11.疑惑
歓談室での会食がお開きになった後、私はエーリクを部屋に呼んだ。
それを知った女官たちは慌てて私を湯浴みさせ、いつもより更に薄手の寝巻きを着せてきた。もはや服とも呼べない。こんなスケスケのネグリジェ姿で人を待ってたら、痴女じゃないか! 他の寝巻きがいいと主張したが、彼女達はいつものごとく怯えるばかりで話にならなかった。
それでも粘って、ショールのような大判の布をゲットした。
やってきたエーリクもすでに騎士服から着替えていた。
長袖シャツに、布ベルトでウエストを絞ったゆったりめのズボン。普段隙のない格好をしているからか、見てはいけないものを見たような気分になる。日中は整髪料で整えられている髪も、洗ったせいで前髪が眉にかかっていた。端整な容姿が、ほんの少し幼く見える。
エーリクは部屋に入るとすぐ、複雑な紋様の書き込まれたハンカチで水晶珠を覆ってしまった。それから、女官が新しく焚いてくれた香炉の線香を短く折る。
鋭い眼差しで部屋を見回した後、ようやく私の傍に来た。
「今の、なに?」
彼の一連の行動が気になり、真っ先に尋ねてしまう。
エーリクは私の肩からショールを取り上げ、ぐるぐると厳重に巻き直してから、私の隣に腰掛けた。彼もこのシースルー寝巻きは気に入らなかったようだ。ショールを貰っておいて良かった。
「その前に、確認させて下さい」
エーリクは私の瞳をまっすぐに覗き込む。真剣な光を帯びたアイスブルーに、私はごくりと息を飲んだ。
「私は姫様に忠誠を誓います。私が最優先するのは貴女の安全であり、命。ここまではよろしいですか?」
護衛騎士とは、元々そういうものだろう。
ここでもう一度はっきり宣言することで、目に見えない信頼を契約に変えるつもりなんだろうか。
「いいよ。私もエーリクを信じる」
覚悟を決めて、頷く。
エーリクは確かに意地が悪い。だけど、今ままで一度だって私を放り出したことはなかった。
泣かれようが詰られようが、エーリクはいつも私の傍にいた。ムカつくだの嫌味っぽいだの、私もずけずけ言い返していたのは、彼の揺るぎなさに甘えていたからだ。
「ランツ家は、旧王家の流れを汲んでいます。女神を除けば、最も王座に近い血筋の家ということです。もともと私は、女神の存在には懐疑的でした。人知を超えた存在が治めているというのに、ミレルは衰退の一途を辿っている。それは何故なのか。十八で家を出て、傭兵の真似事をしながら国中を旅しました。この国がどれほど危機的な状況にあるのか、実際にこの目で確かめたかったのです。王都以外の町や村の有様は、想像以上に酷いものでした」
エーリクの沈痛な声に、じっと耳を傾ける。
私は第一神殿から出られない。外の世界を全く知らない。ミレル神聖国の歴史を学ぶことすら許されていないから、どうして衰退してしまったのか想像もつかない。
正直に伝えると、エーリクはだろうな、という顔をした。憐れみを帯びた表情に、物悲しい気持ちがこみ上げてくる。落胆と同情。司祭や女官が時折覗かせる色を思い出した。
「二十二になった時、王都に呼び戻されました。私には兄がいるのですが、兄は変わり者で、日がな一日薬の研究をしているような男です。兄では駄目だと諦めた父に、命じられました。神殿に行き、新しい女神に仕えてこいと。今の神殿はどうもおかしい。お前自身で探ってこい、と」
「そうな……ええっ!?」
――つまり、エーリクはスパイってこと?
この人、正気か!
私は仮にも神殿側のトップなんだよ? 女神様本人に向かって「探りに来ました」とか白状してもいいの!?
ひとり慌てる私を見て、エーリクは薄く微笑む。
「本当にあなたが神殿の頂点に君臨し、この国を歪めているのでしたら、こんなこと口にしません。もっと他のやり方を取りました」
言葉の奥底にひそむ酷薄な響きに、鳥肌が立った。
消す気だ。この人、私のことさっくり消してしまう気だったんだ。
神殿側の実際の頂点には、大司祭様が君臨している筈。これまでずっと養父のように慕ってきた大司祭様の顔が浮かび、私はどうしていいのか分からなくなった。
「……エーリクは私の味方だよね? 信じていいって言ったよね?」
「女神の、ではありません。私は貴女個人に忠誠を誓ったのです」
どう違うんだ。
混乱する私を宥めるように、エーリクは表情を和らげた。
「ピオニーから出てきた貴女は、若く美しかった。魔性を帯びた瞳で、あっけなく大司祭殿に全権を委ね、自らは守られた花園でぬくぬくと暮らし始めた。私は貴女が怖かったのですよ、姫様。人を人とも思わない無邪気さが、恐ろしかった。ところが、実際の貴女ときたら――」
ジョルジュの夜這い事件を思い出したのか、エーリクはくすくす笑い出す。
「てんでお子様で、初心で。ぼんやりで、要領が悪くて、泣き虫で」
ミレルの現状を憂う話だったはずが、いつの間にか私の悪口大会になっている。エーリクの話術の巧さが憎らしい。
「悪かったね。エーリクの理想の女神様じゃなくて」
腹立ち紛れに言い放つと、エーリクは平然と頷いた。
「本当ですよ。こんな筈じゃなかった。他の従者を牽制したのも、完全に同情からでした。貴女みたいに情緒不安定な脆い人が、強引に手折られて無事で済むとは思えなかった」
なるほど、やっぱりか。
一目惚れでした、なんて言われたらグーで殴ってるところだった。
周りが勝手に勘違いしたんだな。でも、同情だろうが何だろうが、正直助かった。エーリクは他人を見捨てられないお人好しだ。心の中で評価を上書きする。
「貴女が傲慢で、残酷な女神であれば、話は簡単だった。ミレルを鎖国状態に追いやり、国民を貧しさに沈めたまま平然と過ごす女神であれば。……貴女は確かに人ではないのでしょう。不老がそれを証明している。ですが、それだけだ。狭い箱庭に囚われてなお、自分に出来ることを自分なりに懸命にこなそうとあがいている、ただの女性です」
それ、前にも言われた覚えがある。
その時の私は、次の女神に期待しろと言い返した。つまりは、自分の娘に。
無責任にもほどがある。無知は罪だ。
情報を遮断されていることには気づいていた。
国の成り立ちすら、調べることは許可されない。大司祭様は、女神の神性が失われるのをものすごく恐れている。『世俗の澱に毒されてはならない』という彼の忠告を、私は鵜呑みにしてきた。
薄々おかしいと思いながらも、大司祭様の盲目的なまでの信仰心を、悪い風に受けとりたくなかった。彼が私を女神として招いたのだ。ミレルの為に。それだけは確信できる。
「貴女がただの村娘でも、私は守りたいと思ったでしょう。私にとって、姫様はそういう存在です」
つまりは、どういう存在?
エーリク的に私は女神じゃなくて、村娘ってこと?
彼の話は遠回り過ぎて、言いたいことがよく分からない。
「それは、ありがとう、でいいの?」
「今はそれでいいですよ。姫様の単純な頭では、いっぺんに処理できないでしょうから」
「またさらっと悪口ぶっこんできた!」
エーリクの肩を叩き、無理やり話を元に戻す。
「つまり、エーリクの家は反神殿派ってことね。だけどエーリクは私の味方になってくれた。ここまでは合ってる?」
「概ねは」
「水晶球を隠したのは、感知魔法を警戒したから?」
「はい。感知魔法以上の探索魔法がかけられていたらこの会話も筒抜けです。一時的に無効化させて頂きました」
当ててきやがった、意外! みたいな顔やめて。エーリクの中の私って、どれだけ阿呆なの。否定しきれないのがまた辛い。
「線香を折ったのはどうして?」
エーリクは眉間に皺を寄せ、「兄からの結果待ちですが」と前置きした。
「姫様は時折、著しくぼんやりされることがありました。最近では少なくなりましたが、お仕えしてすぐは特に酷かった。急に無表情になったかと思えば、部屋に戻ってしばらくすると、今度はやけに明るくはしゃがれたり。ご自身の立場に疑問を感じても、夕方には感じたことすらお忘れになっていたり」
……なに、それ。こわい。ちょっとしたホラーだ。
「そうだった? 全然覚えてない」
「よく考えてみて下さい。次代の女神が自分の娘であることすら、貴女は忘れていた」
「そう、だね」
「一の姫様の婚約が決まったと知った日、姫様は寂しいと泣きましたね。その時、私は上手く貴女を慰められなかった」
あれ、慰めのつもりだったんだ。嫌味にしか聞こえなかったわ。不器用にも程がある。
何でも卒なくこなすエーリクの、意外な欠点を見つけてしまった。
「姫様は、笑って仰った。次のミヤビ様にご期待下さい、と。誰ひとり閨に呼ぼうとしない姫様が、一体どうやって娘を成すつもりなのか。もしや女神とは、姫様が孕まずとも時期がくれば、ピオニーの蕾に降臨するものなのだろうか。しばらく混乱しました」
「ごめん……勘違いっていうか、忘れてたっていうか」
エーリクは手を広げ、短く折った線香を私に見せる。
「昨夜頂いた分は、兄に調べて貰っています。昼間近侍を外れたのは、家と繋ぎをつける為でした。結果が出るまで、香は一切焚かないで下さい。今夜のこれは、昨夜のものと色が違う。成分が異なるのかもしれません」
言われてみれば、昨日のエーリクは私の入室に気づかなかった。
今まで一度もなかったことだ。
「違う成分?」
「たとえば、媚薬や催淫効果のあるものだったら? 姫様が嫌がっても、私が止まれなくなるような」
薄手のネグリジェが今更ながら気になってきた。慌てて彼から目を逸らし、ショールをきつく掴む。
エーリクは短く息を吐き、腰をずらして距離を開けてくれた。
「怯えないで下さい。何もしません」
「分かってるけど、エーリクが怖いこと言うから」
「あくまで仮定です。さて、私は説明しました。今度は姫様の番だ。大司祭殿はなんと?」
私は必死に記憶を手繰り寄せながら、大司祭様とのやり取りを再現した。
「『今代の女神様は』……か」
エーリクは両腿に肘をつき、手を組んで考え込み始める。
「あと、私が産むのは女の子だって、確信してるみたいな言い方だった」
「なるほど。そういうことか」
エーリクは何かに思い当たったようにハッと顔をあげ、それから苦々しく眉をひそめた。
「女神が孕むと、父親候補である従者は全員お払い箱になるようです。身ごもった女神は、全ての公務から遠ざけられるとも聞きました。家の方で追跡したところ、神殿を下りた元従者は皆、神殿でのことはよく覚えていないと口を揃える。……それでも何とか調べた結果、分かったのですが」
声を一段低くし、エーリクは私を見つめた。
彼の痛ましそうな表情に、嫌な予感が背筋を這い登る。
「先代ミヤビ様の従者は、三度代替わりしたそうです」
すぐには頭が働かない。
一度目は、アキラ姫。二度目は、私。じゃあ、残りの一回は?
今神殿にいる女神の子は、二人だけだ。もう一人の子供は、まさか男の子だったの?
――その子は、どこへいったの?
女神につけられる従者は、五人。計十五人の男を相手にした先代女神が産んだのは。
消えた子供。去っていく従者。彼らは皆、よく覚えていないと口を揃えて――
柔和な大司祭様の顔が、ゆらゆらと揺れ、歪んでいく。
強烈な吐き気が胃を突き上げた。
前かがみになって口を押さえた私をみて、エーリクは青褪めた。
「姫様!」
失礼! エーリクは短く断ると、私を抱き上げ、洗面台まで連れて行った。
せっかく食べた夕食全部、排水口に戻してしまう。内臓が痙攣する気持ち悪さに、生理的な涙がぽろぽろ溢れた。エーリクの大きな手は、私の背中を絶え間なくさすっている。
「エーリク……エーリク」
「大丈夫です。御傍におります」
「私は大司祭様に喚ばれたんだよ、本当に。蕾の中にいる間も、ミレルを守って欲しいってずっと祈りが届いてた。……ねえ、女神ってなに? エーリクも、皆もいなくなった後、女の子が産まれるまで、ひたすら男と交わるのが、女神の最後の仕事なの!? 大司祭様、どうして。どうして!? ……ああ、嫌だ……いやーーーーっ!!」
強烈な恐怖に全身を揺さぶられた。
自分がなにを言ってるかも分からない。ただただ、恐ろしく悲しかった。暗い記憶の箱に施された封印が破れていくにつれ、頭の芯が鋭く尖がり、ビリビリと痺れる。
剥き出しになった神経は、茨のように脳を刺し貫いた。
「姫様、お気を確かに! 私が悪かったのです。くそっ、こんなに急ぐつもりは」
金槌を手にした小人達が現れ、私のこめかみを一斉に殴り始める。
やめて、頭が割れてしまう。あっちに行って!
「エーリク……頭が、痛い。痛いよ……」
エーリクはほんの一瞬躊躇ったあと、再び私を抱えて部屋を飛び出した。
何事かと女官たちが駆けつけてくる。
「医師を! 早く、医師を!」
人が違ったみたいに叫ぶエーリクの声が、次第に遠のいていく。
その後、視界は真っ暗闇に塗りつぶされた。