武威帝マクシミリアン⑤
一方ボロディンは若年のころからジギスムントを補佐し、年に似合わず政治的知略にたけるようになった。ボロディンは兄に半分羨望の気持ちをもっていたのか、金髪のかつらを作らせようとした記録がある。なぜ最後まで作らせなかったかというとなれそうもない容姿に背伸びをしようとする自分に気づき急に腹立たしく思えたからではなかろうか。
ボロディンは年を重ねるにつれ髭を長く伸ばすようになり、美髯大公として有名になった。ボロディンは兄とは趣が違うにせよなかなかの好男子で、実際家族には控えめな態度であったが女性関係は派手であった。ボロディンは東洋趣味で部屋を高価なペルシャ絨毯を敷き詰め、愛猫と愛人とをそこに寝かせて肖像画を描いた。普段は正装で過ごしたが、今日に伝わる肖像画にはボロディンはしばしば東洋風のターバンをした姿で映っている。翻ってマクシミリアンには肖像画はほとんどない。マクシミリアンの短気は何時間も同じ姿勢でいることに耐えられず、一つ石灰岩の石像と家族全体での肖像画が一枚あるのみである。といっても、兄に何かと遠慮する弟が自分の肖像画を何枚も書かせたのはマクシミリアンがその手のものに興味がないと知っていたこともあるのかもしれない。
ボロディンはしばしば議会対応に勤しんだ。新たな平民派が進出しつつあったので、ボロディンは彼らが急進化せぬように農耕政策や都市政策に十分な力を注いだ。議会ではこのころ自由主義派の勢力がおり、さらにごく少数の共産派が現れた。ボロディンは幾人かの譜代の臣下を伴い平民派との交渉を担った。予算を通そうとするたびに、仲間の保守派はともかく、新たな課税には常に自由主義者がうるさく嗅ぎまわったし、特に特権の制限の主張は厳しく、何度もボロディンは影のうちにこれを処理し、不満が表に出るのを防ぐ必要があった。ジギスムントが常に威厳ある調停者としてふるまうためである。彼が書いた秘密書簡の数々は、後年に暴露され彼のいくつかの密約や贈賄、政敵への誹謗中傷はスキャンダル扱いされるのだが、しかし文章に限ってみれば、なかなか優れたスタイルであった。
ボロディンとマクシミリアンが初めて政治的に対立したのは軍制改革である。マクシミリアンが幾度か外征に参加し名を馳せるようになると軍という巨大な組織の合理化はこの才気はあるが移り気な若者の心をとらえるようになった。マクシミリアンには珍しく日夜図書館にこもって大小細やかなプランを立てた。特に、軍の一部に残っていたオットー派の残骸が何度かマクシミリアンに故オットー大公の軍制改革の先進性をささやいたらしく、純技術的に卓越した人事制度と兵装の更新を創出することに勤しんだ。この時はオットー大公のもとで参謀スタッフにいたシュタインメッツ大佐とミュラー大佐が正確な記憶と高度な実務経験から野心的な計画策定に助力した。
その改革案はいくつかの時代遅れの部隊の解消や新式小銃の導入、騎兵中心の第四軍と第五軍を解体しそれを砲兵十個旅団に再編成するなどの内容を含み、ジギスムント帝が行っていたきらびやかで外見先行のものと比べて実務的だが金がかかった。特に騎兵の砲兵転換は金と政治的労力がかかりそうだった。第四・第五軍は建国時に大きな功績があり伝統が足かせになったし、これらを指揮していたベルギリウス大将とマウントバッテン大将の両名は有能かどうかはともかく、父の重要な政治的盟友であった。
ボロディンはこれを表向き財政を理由に修正を促した。ボロディンはあくまで自分の意見として諫言したが、騎兵隊を助けるためであるのは明らかであった。なにせジギスムントは騎兵隊にさらに多くの予算を回そうとしていたのだ。マクシミリアンも多少はボロディンの意を受けていくつか改革案の温和化、あるいは計画の後回しを認めたが、父の無能だが忠実な取り巻きのプライドを傷つけないやり方はどうにも折り合わなかった。
結局はどうやっても砲兵科の予算が騎兵科の予算を食いつぶすのは明らかであり、あれこれと手を加えていくと、はじめは完璧に思えた計画が少しずつ別物のようになっていくのは、自信過多気味の若者の美意識をかき乱した。逆に、改めて予算を精査していくと、いかに伝統ある部隊が予算を蕩尽し享楽にふけているかをまざまざと感じ、若者らしい潔癖さで怒りにふけった。