1.孵化
目覚めた私を出迎えたのは、むせ返るほどの芳香を放つ花々と大歓声だった。
古代ギリシア風の白いドレスを身にまとったお姉さんたちが素早く駆け寄ってきて、白銀のローブを肩にかけてくれる。そういえば私、丸裸だったっけ。
恥ずかしいと思う間もないほどの早業で、お姉さんたちはそのローブを私に着せていった。最後に胸の下を幅広ベルトで締めると、無言のままサッと後ろに下がる。
代わりに進み出てきたのは、立派な風采のおじいさんだ。
白髪と黒目に懐かしさを覚えた。温和そうな面差しに、僅かに残っていた警戒心が解ける。
おじいさんは私の前に両膝をつくと、深々と頭を垂れた。
「初めまして、女神様。私は、エーランド・ヘンネベリと申します。ここミレル神聖国の神殿で大司祭をつとめさせて頂いておる者です。貴女様を心よりお待ちしておりました。我らの請願を聞き届け、降臨してくださったことに深く感謝致します」
大司祭さんが長々しい挨拶を終えると、辺りから賛同するように大きな拍手が起こる。
熱狂的な音が静まるのを待って、エーランドさんは再び口を開いた。
「目覚めたばかりでさぞお疲れでしょう。すぐに女神様の部屋にお連れします。その前に、一言お言葉を頂いてもよろしいでしょうか?」
壁だと思ってたものは、巨大な花の花弁だった。
どうやらこの牡丹に似た花から、私は出てきたらしい。
円状の開けた空間にずらりと並んだ人々は、期待に満ちた眼差しで私を仰ぎ見ている。
……状況は曖昧にしか掴めないけど、女神って私のことだよね?
女神の降臨を、みんなで待ってたってことだよね。
女神っぽい所作なんて分からない私は、おじいさんを手招きしてみた。
この中で一番偉い人っぽいし、分からないことは聞いてみればいいか、という軽い気持ちで。
皺くちゃの顔に歓喜の色を浮かべたエーランドさんは、いそいそと体を起こし、近づいてくる。
「おお!」「真っ先に招かれるとは、流石は大司祭様」
両膝をついていた人達の間から、感嘆の声が上がった。
「なんて言えばいいんですか? 決まりってありますか?」
ひそひそ声で聞いてみると、エーランドさんは好々爺じみた笑顔で、小さく首を振った。
「いいえ、特には。ですが、お困りでしたら【全てはここにいるヘンネベリに委ねます】と言って頂ければ、女神様の善き様に取り計らうことは可能でございます」
そんなんでいいの?
拍子抜けした私に、エーランドさんは優しく言い聞かせる。
「後ほど説明致しますが、代々の女神様がそうしてこられました。大司祭とは、女神様の代行者を指すのです。どうかこの私めに、その栄誉をおさずけ下さいませ」
耳障りのいい落ち着いた声を聞いているうちに、胸の中がほっこり温まった。
知ってる。この声を、私は知っている。
一番多く祝詞をあげてくれてた人だ。
親しみが一気に押し寄せ、ほうっと息をつく。
女神とはいえ、私は自分の肩書きしか知らない。
ここで何をすればいいのかも分からない。
知り合いだって誰もいないし、そもそも何でここにいるのかも――。
「女神様?」
エーランドさんは心配そうに眉をひそめ、私の顔を覗き込んできた。
やばい。なぜか急にネガティブ思考に襲われてしまった。そんな些細なことに気を取られてる場合じゃないよね。私は女神なんだから、しゃんとしないと。
「大丈夫です」
こくりと頷き、周りを見渡す。
それから出来るだけ大きな声で、宣言した。
「全てはここにいるヘンネベリに委ねます。皆さんの上に豊かな祝福がありますように」
後半は完全なアドリブだ。
祝福を与える女神様イメージで言ってみたんだけど、どうかな。
エーランドさんに視線を送ると、満面の笑みが返ってきた。褒められたみたいで嬉しくなる。
私の言葉に、再び大広間が湧いた。
「我らが女神に栄光あれ! 我らが女王に栄光あれ!」
繰り返される寿ぎの声に、深い満足を覚える。
正しいことをしてるという感覚が胸を満たした。
私は、選ばれたんだ。
こんなこともあるんだな~。あっちでは×××××ったのに。
――ん? 今、何を考えた?
あっちってどこのこと?
急にこめかみがピリピリ痛み始める。
痛む部分を押さえた私に気づき、エーランドさんが慌てだした。聞き取れないくらいの低い声で周りの人達に指示を飛ばす。背後に控えていた女性たちが再びやってきて、「女神様。どうぞ、こちらへ」と退出を促してきた。
え? 歓迎式は、これで終わり?
不安に襲われ、エーランドさんを目で探す。
「じきに大司祭様も参ります。まずは、お部屋で御身を休ませて下さい」
急かされるように大広間を出た。
だだっ広い廊下に足を踏み入れた瞬間、鋭い視線を背中に感じる。振り返らずにはいられない物騒な気配だった。
振り返った先には、年若い少女がいた。
煌びやかなドレス姿の彼女の視線は、こちらにはない。少女は挑むように、私が出てきた巨大な花を見つめていた。
豪奢な調度品で整えられた大きな部屋に案内され、寝台に横たえられる。
ふかふかのクッションを背中に当てられ、立派な羽団扇であおがれた。待遇の良さにびっくりして、そうか、女神様になったんだっけ、と思い直す。
女性たちがやんわりとした涼風を送ってくれる度に、花のいい香りがした。
蕾の中で嗅いでいたのと、同じ香り。
出処を探ろうと部屋を見渡せば、ローテーブルの上に小ぶりの香炉が置いてある。どうやらそこでお香を焚いてくれてるみたい。
「この香り、好きです。心が落ち着きます」
さっきまでの不安感とこめかみの痛みがスーッと引いていく。
「ありがとうございます」と扇を持った女性にお礼を言うと、いきなり土下座された。
「どうか、私どものことは動く人形とお思い下さいませ。女神様に丁寧な言葉を使われるような身ではございません」
う、動く人形!? そんなこと思えないよ!
慌てて体を起こし、なんとか宥めてみようとするものの、私の言動にますます彼女たちは萎縮してしまう。
困りきったところに、エーランドさんがやってきた。
エーランドさんが顎をしゃくると、女性たちはあっという間に部屋から消えていった。は、はやい。軍隊顔負けの統率力に唖然とする。
「ごめんなさい。私が変なこと言っちゃったみたいで」
「とんでもない。女神様には何の非もございません。あの者たちは女官です」
「女官?」
「ええ。女神様の身の回りの世話をする為に存在する者。女官は仕事に喜びを見出します。好きにやらせておくのが、一番いいのですよ。そもそも女神様とあの者たちでは身分が違いすぎる。どうかそのことをお心にお留め置き下さい」
エーランドさんの言うことはいちいち時代がかっていて、いまいちピンとこない。
「じゃあ、私は一人ぼっちってこと?」
気づけばそんな言葉が口をついて出ていた。
エーランドさんは大きく目を見開き、それから「いいえ」と力強く否定してくれた。
「女神様には、血を分けた姉妹がいらっしゃいます。いずれ会うこともできましょう。今日の儀式にも立ち会っておいででした」
「そうなんですか!?」
心細さが一気に霧散した。
良かった~。
女神になったはいいものの、知ってる人が誰もいない初めての土地で上手く暮らせる自信なんてないよ。女官さん達には早速距離を置かれちゃったし、無性に寂しい。
「どんな人ですか? ってことはその人も女神様?」
二人制で交互にお役目を果たす感じなのかな。
「いいえ。一の姫様は先代女神さまがこちらでお産みになった御子にございます。女神様は二の姫様ということになりますが、かの国から遣わされた方こそが本来の女神。我がミレル神聖国の女王は、貴女様でございます」
また難しいこと言い始めた……。
考えようとするとさっきみたいに頭が痛くなりそうで怖い。気になることだらけだったけど、おいおい分かっていくこともあるだろう。私はすっぱり割り切ることにした。
「とにかく、私にはお姉さんがいるってことですよね?」
「はい」
「お名前は? っていうか、私の名前は?」
そうだよ。今まで気付かなかったのが、どうかしてる。
自分に名前がない、と認識した途端、お腹の坐りが悪くなった。
女神様一択じゃないよね。
個人名なしは流石につらいんですが……。
「一の姫様はアキラ様とおっしゃいます。女神様は」
エーランドさんは、微かに唇の端を曲げた。
「ミヤビ様という名を継承されております。先代女神、つまり女神様の母上もミヤビ様という名をお持ちでした」
世襲制なのか。
お姉さんからみたら、お母さんと妹が同じ名前ってことだよね。ややこしくない?
「我が国の決まりですので、どうかご容赦を」
私が気分を害したと勘違いしたのか、エーランドさんはその場に両膝をついた。
ぎゃー! 待って、ちょっと待って!
「私、怒ってないです!」
慌ててエーランドさんを宥め、なんとか普通に座ってもらうことに成功。
……もしかしてこの先ずっとこの調子なのかな?
思ったことを言っただけで、平伏される、慌てて宥めるの繰り返しなんですけど。
先代女神はどこへいったのかとか、私の役目は何かとか、聞きたいことは沢山あったのに、たったこれだけのやりとりで私はすっかり消耗してしまった。
ぐったりとクッションに身を預けると、エーランドさんは「さもあらん」という顔をしてる。いやいや。おじいさんのせいでもありますよ。
「女神様は3年もの間、蕾の中でお眠りでした。今はどうか、御身をこの世界になじませることに専念下さい」
「……その方がよさげですね。エーランドさんのことは、何て呼んだらいいですか?」
「私のことは、肩書きでお呼び頂ければ」
「じゃあ、大司祭様で」
少なく見積もっても50は年上のおじいさんを呼び捨てには出来ない。
また「恐れ多いぜ土下座」が始まったら嫌だな、と思いながらも言ってみたら、すんなり了解された。
女神である私に「様」呼びされるのが当たり前って感じだった。
やっぱり大司祭様がこの国で一番偉い人なのかも。
そんな偉い人が目の前にいるっていうのに、ふぁあ、と欠伸が出てしまった。
慌てて口を両手で塞いだけど、ばっちり聞かれちゃったみたい。
「やはりお疲れのようですね。本日はこのままお休み下さい。御用の際は、そちらの水晶珠に触れていただければ、すぐに女官が参ります」
大司祭様が指し示したのは、ベッド脇の正方形のテーブル。その上にはガラスの水差しとコップ、それから艶々と光る丸い水晶玉が置いてあった。
「あれですか? あんなんで、人が呼べるんですか?」
「ええ。感知魔法がかけられておりますので」
さも当然そうに答えた大司祭様に、私はその日一番の驚きを味わった。
だって、魔法って言ったよ!
この世界には、魔法があるんだ!
前のめりで、私にも使えるか聞いてみた。
「代々の女神様方が魔法を行使したという記録はございません。もしや、お使いになれるのでしょうか?」
目をキラーンと輝かせた大司祭様には申し訳ないけど、使えないと思う。そもそもやり方だって分かんないし。
気を取り直した大司祭様からも「女神様からは魔法力を感じません。女神様の国では、別の理が働いておるのでしょう」と言われてしまった。
残念!
それにしても魔法がある国なのに、あんまり近代化されてないっぽいのが不思議。
部屋の内装もみんなの服装も、やけにクラシックだし。
電気と水道は通ってるみたいだけど、こんなものなのかな。文化の違いってやつかも。