6、忙しい気持ち
「ーーーー堀田さん、何か良いことでもあったんすか?」
「へ?」
バイトの休憩中に、一緒になった男の子は休憩室に入ってくるなりそう言った。そんなに顔がにやけていたのだろうか?でも、今はただコーヒーを飲んでいただけなんだけど。
「そんなにニヤニヤしてたかな?」
「いや、ニヤニヤしてたっていうか、最近表情が穏やかだなぁって思ったんす。もしかして、彼氏でもできたんすか?」
彼は冷蔵庫に入れてあるアイスコーヒーを取り出しながら、冷静にそう尋ねてきた。
「か、彼氏なんて……できるわけないでしょう?」
「そうですか?ならいいんすけど……」
確か、朝陽にも言われた。部屋を綺麗にしてから、表情がすごく明るくなったって。でも、それは部屋を綺麗にしたからだけの話ではないと思う。自分でも少しずつ気づいている。芽生えてきているこの気持ちに。
きっと朝陽が私を変えてくれているんだ。彼が私の自殺を止めてくれたから、彼がいつも穏やかに接してくれるから、彼がいつも私のことを考えてくれるから……。だから、私の気持ちも少しずつ解れてきているのだと思う。
そして、そんな彼に好意を抱いていることは間違いないだろう。もう否定する必要もなくなっている。私はきっと、彼のことが好きなんだ。素直に認められるようにはなったが、それを表現することはとても難しい。
コーヒーを片手に、スマホを確認する。朝陽からの連絡は特にはない。朝陽が私の家に泊まったあの日から、もう1週間が経った。少し連絡をとることは、あるがあの日以来彼は私の家を訪ねていない。
それもそうだよね。彼には彼の時間があるし、第一私たちは恋人同士じゃないんだから。
「ーーーーだったら、俺、堀田さんのこと狙っても良いっすか?」
「……は?」
いつの間にか目の前に座っているバイトの彼は、真剣な表情でそう話しかけてきた。……この子って、確か1ヶ月前に入ってきた新人の子だったよね?見た目は結構やんちゃな感じがするが、仕事の要領はよく、お客さんからの評判も良い。ここの従業員ともすぐに仲良くなったし、明るく人懐っこい人柄が皆に好かれるのだろう。
確か、朝陽と同じように大学生だった気がする。初めの頃に話したことだから、明確には覚えていないけどそう言っていた筈だ。名前は橋下悠真。従業員からは、はっしーと愛称をつけられている。
「……いきなりどうしたの?疲れてるの?」
「俺本気っす。接客対応とかいつも参考にしてるし、キャリアウーマン的な雰囲気がすごく憧れだったんっすよ。でも、最近そういう雰囲気の中にも可愛らしさも含まれてきたというか……とりあえず、魅力が増してます」
「……はあ」
「信じてないみたいっすね」
「うん、全くね」
「酷いなー!!若い男の子がこんなにも真剣に告白してるっていうのに……罪な女ですよ!堀田さん!」
「いやいや、告白はしてないでしょう」
「そんな小さなことはいいんすよ!じゃあ、連絡先だけでも教えてください!せめて、アプローチする手段くらい持たせてください!」
「……まあ、仕事のこともあるし連絡先ぐらいなら良いよ」
「本当っすか!?わー!ありがとうございます!!」
無邪気に喜ぶ橋下くんこと、はっしー。何だ?私、急にモテ期が来たのか?こんな年になってようやく……ね。まだまだ人生捨てたものじゃないのかもしれないわ。
はっしーに言われるがままに連絡先をスマホに打ち込み、すぐに登録は完了した。嬉しそうに微笑む彼は、興奮からか一気にアイスコーヒーを飲み干した。
私も立ち上がり飲んでいたマグカップを洗うと、乾燥機の中に入れた。そして、再び冷蔵庫から飲み物を取り出している彼に話しかける。
「じゃあ、ゆっくり休憩してね。私戻るから」
「ええー、せっかく2人きりで休憩だったのにー。もう少しゆっくりしていけば良いじゃないですかー」
「先に十分休憩したから良いのよ。まあ、また連絡しておいで」
「良いんすか!?その代わりちゃんと連絡返してくださいよ!?」
「んー、気分によるかな!」
「ちょっ、堀田さん!!」
そんな、はっしーの言葉を遮るように扉を閉める。必死になっているのも可愛いな。まあ、もしかしたら大人をからかっているだけかもしれないし、あまり本気にしないようにしよう。
もう男の人のことで痛い目を見るのは嫌だからね。
***
バイト終わり、究極の眠気に襲われながらフラフラと道を歩く。私と反対方向に進んでいく学生たちは、今から授業があるのだろう。眠たそうな顔の子、寒さに凍えながら歩いている子、友だちと楽しそうに会話をしながら自転車を走らせている子と、様々だ。
学生の頃は、私もそれなりにイキイキした表情で学校に通っていたのだろうか。それすらも、あまり思い出せなくなってきているな。
ココアを両手で持ち、寒さに震えながら歩いていると後ろから軽快な足音が聞こえてきた。急いでいるのか、それとも毎日ランニングをしている誰かなのか……それはよく分からないが、少しずつ音は近づいてくる。そして、その足音は私の後ろで止まった。
何だ……?不思議に思い振り返る。
「七瀬さん!おはようございます!」
「あ……朝陽……!」
いつものように柔らかい笑みを浮かべる彼。私の顔を見ると、さらに嬉しそうな表情に変わる。
「仕事終わりですか?お疲れさまです!」
「あ、うん。さっき終わったところ……。朝陽は?」
「僕は今から学校ですよ!でも、コンビニから出て来る七瀬さんの姿が見えたので追いかけて来ちゃいました!」
「そ、そうだったんだ……!ありがとうね」
「僕の方こそ、朝から会えて嬉しいです!」
穏やかな時間。もう少し続いて欲しいとは思うけど、彼は今から学校で講義がある。そんなワガママは言っていられない。
「うん、じゃあ頑張ってね……」
「七瀬さん?疲れてます?」
「そりゃあね、仕事終わりだから疲れてるかな」
「それもそうですよね、あ、じゃあ、遅刻するのでもう行ってきます!」
「うん、行ってらっしゃい」
小さく手を振って彼を送り出すと、すぐに前を向いて歩く。私、いつの間にこんなにも彼のことが好きになっていたのだろうか。自分でも気づかない内に、溺れてしまっている。
「ーーーーあ、七瀬さーん!」
その声に振り返る。少し離れたところで、朝陽は手を振りながら叫んでいた。私が首を傾げると、彼はそのまま話を続ける。
「今日、僕バイト休みなので久しぶりに会いませんかー!?」
「え、あ、も、もちろんっ!!待ってるから!!」
「分かりましたー!また連絡します!」
そのまま、彼の後ろ姿を見えなくなるまで見送る。温かかった筈のココアは、すっかりぬるくなってしまっていた。それでも、顔は熱くて気持ちは浮わついて仕方がない。
最近の私の気持ちは忙しい。少しのことで落ち込んだり、また小さなことで嬉しくなったり……。こんな気持ちになるのは、本当に久しぶりだ。
もう少し自分の気持ちに素直になる時がやって来たのかもしれない。私も、頑張らないと。