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8.混濁

 アキラちゃんが神殿に戻ってくるまでのイソラは、何もなかったかのように振舞っていた。

 周囲に対しても、教え子である私に対しても平常通り。


 今でこそ忙しいけど、従者を紹介され、公務を割り振られるまでの間、私は何もすることがなかった。

 話し相手はもっぱらイソラ、時々大司祭様。

 暇な人間の観察力、そして反芻力はすさまじい。今日はこんな話をした、今日はこんな表情を浮かべた、今日はいつもより機嫌が良かった、今日は少し疲れていた等々。

 他に娯楽がないもんだから、しょっちゅう『本日のイソラ先生』を思い出しては、暇を潰していた。我ながら気持ち悪い。刷り込みの一種なのかもしれないけど、私はイソラが好きだった。


 好きだからこそ、些細な違いにも気づいてしまう。

 小さなため息が増えた。遠い目をするようになった。私の黒髪をじっと見つめることもある。視線が合うと、曖昧な笑みを浮かべて追憶を隠す。

 ここにいるのが、アキラちゃんなら――

 きっとそう思ってるんだろう。


 エーリクに言うと、「姫様はあえて痛いことをするのがお好きなのですか?」と聞かれた。

 人をドエム扱いしないで欲しい。


 

 アキラちゃんがようやく戻ってきたことを、私は知らされる前に自分で気づいた。

 いつものように執務室にやってきたイソラが、憑き物が落ちたみたいな清々しい顔をしていたから。光の加減によっては黒にも見える群青色の瞳が、抑えきれない喜びに満ちている。


「そんなに嬉しいの?」


 自分の口からこぼれでた言葉が信じられなくて、瞬きを繰り返した。ものすごく厭な言い方だった。

 イソラも驚いたように私を見つめる。


「なにがでしょう?」

「アキラちゃんが戻ってきたんですね。上手くいったみたいで良かったです」


 完全な引っ掛けだ。私は何も知らされていない。


「大司祭様からお聞きになったんですね」


 イソラは穏やかな笑みを浮かべ、「ええ。正式に婚約が相成りました。流石はアキラ様です。同時にミレルへの援助も取り付けてこられた。大司祭様もさぞお喜びのことでしょう」と続けた。

 それから私に向かって頭を下げる。


「全ては女神様の祝福あってのこと。深く感謝いたします」


 何の気なしの一言に、ぐっさり刺される。

 イソラは司祭だ。きっと心から女神を信仰してるんだろう。何か良いことが起これば、それは全部女神のおかげ。だから彼がこんな風に言うのは、嫌味じゃない。


 私が勝手に傷ついたのは、自分に女神の力があるとは思えないから。

 奇跡パワーで病人を癒せるわけでもない。祈りを捧げて目に見える成果が現れるわけでもない。

 読んでも理解できない書類に機械的にサインして、決まった通りの祭礼作法を叩き込まれて、ただ神殿にいるだけ。それで充分だと皆言うけど、どうしてもそうは思えなくなっていた。


 第二神殿へ渡る境界の扉さえ開けることを許されない私を残し、アキラちゃんは外の世界へ出て行く。

 自分の責務を立派に果たす彼女を心からすごいと思う。と同時に、ここまでイソラに慕われるアキラちゃんが、自由に動ける彼女が、猛烈に妬ましい。



「ミヤビ様。どうされたのです、憂鬱そうな顔をされて」


 控え室で待っていた眼鏡さんが、心配そうに顔を覗き込んできた。

 眼鏡さん達は、紳士的で優しい。寵愛を受けられなくてもいい、従者として少しでも私の気分を明るく出来たら、と心を砕いてくれる。

 私が名前を聞かないのは、そんな彼らにこれ以上依存したくないからだ。


「大丈夫、ちょっと疲れただけ」

「ミヤビ様の大丈夫は当てになりませんからね」


 部屋に戻ったら、すぐに休んで下さい。冷やさないように、温かくするんですよ。

 眼鏡さんにくどくど言われながら廊下を歩いた。最近の従者達は、一人を除いて皆オカン化してきている。




 それから二年は、本当にあっと言う間に過ぎた。



 難しい読み書きにも慣れ、今では代々の女神様が残したという手書きの本も少しずつだけど読みすすめている。『知識の書』は、一部の高位司祭しか閲覧を許可されない門外不出の秘伝らしい。

 読み進めるうちに、やっぱり私が選ばれたのは何かの間違いだと思った。

 代々の女神様の知識は、もの凄かった。今まではその道の専門職スペシャリストばかり、降臨してきたみたい。

 記されてる計算式はちんぷんかんぷんだし、分かりやすく説明しろって言われても無理! こっちはドイツ語かな? 医学用語みたいだけど、もちろん読めません。自動車の設計図ってことは分かっても、模型なんて組み立てられない。


 司祭様たちは、首をひねってばかりの私を見ても、怒ったりはしなかった。

 だけど中にはやっぱり、落胆の表情を浮かべる人もいて、期待に応えられないもどかしさにこっそり涙したりした。

 というか、主にエーリクに泣かされた。

 

 私のストレスが貯まってくると、絶妙なタイミングでやってきてチクチク図星を指してくるんだよ、あの人。性格が悪すぎるし、センサーが優秀すぎる。

 複雑な設計書をなんとか読み解こうと、机にかじりついているところへその日も彼はやってきた。


「睡眠不足です。いい加減きちんと寝てください」

「寝てます」

「侮られるのがくやしいのですか? ですが姫様。最初から誰も期待してないと思いますよ。なんといっても歴代最年少なんですから」

「それでも、頑張らなきゃ。今はまだ、私が女神なんだから」

「頑張る、頑張るで空回りして体調を崩せば、より周りの迷惑です」

「うるさい! 言われなくても分かってる!」


 八つ当たりした挙句、子供みたいに泣く私を、慰めもせずにただ放置するのがエーリクのやり方だ。

 私が突っ伏して号泣してる間、彼は黙って隣に腰掛け、本を読んだりしてる。ほんと並みの神経じゃない。疲れて泣き止むと、街で仕入れてきたらしい飴をくれる。甘いものに目がない私は、その飴を断れた試しがない。



 婚約が決まってからというもの、アキラちゃんはものすごく多忙になったようだ。

 カイスベクファ語を習得したり、外交について勉強したり。政略結婚というからには、アキラちゃんはミレルの代表として隣国に乗り込むことになる。その為の武器は、多ければ多いほどいい。

 せっかく定例化しかけていたお茶会は、あっさり中止になった。


「次に女神様へお目通りしに来られるのは、正式な婚姻が決まった時でしょう。一の姫様の輿入れの際には是非、女神様自ら祝福を授けて差し上げて下さい」


 大司祭様に告げられ、私は黙って頷いた。

 彼がこういう言い方をするのは、もう動かない決定事項を知らせる時だ。ここに来て三年。それくらいは判別がつくようになっていた。


 実の姉妹なのに、ここまで隔たれなければならない理由が私には分からない。

 イソラは「会えずとも、いつもアキラ様はミヤビ様のことを想っていらっしゃいます」と慰めてくれる。

 ……それが本当ならどんなにいいか。



 アキラ姫へ


 十六の誕生日、おめでとう。

 もう十六歳なんだから、アキラちゃんって呼ばれるのは気恥ずかしいかな。

 これからは、アキラ姫って呼ぶようにします。

 随分背が伸びたと、イソラから聞きました。背比べしたら、もう負けるかも。

 いつか私が、女神様にふさわしいお仕事が出来るようになったら、アキラちゃんと一緒にまたお茶を飲みたいです。

 第二神殿の執務室の明かりが、遅くまで灯っている時、アキラちゃんも頑張ってるんだなってすごく励まされます。体にはくれぐれも気をつけてね。

 アキラ姫の一年が、今年もまた祝福に満ちたものでありますように。



「これ、アキラちゃ……アキラ姫に」


 イソラにそっと渡す。彼の整った笑みが崩れることはない。


「確かに、お預かりしました」


 アキラ姫は何て言ってますか?

 尋ねたい気持ちを胸の奥底に押し込め、期待したらダメだと自分に言い聞かせる。姉への手紙を綴っている時が一番心が落ち着くんだから、これは自分の為にやってることだ。


 

 そんなある日、私は書類の確認に手間取り、執務室を出るのが遅くなってしまった。

 結局夕食も運んできて貰って控え室で食べる羽目になったし、その日の近侍であるエーリクには散々嫌味を言われた。


「安請け合いはいかがなものかと。ご自分の限界を弁えられるべきです。姫様は目が疲れやすく、字を追うのが遅いのですから」

「明日は礼拝だし、その次には持ち越せないやつだって言われたの。遅くまですみませんでしたね」

「はぁ」

「聞こえよがしのため息つかないで!」


 代わり映えしない言い合いをしながら、執務室を出る。

 二階の外廊下を歩いているところで、ふとエーリクが歩みを緩めた。

 彼の視線の先を辿ると、第二神殿(トフェ)へとひと組の男女が戻ってくるところだった。すぐには中へ入らず、仲睦まじげに寄り添い見つめ合っている。

 もうすっかり遅い時間だ。デート帰りかな? いいなぁ。微笑ましい。


「行きましょう」


 なぜかエーリクが私の視界を遮るように前に立った。

 『このポンコツめ、人の恋路に関わってる場合か』とでも言いたいの? 実際には何も言われてないのに、疲れていたこともあってカチンときた。

 無言でエーリクを押しのけ、手すり越しに覗いてみる。


 

 仲睦まじいカップルは、イソラとアキラ姫だった。


 見たこともない蕩けるような笑顔で、イソラはアキラ姫の髪に触れていた。

 少しだけ首を傾け、彼女のほつれた横髪を、耳にかけてあげてる。その仕草全てが甘かった。

 アキラ姫はすっかり大人になっていた。小さな可愛いお姫様じゃなくなっていた。きつい表情ばかりが印象に残っている姉の、心からの笑みを私はその時、初めて見た。

 全幅の信頼を預けた幸せそうな表情で、アキラ姫はイソラの手に頬を寄せる。イソラが何か気の利いたことを言ったのだろう。姉は声を立てて笑ったみたいだった。

 イソラもそんなアキラ姫を見て、嬉しそうに頬を緩める。年上の物静かな教師の面影は、どこにもなかった。


 全身の血が引いていく。

 イソラへの淡い片恋が砕け散った瞬間でもあり、自分の異質さに気づいた瞬間でもあった。


 大切な主ってだけじゃなかったんだ。イソラは、アキラ姫を愛してる。

 イソラと並んでも不自然じゃない女性に、姉は近づいていた。年を、取っていた。


 とっさに後ろのエーリクを振り返り、まじまじと彼を見つめる。

 シルバーアッシュの髪も、アイスブルーの瞳も、初めて会った頃のままだ。

 だけど、やっぱりエーリクも三年分、年を重ねていた。凛々しい面差しはそのままに、少年じみた尖りが薄れ、代わりに成熟した色香が加わっている。

 どうして今まで、気づかなかったんだろう。


 ――『不老は女神様の秘蹟のひとつにございます』


 大司祭様は一番最初に説明してくれてたのに、今の今まで、深く考えようともしなかった。信じられないことに、すっかり失念していた。私だけがずっと十八のまま、神殿に取り残されていく。


 私は過去も未来もない、記憶さえ曖昧な女神様というわけだ。なんて滑稽な存在。

 アキラ姫と厳密には姉妹と言えない。そう厳かに宣告してきた大司祭様は正しかった。



「本当に苦しい時は、泣かないんですね」


 珍しく途方に暮れた声で、エーリクは言った。

 私を泣かせるのが生きがいだから、がっかりしたのだろうか。


 女神という肩書きが要求してくる代償に、私は激しく打ちのめされていた。

 痺れるほどの痛みに、涙は出なかった。




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