだよ」

「そいつは大変だな」トシちゃんも渋い顔をしている。

いつもは阿久津くんを嫌っているけど、元々心根が優しいので、本気で心配しているようだ。

ちょっと沈黙が流れたが、僕たちに何かできるわけでもなかった。

そのまま三人で、公園で遊んだ。

途中でトシちゃんが、「俺、ばーちゃんに頼まれた買い物があるから、ここで帰るわ」と言った。

前川くんも「僕も今日は、これで帰るよ」と言って、二人は一緒に公園から出ていった。

僕も一緒に帰ってもよかったのだが、昨日の夜のことと阿久津くんのお父さんのことが頭の中でグルグルしそうだったので、家に帰る前に少し考えを整理してから帰ろうと思った。

何か僕にもできそうな気がするが、何ができるのか分からない。

いや、本当に何か僕ができるかどうかも分からない。

でも、心のどこかで、何かをしないくちゃいけないと、急かされている気がするのだ。

そんなモヤモヤする気持ちでベンチに座っていると、白猫、つまり白竜がやってきた。


「水竜の王からの伝言だ」白竜が口にくわえてきた手紙を僕の膝に落とした。

大人の人が使うような白くて何の変哲もない封筒だった。

僕はドキドキした。

封はしていなかったので、直ぐに中の手紙を取り出し、読もうとした。

しかし、何も書いていない。

「ねー白竜、何も書いていないけど?」

僕は、手紙を前にドキドキした自分がなんとなく恥ずかしくなった。

それを紛らわすように、白竜にぶっきらぼうに手紙を返そうとした。

「あのなー、これは竜神文字だから」

白竜は僕の態度を気にする様子もなく言葉を返してくる。

「正孝、手袋をはめて、五方星に集中してから読んでみろよ」

白竜が手袋を渡してくる。

僕は手袋をはめて、五方星に集中した。

すると、今までなかったはずの文字が浮いてきた。

日本語とは違うけど、僕には、その文字を読むことが出来た。


正孝君へ

君にお願いがあります。

阿久津くんのお父さんに会って、竜ヶ沼の埋め立てを中止してもらいたいと伝えてください。

水竜


よほど急いでいるのだろう。走り書きされていた。

「でも、こんな事、僕が言っても聞いてくれないよ」と、手紙に向かって言ってしまう。

隣では、僕の顔を白竜がじっと見ていた。


どこかで水竜の「大丈夫、大丈夫」という声が聞こえてきたような気がした。

さっきまで何かやらなくちゃと思っていたのに、ここで怖気づくなんて、勇気がないように感じた。

行ってみよう。僕の決心は固まった。


阿久津くんの家のチャイムを鳴らす。

自分の心臓の音が早鐘のように聞こえる。

一緒についてきてくれた白竜も、さすがに家の門の前で分かれて、今は一人だ。

玄関が開いた。

「こんにちは、正孝くん。久しぶりね。浩一は、おばあちゃん家に行っているの。遊ぶ約束していたのかしら」と言いながら、阿久津くんのお母さんが出てきてくれた。

阿久津くんとは幼稚園が一緒だったから、阿久津くんのお母さんは、僕を覚えていてくれたらしい。

「あの…浩一くんじゃなくて、浩一くんのお父さんに会いたいんです」と伝えると、おばさんは一瞬驚いた顔をした後、少し困った顔をした。

「実はね…ちょっと具合が悪いのよ。よかったら、おばさんが代わりに聞くけど、どうかしら」

「直接、どうしても直接話したいんです…」

「分かったわ。少し待っていてね」と言うと、おばさんは家の奥へと向かった。

玄関で待っている間、更に僕の緊張は高まってきた。

手のひらは変な汗をかいていて気持ちが悪かった。

「こんにちは、正孝くん」と、阿久津くんのお父さんが、パジャマ姿で出てきた。

「突然訪ねてきてすいません。それに、病気で休んでいるのに、すいません」と頭を下げた。

「いや、大丈夫だよ。それで、話っていうのは何かな」

学校で見かけた時は、校長先生に頭を下げさせるくらいだから、怖い人だと思っていたが、普通に話しかけてもらえて、少し勇気が出た。

僕はぐっと足の裏に力を入れた。

「あの…竜ケ沼の工事をしないで欲しいんです」

阿久津くんのお父さんは、今までの優しい表情を一変させて、眉間に皺を寄せた厳しい表情になった。

「申し訳ないけど、竜ケ沼のことは、もう決まってしまったんだよ」

口調は優しいままだが、おじさんの決心が固いことは分かった。

「それにしても、どうして竜ケ沼を残したいんだい。息子もそうだが、今の子供たちは外遊びよりもゲームの方がいいのだろう? 駅前の再開発で新しくできるビルには、ゲームコーナーが入る予定だよ。それが出来れば、竜ケ沼のことなんて忘れてしまうよ」

僕は竜ケ沼を無くされると困る理由を説明したかったが、何も出てこなかった。

水竜や白竜に話をちょっと聞いただけでは、他の人に説明できるほど、自分の中で考えがまとまっていなかったのだ。

それに、自分だって自然を守るために何かをやったことはない。

それなのに他の人を説得するなんて、できっこないと思ってしまった。

何も言い出せない僕を見て、阿久津くんのお父さんは続けた。

「それに、君も5年生だろう。釣りよりも勉強を頑張るほうがお母さんも喜ぶと思うよ」

僕は下を向いたままだった。

自分の靴のつま先をじっと見つめた。

涙が出ないようにするのが精いっぱいだった。

「じゃあ、わかったね」と、僕に向かって言うと、家の奥に向かって「おーい、この小さなお客さんにお土産にお菓子でも渡してくれ」と声をかけて、振り向きもせず廊下の奥へと行ってしまった。

僕は、そのまま玄関から飛び出した。

そして、一目散に駆け出した。

気が付いたら泣いていた。

そのまま家まで泣きながら走った。

門の外で待っていた白竜が、僕の後ろから追ってきていたけど、白竜に泣き顔を見られるのが嫌で、そのまま自分の家に入ってしまった。

僕は「ただいま」とだけ言うと、自分の部屋に入り、涙をふいた。


程なくして夕飯の時間になった。

テーブルにつくと、出張帰りで、いつもより早く帰ってきたお父さんが、ビールを飲んでいた。

お母さんは、お父さんの話の相手をしていて、あまり僕に話しかけてこない。

ちょうど話したくない気分だったので、好都合だと思いながら、急いでご飯を食べて、自分の部屋へ戻った。


コツコツと窓を叩く音がした。白竜だった。

窓を開けて部屋にいれながら、白竜に謝った。

「ごめん…。僕、説得できなかったんだ」

また、悔しさがこみ上げてきた。

「いいってことよ。お前は頑張ったさ」と、白竜は慰めてくれた。

「実は、水竜が直接説得しようとして、今、阿久津くんのお父さんと夢を通じてコンタクト取ろうとしているんだけど、あまりにも自然を大切にする気持ちを失っちゃったもんだから、コンタクトできないらしいんだ」

白竜は、そこで話を切って、僕の方を見つめた。

言おうか言うまいか、ためらっているような顔つきだった。

「続きを教えて」と僕は言った。

「一つだけ思いついた方法がある。それは、お前が夢の中に一緒に入って説得することだ。お前なら人間だから、阿久津に直接話ができる。そこで自然の大事さを思い出させてくれれば、後は水竜が話をしてくれるだろう」

「分かった。やる。今度こそやる」

僕はこぶしを握り締めて言った。

「ただ…」と白竜は口ごもった。

「ただ?」

白竜は、意を決したように続けた。

「ただな、もし、うまく説得できなくて、水竜が阿久津にコンタクトできないと、お前が夢の中にとらわれてしまうかもしれないんだ」

「どういうこと」

「ここからお前の魂を送ることはできても、戻すことはできない。戻すには、阿久津の夢の中から送り戻すことしかできないんだ。水竜が阿久津の夢の中で受け入れてもらえれば、お前を向こうから送れるが、もし、夢の中に受け入れてもらえないと、送り返してもらうことができない。夢の中に入るのはお前の魂だけだから、お前の肉体には問題はないんだけど、魂がとらわれてしまうから、植物人間みたいになっちゃうんだ。それに、阿久津の魂も戻れなくなる可能性が高い。一つの肉体に一つの魂なのに、二つの魂があるみたいになっちゃって、魂と肉体がうまく合体できないんだ」

「僕も阿久津くんのお父さんも、植物人間になっちゃうかもしれないってことだね」

「まあ、そういうことになるな…」

白竜は、僕の膝に前足を乗せて、まるで撫でるようなしぐさをした。

「今のは忘れてくれ! 俺はやっぱり危険な目に、お前をあわせたくないんだ」

「僕…やるよ」白竜の前足を撫で返した。

「でも、お前…」

「大丈夫。さっき、阿久津くんのお父さんに話に行った時、何も言い返せなくて、すごく悔しかった。僕も自然について真剣に考えたこともなかったわけだし。でも、今、水竜や君と知り合って、自然を大切にしたいし、少なくとも自然について勉強しないとダメなんだって思ったんだ。竜ケ沼がなくなったら、自然を守ってくれる竜がいなくなったら、みんなが困ると思う…」

「本当に、いいのか…」

白竜は泣いていた。

「うん。行かない方が後悔しちゃうよ」僕はつられて泣かないように、あわててニッコリ笑った。

「よし。ジャンパーと手袋をつけて背中に乗れ」と言うと、白猫の姿から白い竜へと変身した。

僕は急いでジャンパーと手袋をつけて、飛び乗った。


白竜は、あっと言う間に空高く飛び上がり、大空をかけた。

ちょうど帳が降りる頃で、遠くに太陽の名残のオレンジ色の空が広がっていた。


阿久津くんの家が見えるところまでくると、白竜は空中で止まった。

「今なら帰れるぞ。覚悟はいいのか」と、白竜は尋ねた。

「うん」と、僕は答えた。

もちろん怖いけど、でも一生懸命話せば伝わるんじゃないかという気がした。

「じゃあ、阿久津の夢に送るぞ」と、白竜が言った。


目の前が急に真っ白になって、体が回転しているような感覚に襲われた。

どっちが上で、どっちが下か、分からない。

思わず「うわあ」と声が出そうになったところで、地面に足がついた感覚があった。

気が付くと、コンクリートの部屋の真ん中に立っていて、僕の前には大きな机があった。

机の向こうには椅子があって、そこには阿久津くんのお父さんが座って、電話をかけていた。

多分、会社の一室なのだろう。

テレビドラマで見たことがある社長室みたいだと思った。

阿久津くんのお父さんは驚いた顔をしたが、電話中なので、すぐに僕に話しかけてこなかった。

僕はお陰で、ちょっと落ち着く時間があった。

電話を切った阿久津君のお父さんは、少し怖い顔で僕をにらんだ。

僕のお父さんが会社に行こうと急いで支度している時に、僕が話しかけると見せる顔に似ていた。

「今度は何の用かな。おじさんは今仕事中なんだ。邪魔は、して欲しくないね」

イライラしているのが伝わってくる。

「竜ケ沼の工事を止めてください」と、頭をさげながら頼んだ。

「また、竜ケ沼の話かい?さっきも言った通り、埋め立てるのは、もう止められないよ。ゲームの方が面白いだろう?うちの息子も虫取りすら、やらなくなったよ。君だって、そうなんじゃないのかい」

「はい、ゲーム大好きです」とにっこり笑って正直に答えると、阿久津くんのお父さんも、つられて笑顔になった。

「そうだろう。じゃあ、釣りよりもゲームコーナーの方がいいだろう」

「僕、両方好きなんです。どっちもやりたいんです。おじさんだって、小さい時に釣りしたり、虫取りしたりしたんじゃないんですか?」

「まあ、そうだが…」と、阿久津くんのお父さんが言った途端、空間が歪んだように感じた。そして、直ぐ後にまた、さっきと同じ、どっちが上だか、どっちが下だか分からない感覚になった。

そして、次に気づいたときは、見知らぬ森に立っていた。

近くに阿久津くんがいた。

いや、よく見ると、阿久津くんではない。

似ているけど、違う少年だ。

年は僕と同じぐらい。

少年は僕に気づいていないようだった。

少年は、キョロキョロと周りを見回している。

もしかして、阿久津君のお父さんかな?と思ったら、どこかから水竜の声が聞こえた。

「そうだよ。今、君の言葉で阿久津は小さいころ自然と触れ合ったことを思い出しているんだ。彼の過去だから、もうこれ以上、君が介入することはできない。もう少し、阿久津本人が自然に対して心を開くのを私たちは見守ることしかできないんだ」

「わかりました」

僕は、また何もできない状態になったことに、ちょっと、やきもきしたが、もうこうなったら祈るしかないと思って、阿久津くんのお父さんを見ながら「気づいてくれ~」と願った。 

すると、竜の戦いに集中したら、遠くの戦いも観戦できたように、阿久津くんのお父さんに集中すると、阿久津くんのお父さんが考えていることが、僕の頭に流れてくるのだった。



ここはどこだ?ここは俺がよく遊んだ森だ、懐かしい風景だ。木々が作り出す心地よい風が自分の体を触っていく。それを口から肺に吸い込むと、全身が爽やかになり、心までが軽くなる。そういえば、この頃俺は友達もあまりいなかったっけ。まあ森が友達だったからな。毎日、森で虫を取ったり、釣りをしたり、楽しかったな。近所の明おじちゃんによく連れて行ってもらったっけ。


景色が歪んで、場面が変わった。昔住んでいた家の中にいるみたいだ。父が目の前にいた。

「お父さん、森を無くすって本当ですか?明おじちゃんに聞いたんですが…」

思い出した。俺は森の工事を止めたくて、いつもは怖くて話しかけることさえためらわれる父に、勇気を出して話しかけたんだっけ。

「ああ、そうだ。また仕事が忙しくなりそうだ」

「森が無くなったら、森で生きている生物の行き場がなくなっちゃうんです…。止めることはできないの…」

俺の話は、途中で遮られた。

父の目が吊り上がった。

一代でたたき上げで会社を興し、大きくした父が怒ると、怒られた人は腰を抜かしそうになるくらい迫力がある。

「虫よりも人間の方が大切だろう。アパートよりも自分の家に住みたい人が、いるんだ。そのためには住宅地に造成しないとだめなんだ。それに、もう決まったことだ。そんなことより、お前は勉強を頑張るんだぞ。いつかは俺の仕事を引き継ぐんだから」と、大声で言うと、背中を向けて行ってしまった。


それでも、俺は止めたくて、工事現場に行ったっけ。

そんな俺の回想に合わせて、場面も工事現場に変わった。

「ねー おじさん、この森を壊さないでくれよ、お願いだよ」と、ショベルカーに乗っている作業服の男性に声をかけた。

「ああ、分かったよ。大丈夫、自然を残して上手くやるから」と、男は答えた。

「本当?」

もしかして、全部の森がつぶされるわけではないのかもしれないと期待している俺。

「本当だとも」と、工事現場のおじさんはにこやかに答えた。

しかし…この後、森は全部壊されて、グリンータウンという名前の住宅街に変わってしまったんだよな。


また場面が変わり始めた。

グリーンタウンに新しくできた公園だろうか? 近くには新築中の家が並んでいる。

俺は公園で泣いていた。

俺の森が消えてしまった。悔しい…。悲しい…。

「心優しき少年よ、ありがとう」と、どこかから声が聴こえた。

「え、誰」俺はあたりを見回したが、自分以外に誰もいない。

「私は森の意識です」と、また声だけが聴こえた。

「森の意識?」

「そうです。今まで私を大切に思ってくれて、ありがとう」そよ風のように爽やかで、それでいて温かみを感じる声だった。

「でも… 僕は守れなかった…」答えながら、自然に涙があふれてくる。

「心優しき少年よ、覚えておいてください、自然にも心があることを」

「心?」

「この世の中は、物質だけで出来ているわけではないのです。森はなくなってしまいましたが、私は生きています。最後のお礼をしましょう。私たちを守り育ててくれている竜神にお前を会わせてあげましょう」

竜神に会う、そういえば、明おじさんが言っていた。『この世界の自然は、見えない力で守られている。そのことを忘れてはいけない』と。


俺は森の在った場所から、どこか見知らぬところに移動していた。

とてもきれいな景色が見えてきた。

一面の花畑に、色とりどりの花が揺れている。

目の前には、きれいな水が流れている川がある。

川底が見えるくらい澄んでいるが、結構、底は深そうだし、流れも速い。

そこに、神社でよく見かけるような朱塗りの橋が架かっていた。

「少年よ、橋を渡りなさい」

俺は一瞬、三途の川を渡るのかと思って、怖くなってきた。

するとまた声がしてきた。

「少年よ、怖がることはない」

俺は、エイどうにでもなれという気分で、橋を渡り始めた。

橋を渡ると、緑のドレスを着た髪の長い美しい女性と、白く光っている若い男の人が、俺に話しかけてきた。

二人とも20代くらいだろうか、にこにこしているが、どこか近づきがたい雰囲気をしている。

「少年よ、よく来ました、私はあなたが遊んでいた森です。そしてこちらが竜神様です」

竜神は俺に話しかけてきた。

「森を守ろうとしてくれてありがとう。これからも自然を大事にして欲しい」

「はい」

そうだ、俺はその時、誓ったんだけ、俺はこれからも自然を守り続けるって。

俺は思い出した。忘れてはいけない重要な事を。


どうして忘れてしまったのだろうと、考えていると、また場面が変わった。

場所は昔の社屋だ。同時に俺も背広を着た若者になっていた。

「先代が亡くなったのですから、身内として辛い気持ちは分かりますが、これからは、あなたが社長として、この会社を引っ張ってもらわないと困るんですから、もう少し、しっかりしてください」と専務が黒い喪服姿で言っている。

「ああ、分かった」と答えている俺も喪服姿だ。

ああ、これは俺が大学を出て、父の会社に入って、すぐ後に父が亡くなった時のことだな。

俺は悲しいよりも、まだ20代前半の俺が多くの人たちに、飯を食わせていかなければならない重圧で、押しつぶされそうだった。

あの時まで、父には良い顔をされなかったが、大学時代も釣りばっかりやっていて、俺はまだまだ自然の味方だった。

父の仕事を手伝うようになったら、少しずつでも、自然と共生できる形で仕事をしていくことを、模索しようと思っていたのだ。

だが、次から次へと仕事に追われ、専務を筆頭に、先輩社員に教わった方法で仕事をこなしていくしかなくなった。

たまに護岸工事等で、「三面護岸工事だと魚が上れないのにな…」と、言おうものなら、「社長は、社員を殺したいんですか?公共工事の仕事を取るには三面護岸工事しかないんです。公共工事の仕事が取れなければ、うちなんて潰れてしまいますよ」と、怒られた。

いつしか自分も父親のように、仕事の鬼になった。結婚して息子が生まれても、育児は妻に託してしまった。

会社を大きくすることだけが、自分の使命になっていたのだ。

息子が生まれたら、一緒に虫取りをしたり、魚釣りをするのが夢だったのに。

自然の中で遊んで、自分が小さいときに感じた森を駆け抜ける空気や木漏れ日、清流の水面の美しさ、生き物たちの不思議を一緒に感じようと思っていたのに…。


「どうやら、思い出したようだね」

俺の心に懐かしく、そして暖かい声が届いた。

忘れる訳がない、竜神の声だ。

神々しい光を放っている20代の若者にしか見えない青年が自分の前に立っていた。

「ああ、思い出した。俺は何をやっていたんだ」

「竜ケ沼の埋め立てをしてはいけない。あそこは、自然を守るために必要な場所なのだ」

俺は頷いた。

「分かりました。全て、竜神様の言った通りにしましょう」

竜神は暖かいエネルギーを送ってくれた。

「ありがとうございます」と、俺は心から感謝した。

「よく、決心したな。私は、人間を信じてよかったよ。自分の信念を忘れてはいけない、流されては、いけない、信念を忘れたものは、自分が何者かわからなくなり、そのうちに魔に取り込まれてしまうのだ。そうなったら夢も希望もわからなくなってしまう」

「ああ、本当にそのとおりだ」

涙で顔がぐしゃぐしゃだった。

しかし、頭は冴え、体に気力が湧き上がるのを感じた……。



「正孝、正孝」

どこかで僕を呼ぶ声がする。

目を開けると、白竜が、じっと僕を見ていた。

一瞬どこにいるのか分からず、周りを見回すと、夜空に浮かんでいる白竜の上に、またがったまま意識を失っていたようだ。落ちなくてよかった~。 

「よくやったな」と、白竜が声をかけてくれた

「あれ、ええと、つまりうまくいったんだね」と、やっと頭がすっきりしてきて、何があったのか思い出してきた。

それでもまだ、半分ボーっとしていて、ミッションに成功した実感がない。

「疲れたのも無理がない。家まで送るからしっかり掴まっとけ」と白竜に言われ、僕は鱗にしがみつく。

夜空には星がキラキラと輝いていた。


翌日、僕は、竜ケ沼に釣りに出かけた。

夏の釣りは、朝早くないと釣れない。

僕は、朝ごはんも、そこそこに、釣り道具を一式もって、走ってきた。

竜ケ沼に続く林の中は、ひんやりとしていて気持ちよかった。

林の先に開ける竜ケ沼に目をやると、珍しく先客がいるようだった。

近づいてみると、阿久津くんのお父さんだった。

僕は夢の中でのことを思い出して、ちょっと恥ずかしくなったが、ここで帰るわけにもいかないので、そのまま竜ケ沼の方へ向かった。

阿久津くんのお父さんは、僕に気が付くと、ニッコリと笑って、僕に手招きをした。

「おはよう。昨日は、すまなかったね。竜ケ沼は埋め立てないことにしたよ」

僕は既に埋め立てないことを知っていたが、昨日の夢を、僕が一緒に体験したのは、阿久津くんのお父さんは、気づいていないようなので、ちょっと驚いたふりをした。

「本当ですか!ありがとうございます!」と言った。

阿久津くんのお父さんは、竜ケ沼の景色を見ながら、満足そうに微笑んだ。

どこかから、水竜の「ありがとう正孝君」という声が聞こえたような気がした。




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