12.リセット
遠くから祝詞が聞こえる。
気づけば、再び自室の寝台の中だった。
意識が戻った途端、エーリクを目で探してしまう。すっごく慌ててたよね。もう大丈夫だよ、って安心させてあげなくちゃ。
ところが枕元にいたのは大司祭様だった。痛みは消えたけど、まだ頭は重い。
――私、なんで急に倒れたんだっけ?
時間を飛び石ジャンプしたような不思議な感覚に襲われる。
「……エーリクは?」
「今は席を外しております。処置が終わり次第、すぐにお呼び致しましょう」
そう言って、大司祭様は傍らの高位司祭へと目配せした。
『知識の書』を読む時についてくれる司祭様だ。女官の姿はなく、彼が私を起こしてくれた。背中にクッションを当てられ、お水の入ったコップを持たされる。
「次はそちらを」
言われるがままに、コップの中の水を飲み干す。レモン水かな? 爽やかな酸味がスッと喉を潤していく。部屋を満たすいつもの甘い香りが、鼻腔をくすぐった。
全身のだるさが薄らいでいくのが分かる。
「美味しいです」
「それはようございました」
にっこり微笑み、大司祭様は「ランツ様に何か酷いことをされたのではないかと案じてしまいました」と続ける。それはない。エーリクは私の味方だ。だって彼は――
「まさか! エーリクは私に忠誠を誓ってくれたんです」
「……そうでしたか。他には?」
落ち着いた大司祭様の声に誘われ、するすると記憶の残滓が引き出される。
「エーリクのお兄さんって変わり者なんですって。だからエーリクが神殿に来たんだって言ってました。あとは、私が初心なお子様だって……他には。えーっと」
思い出そうとすればするほど、彼との細かなやり取りが煙のように消えていってしまう。色んな話をしたはずなのに、きちんと把握できないのがもどかしい。
私を見守る大司祭様の張り詰めた表情が、ふわりと和らぐ。
「なるほど。それから?」
「私が嫌がっても、止まれなくなるって。子供を産む話もしてたような……」
自分で口にした内容に、改めて恥ずかしくなった。
なんだよ、エーリクめ! 急に色気づきやがって!
大司祭様と高位司祭様は顔を見合わせ、安心したように頷きあった。
「それで女神様は驚かれてしまわれたのですね」
そうだっけ。……それだけじゃなかったような気もするけど、思い出せない。
消化しきれない引っかかりを感じながらも、コクリと頷く。これ以上考えるのは億劫だった。乗り物酔いに似た不快感が、頭をグラグラ揺すってくる。
「効用が強すぎたのかもしれません。アレはもう下げた方がよろしいかと」
「そうだな。処分しておきなさい」
大司祭様の言葉に頭を下げ、高位司祭様が寝台から離れていく。
アレって、何だろう。どこへ行くのか気になって見ていると、視線の先に大司祭様が移動してきた。
「夜も遅いことですし、今夜はこのままお眠りになって下さい」
「でも、エーリクが」
「朝には会えます。どうかご案じめされますな」
大司祭様は私の額に手をかざし、祝詞を唱え始めた。
古語で紡がれるその祝詞の意味は、私には分からない。蕾の中で耳にしたのと同じものに聞こえるけど、違うかも。低く響く長々しい祝詞に、自然と眠気が誘われる。
「……心配しないでってエーリクに伝えて下さい。ごめんね、って」
大司祭様は祝詞をあげながら、分かったというように頷いてくれた。
良かった。エーリクが自分を責めたら可哀想だ。彼のせいじゃないのに。私の心が××いから悪かったのに。瞼を閉じ、心地よい闇の中を揺蕩う。
――貴女がただの村娘でも、私は守りたいと思ったでしょう。私にとって、姫様はそういう存在です
眠りに落ちる寸前、ようやく思い出せたエーリクの言葉に私は小さく微笑んだ。
村娘でもって。もっと他の言い方なかったのかな。ほんと、不器用なんだから。
次の日の朝。
エーリクが蒼白な顔で駆けつけてきた。朝食の給仕をしていた女官たちは、彼の姿を見ると無言のまま頭を下げ、部屋から出て行く。
「姫様!」
「エーリク、おはよー」
挨拶すると、エーリクは気が抜けたように立ち尽くしてしまった。昨夜はかなり心配させてしまったみたい。悪かったな、と素直に思う。
「大司祭様から伝言聞かなかった?」
「……聞きました。女神様は怒っておられない。衝動は仕方ないが、女神様を壊すような真似はくれぐれも慎むように、と」
微妙に私が言ったこととは違うけど、大体合っている。
「エーリクだけ三年も禁欲生活してたわけだから、しょうがないとは思うけど、やっぱりそういうのって好きな人同士でするものだと思うんだよね。だから、もうちょっとこう、仲良くなってからというか」
言ってるうちにめちゃくちゃ恥ずかしくなってきた。
真っ赤になった私を見て、エーリクは薄く口を開け、それから絶望したかのように凛々しい瞳を歪ませた。思ってもみない反応に、私の方が驚いてしまう。
「……エーリク?」
「いえ」
エーリクは何度も頭を振った。子供みたいな幼い仕草に、つい微笑んでしまう。
「ねえ、こっちに来て。朝食は食べた? まだなら一緒に食べようよ」
いつも食べきれないほど沢山の種類の皿が並ぶのだ。エーリクが手伝ってくれれば、お残しが減るかも。テーブルについたまま手招きすると、無言のままエーリクがやってくる。
しょんぼりと項垂れたエーリクなんて、初めて見た。庇護欲に似た愛おしさに胸をくすぐられる。
「姫様は、何も覚えていらっしゃらないのですね」
私の隣に座ったエーリクは、食が進まないみたいだった。お腹、空いてないのかな? 顔を覗き込むと、苦しげにそんなことを言う。
「覚えてるよ。エーリクは私に忠誠を誓ってくれた。村娘でも私を守るって言ってくれた」
「……それだけですか?」
「他にもあったっけ?」
体調が良くなかったせいか、上の空だったみたい。ごめんね。
申し訳なくなって謝ると、エーリクは唇をへの字に曲げた。泣くのを我慢してるみたいな悲しそうな表情に、私まで泣きたくなってくる。
「ごめん。泣かないで。ね? 次はちゃんと聞くから」
「泣きませんよ」
男のプライドが傷ついたのか、エーリクはキッと私を睨みつける。それから視線を食事に固定し、強く拳を握り締めた。
「貴女をやすやすと渡してしまった自分が許せないだけです。……医師など、第一神殿にはいない。そうか、今までの治療も、全部……くそっ! もう二度と、こんな舐めた真似はさせない!」
ぶつぶつ言っていたかと思うと、なにが逆鱗に触れたのか、エーリクは急に激怒し始めた。大丈夫なんだろうか。
それに、舐めた真似ってどういう意味?
気になって追求したものの、エーリクは頑として教えてくれなかった。
「姫様の状態を甘く見積もっていた私の失態です。本当に、申し訳ありません」
逆に深々と頭を下げられた。
やっぱり手を出そうとして、やり過ぎてしまった系なのかな。私がよく覚えていないのは、恥ずかしさのリミッターが振り切れてしまったから、で合ってるの?
「私がいいって言うまで、もう手は出さないでね」
念を押すと、エーリクはきっぱりと頷いた。
「約束します。ですから、どうか私を遠ざけないで下さい」
「それはないよ」
従者の皆とこれから一緒に頑張っていくって決めたばかりだ。
もちろんエーリクにも協力して貰いたい。
「夜もお傍に置いていただけますか?」
「ええっ?」
それとこれとは話が違うと思います。
再び真っ赤になった私に、エーリクはしつこく強請ってきた。
絶対に何もしない。傍を離れると不安なだけだから。繰り返し訴えてくるエーリクに、とうとう根負けしてしまう。
どうしてここまで必死になるんだろう。
不意に浮かんだ答えに、変な汗が滲んできた。
「はいはい、分かったよ。エーリクって、もしかして私のこと好きなの? そんなにムキになっちゃって」
全部冗談にしてしまえ。
高鳴る心音に耐え切れず、わざとからかう。
そんなわけないじゃないですか、自惚れないで下さい。いつも通りのそっけない返事を期待した。
エーリクは切れ長の瞳を切なげに細め、否定も肯定もせず、テーブルの上の皿を引き寄せた。
「野菜料理ばかり残ってますね」
「気のせいです」
「姫様も食べてください。はい」
「やめて、私のお皿に入れないで!」
「きちんと食べるまで、終わらせませんよ」
うう……エーリクめ。
結局、バランスよく全部の料理を食べさせられてしまった。
真顔で「私の手で食べさせて欲しいのですか?」とか言ってくるんだよ。
破壊されそうな力で顎を掴まれる未来が見えた。泣く泣く全部食べた私に、エーリクは飴をくれた。騎士服のポケットには、必ずいくつか忍ばせているらしい。保父さんみたいだ。
急に過保護になったエーリクに昼も夜も世話を焼かれ、すっかり元気になった私は、積極的に公務に取り組むことにした。
今までは大司祭様の指示通りに動いていたけど、それじゃだめだという固い決意が湧き起る。
急な心情変化は自分でも不思議だけど、大司祭様を無条件で信用するのはどうかと思うようになっていた。彼はあまりにも色んなことを隠しすぎる。女神としてただ神殿にいればいい、という大司祭様の意向は、今の私には受け入れがたいものだった。
『知識の書』の解読時間を減らし、代わりに勉強の時間を増やす。
ミレルの現状をきちんと知りたかった。国民が苦しんでいるのなら、その苦しみを減らすのが女神としての責務じゃないんだろうか。
だけど私には、あまりにも知らないことが多すぎる。今のまま何かを決めることは怖くて出来ない。強く主張する私に、密かに賛同してくれたのは意外にもイソラだった。
「こちらの書類は、審議会で意見が分かれ保留になっている案件です。ミヤビ様の判断を仰げれば幸いです」
「イソラ……こんなことして、大司祭様に叱られない?」
「ミヤビ様さえ黙っていて下されば、うっかりで済むのではないでしょうか。私も最近、疲れが溜まっておりまして」
平然とした顔でそんなことを言うイソラに、思わず噴き出してしまう。
「忙しいのはカイスベクファとの国交が正常化したせいかな? 大量の支援物資が送られてきてるみたいだね。王都以外の場所にも、きちんと届くように手配されてる?」
「なかなか難しいようですが、ミヤビ様が指示して下されば正式な書類をお作りすることは出来ます」
「うん。ちょっと考えてみる。各地の食料事情が分かる資料があれば、揃えておいて」
「畏まりました」
残念なことに、時間にも体力にも限りがある。キャパを超えて仕事を抱えこみ、潰れてしまっては元も子もない。
従者たちはもう控え室にはいない。執務室で私と一緒に頑張ってくれている。
「エーリク。カミーユを呼んでくれる? あと、ジョルジュも」
事務仕事が得意なカミーユには資料の読解を、神殿に独自のネットワークを築いてるジョルジュには地方出身の女官たちからの聞き取りをお願いした。実家に仕送りしている子も多いらしいので、その辺りから問題点が見つかるかもしれない。極端に貧しい地域があるなら、最優先で支援しなくては。
「僕たちも何か役に立ちたいです」「私にも仕事を振って下さい」
うずうずしてるフォルとサイラスには、街での噂話の聞き込みを頼んだ。神殿に閉じこもりっきりの私には、市井の声はなかなか届いてこないのだ。不平不満を中心に拾ってきて欲しい、と説明する。
「衛兵に見つからないようにね。見咎められたら、私のお遣いでケーキ屋さんに行くことにしたらいいよ」
「それは、お土産に買ってこいってことですか?」
フォルが悪戯っぽく瞳を輝かせる。
「好意を無碍にするつもりはないかな」
にんまり笑みを浮かべて返すと、フォルとサイラスは勢いよく飛び出していった。
すぐ隣で書類の仕分けを手伝ってくれていたエーリクが、じっと私を見つめる。
「ん? どうしたの?」
「姫様って、意外と人たらしですよね」
「そうかな。……それって悪口?」
「いえ」
エーリクはそれっきり口を噤み、黙々と書類を分けていく。緊急のものと、祭礼関係のものと、政務関係のものに。
応接テーブルで資料に目を通していたカミーユが、堪えきれないように笑いだした。
「ランツ殿。もっと分かりやすく言わねば、ミヤビ様には伝わりませんよ」
「どういう意味? やっぱり悪口なんだね」
遠まわしの嫌味は止めてって言ったのに!
文句を言うと、エーリクに鼻をつままれた。それを見てますます笑ったカミーユには、他の仕事も割り振ろうと決めた。
アキラ姫の婚約のおかげで、カイスベクファ側からは様々な援助の申し出が来ている。
中でも、街道整備の技術的支援は、すごく魅力的な申し出だった。
道路がきちんと整備されてるのって王都だけで、それ以外は酷いみたいなんだよね。そのせいで、国の隅々まで物流が上手く流れない。
ミレルでは馬車が移動手段の主流だけど、カイスベクファではもう自動車が走ってるんだって。大きなトラックで荷物を運べるようになれば、農村部から一度に沢山の作物を買い上げることも出来る。商業的に大きく発展すると思うんだけど、どうだろう。
カイスベクファにこれ以上の借りを作りたくない神殿派と、国民の生活改善を最優先に考えるべきだという反神殿派で、なかなか結論が出ないみたいだった。
「エーリクはどう思う? そりゃ自国だけで整備するのが一番いいと思うけど、そんな余力なさそうだし」
「私は賛成です。ただ、急に好意的になりすぎてるという懸念はありますが」
「カイスベクファが? それはアキラ姫が積極的にあちらと交流を持ってくれてるからじゃないの?」
「ええ。……ですが万が一を考えても、民の疲弊は限界を迎えています。早急に動くのが肝要かと」
万が一というのは、カイスベクファ側がミレルを狙った場合を指すのだろう。
そうならないようにアキラ姫は動いている、とイソラは言っていた。姉は『女神の娘』であることに矜持を持っている。ミレルの為に最大限のことをしているはずだ。
「だよね。うん、決めた。承認しよう」
アキラ姫の毅然とした姿を思い出し、私は羽ペンを取った。
フォルとサイラスの話によれば、カイスベクファ側が止めていた石炭の輸入が再開されたこともあって、飛躍的に暮らしが向上してきているらしい。着々と道路工事は進み、雇用も増え、国中が活気づいているという。
「一の姫様の人気は、それはすごいものですよ。これまで誰も出来なかったことを、アキラ姫がなされたと、皆口々に褒めてます」
どこか不満げにフォルが報告するのを、納得しながら聞いた。
だって、その通りだ。アキラ姫が婚約話を受け入れたからこその現状だし、何も間違っていない。
私が答えると、サイラスまで顔をしかめる。
「承認されたのは、ミヤビ様です。大司祭様を抑え、民の為の施策を次々に打ち出しているのは、ミヤビ様ではありませんか」
「そんな大層なことしてないよ。イソラや皆の助言のおかげで、遅まきながら今のままじゃ大変なことになるって分かっただけ」
今だって、完全に手探り状態だしね。
私の決めたことが良かったのかどうかなんて、それこそ何十年もしないと分からない。
「素直に褒められて下さい。私たちはミヤビ様。貴女が誇らしくてならないのですから」
ペンだこの出来た私の指をそっと持ち上げ、ジョルジュが頬ずりしようとする。
「勉強に、執務に、どれほど懸命に取り組んでおられるか。私たちは存じております」
ありがとう。でも頬ずりは止めて。
私が手を引っ込めるより先に、隣にいたエーリクが容赦なくジョルジュの腕を叩き落とした。変な音がした。腕が! 腕が! 悶絶するジョルジュを無視し、エーリクは私の指をハンカチで丁寧に拭う。
「……カールステッド様も懲りませんね」
「彼のあれは病気みたいなものだから」
フォルとカミーユが顔を見合わせ囁きあうのを、私は遠い目で眺めた。