プロローグ
まず名前を捨てた。それから性別と生活を捨てた。
全く別の人間として生きることをまだ幼い少女は決意した。
大好きだった母親似の黒髪黒目も隠して生きることにした。
「お供しますよ。」
端麗な顔をした若い男は少女にそう誓う。
「本当にいいの?師匠は自由が好きなのに……。」
少女は男に尋ねる。男は少女の黒髪に触れながら言った。
「弟子が成長するまで傍にいるのが師匠の役目ですから。」
少女は男の腰に抱きついた。男は少女の耳元でささやく。
「ディアナ。これがあなたの名前を呼ぶ最後の機会です。もう私はあなた自身が名前を取り戻すまでこの名前を呼ばないことを誓います。」
少女もこんな風に彼に甘えるのは最後だと誓った。
少女はこれから役割を負って生きていく。顔も声も覚えていないあの人を見つけるまで。
少女、いや少年の名は……。
まだ肌寒く、布団の恋しい春の初め。
広大な土地に大きな屋敷の主人であるウィリアムは寝室で小さな寝息をたてていた。年は10代半ば、髪は綺麗な金色で、小柄な身体に細長い手足。華奢な少年という印象が強い。
その傍らではウィリアムの執事であるカーソンが立っていた。年はおそらく20代、黒髪に黒い瞳のせいか落ち着いた雰囲気がある。カーソンは懐中時計を片手に溜め息をついていた。
「さすがにそろそろ起きて頂かないと……。」
カーソンは主人の小さな肩を揺する。ウィリアムはうーんと唸って起きることを躊躇う。カーソンはウィリアムの耳元でささやく。
「坊っちゃん、もう起きて頂かないとあと一時間ほどで家庭教師の先生がみえられますよ?」
執事の言葉にウィリアムは飛び起きた。ウィリアムの肩まで伸びた金髪が大きく揺れ、青色の大きな瞳を見開いて執事であるカーソンの方を睨む。
「何故、もっと早く起こさなかった!?」
「申し訳ございません。二時間程前から起こしてはいたのですが、坊っちゃんが中々起きられなかったので……。」
「起きるまで起こさないと起こした事にならないといつも言っているだろう!?」
この大きな屋敷にはウィリアムとカーソンの二人きり。ウィリアムの教育に必要な家庭教師やパーティー等を催す際のメイドや給仕人等は外部から雇うことにしている。つまり、ウィリアムが寝坊して支度が遅れると外部の先生に迷惑がかかるのだ。それだけではなく屋敷の評判も落ちる。
ウィリアムはカーソンに怒鳴りながら急いで身支度をする。カーソンも執事としてウィリアムの身支度を手伝う。
「ですが、坊っちゃんは切迫した状況の方がお支度がお早いので、この時間に起こしても問題ないと判断致しました。」
カーソンはにっこりと笑う。そして、その証拠にウィリアムはいつもの時間的に余裕のある朝よりも半分以下の時間で着替えを済ませた。あとはカーソンがウィリアムの髪を整えるだけである。
「お前は主人にゆっくり朝食もとらせない気か?」
カーソンに髪をとかれながらウィリアムは皮肉を込めて尋ねる。
「朝食の用意は既に出来ていますよ。あとは坊っちゃんがどれだけ早く食物を胃に詰めれるかにかかっています。」
カーソンはにこにことしたまま答え、ウィリアムの髪を整え終わった。
そして、長い廊下をウィリアムとカーソンは早足で食堂へ向かった。
今日の朝食は季節の野菜をじっくりと煮込んだコンソメスープ、外はふんわり中はとろりと焼き上げたオムレツとさっくりした食感のバターの香りが濃厚なクロワッサンだったのだが、ウィリアムはほとんど味わう余裕もなく無理矢理口に押し込んだ。
「ふぁーふぉん、ふぁとふぁんふんふらいでふぇんふぇいふぁふぉふふぁふふふ?(カーソン、あと何分位で先生は到着する?)」
ウィリアムは口をモゴモゴさせながらカーソンに尋ねる。それを見てカーソンは小さな溜め息をつく。
「坊っちゃん、口に物を含みながらお喋りになるのははしたないですよ……。」
「ふぁふぇふぉふぇいふぁとふぉふぉっふぇるんふぁ!(誰のせいだと思ってるんだ!)」
ウィリアムは口の中の物が溢れないように手で押されなえながら怒鳴った。
結局、身支度と朝食を40分弱で終わらせて家庭教師を迎える頃にはウィリアムは既に疲労困憊していた。