1話、つい先ほどまでの俺
大学二年目を終えて三年目を迎えるのを待つ春季休業期間が始まったばかりのこの日、俺は寒さの厳しい二月の道をわざわざ歩き大学の図書館にレポートに使った資料を返しに向かっていた。
我が大学は図書館で借りた本や資料は期限内に返却しなければ超越した日数分本の借り入れができなくなる。三年目が始まり4月にはいってから返却すれば超越した日数である約3ヵ月分もの間本が借りれなくなり7月まで大学の図書館でレポートに使うための資料が借りれなくなる。そうなったら俺の三年前期の単位は終わりを迎える。
別に大学の図書館にこだわらなくてもいいじゃないかと思うかもしれないがそれは違う。近くの地方図書館は本の数に俺は不満に覚えているので論外、インターネットは情報が多すぎて精査するのに時間がかかりすぎる。それに比べて大学の資料検索のシステムはとても充実している。これがなければ俺は単位の多くを落としてしまっていただろうから俺も必死だ。
さて、司書さんに期限を守るように軽く注意を受けてそれに対して平謝りして帰ろうかと思う。が、ふと視界におじいさんが入った。我が大学の図書館は一般の人も利用できるらしいのでここにおじいさんがいることには特に問題や興味を持つような光景ではない。
しかし、そのおじいさんは腰が悪いのか高いところにある本をとるのに手間取っているようにみえた。善人側に近いと自称する俺はおじいさんの手助けをしてやることにした。
「おじいさん、もし本の題名をいってくれれば代わりに取りますけど・・・」
知らない人に話しかけるというシチュエーションに少しだけ緊張してか遠慮がちに声をかける。
「ああ、ありがとうございます。では一番上の列にある『アスリートになるためのカラダづくり』と『アスリートになるための食事』、二段目にある『栄養バランスに心がけた食事について』をとっていただけますか?」
おじいさんはこちらに意識を向けると優しそうな笑みを嬉しそうにうかべてそう指示を出してきた。
それにしてもこのおじいさん、これらの本をなぜ読むのだろうか。いたってどこにでもいるおじいさんは鍛えてるわけでもなさそうなのに。結構な年齢だろうこのおじいさんは今からアスリートでも目指すのだろうか?と少しばかな疑問を浮かべながら本をとる。
「これでいいですか?」
といいながら俺は言われたとおりに本を差し出す。
「はい、ありがとうございます。」
と俺の脇に立つおじさんはにこにこと笑いながら本を受け取った。本当に人のよさそうなおじいさんだ。だからつい。
「なぜこれらの本を?」
と変にきいてしまったが、おじいさんはなんも煩わしさなどといった感情も浮かべずに
「孫が本気でテニスの選手を目指すようでそのための知識を簡単に教えてあげようと。」
と軽く答えてくれる。なるほど、近年日本人選手がウィンブルドンなどでいい成績をおさめて活躍しているからその影響だろう。ただこれらの本はおじいさんの子供に簡単に教えられるような内容なのだろうか?
「へぇ、おじいさんもこんな寒い中ここに足を運ぶなんてよっぽどお孫さんの熱意がすごいんでしょうねぇ。でもここの本はお孫さんには難しいんじゃないですか?」
少し話して緊張がほぐれてきている。おじいさんの優しい雰囲気も要因の一つだろう。
「えぇ、ですのでかみ砕いた表現にした後に要約してまとめるつもりなんですよ。」
と何やら楽しそうである。というよりもこのおじいさんはこんな労働を孫のために・・・。俺の考える孫に甘いおじいさんとは別のベクトルで優しいおじいさんである。
「はは、なんか大学の課題提出みたいですよ?頑張ってくださいね。」
と笑いながら俺はそろそろ帰ろうかと考え始める。
「ええ、ここで働いてた頃を思い出しますよ」
と帰ろうかと考え始めていた俺に気になることを言い出すおじいさん。
「ん?おじいさんは司書でもしていたのですか?」
俺はついきいてしまう。
「いえ、3年前までここで経済学の教授をしていたのですよ」
おお!親近感の湧くような経歴だ。ちなみに俺も経済学部である。
「へぇ、俺も経済学部なんですよ。場合によってはおじいさんの授業をとってたかもしれませんね!」
ほんの少し興奮しながらいってみる。
「そうですね。そうだ、課題提出などに役立つ資料としておすすめのものをおしえますよ。本をとってくれたお礼として。」
おおこれは思わぬ収穫だ。いいことはしてみるものだな!
おじいさんは俺を自分が使っているテーブルに連れていくと、一般論をとても分かりやすく解説したものや新しい観点から考察したものなどを紙にリスト化してくれた少し時間がかかったが時間の割におじいさんの書くペースが速くそこまで気にはならなかった。ほかにもいろいろと課題に役立ちそうな情報をくれた。教授目線での情報なのでありがたく聞かせてもらった。なのでこちらもテニスのルールで解釈の難しいところを何点かあらかじめ教えておいた。俺はテニスを部活などではやったことはないが知識として蓄積していたほうだったからだ。
気づくとかなりの時間が過ぎていた。そろそろ帰ろう。
「おじいさん今日はいろいろ教えていただきありがとうございました!そろそろ帰りますね」
「そうですか、いえ老人の長話に付き合ってくれてありがとうね。気をつけて帰りなさい」
「はい!さようなら」
得られた情報などにホクホクしながらの帰り道。外はパラパラと雪が降っていた。少し急いで帰ろう。そう考えて十分ほど歩く。長く傾斜が急な坂の途中にでる。ここをくだってしばらく行って右に曲がれば家に着く。その坂を下りきるぐらいで帰ったら何をしようかと考え始める。
そう、俺は考え始めるぐらいまで確かに意識があったはずなのだ。
そう、俺はそこまでは日常の中にいたはずなのだ。
そう、俺は自分について考えるまでもなく知っていたはずなのだ。